旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

2019台湾下見~屏東のパイナップル

2019-09-01 16:00:00 | 台湾
2020年に企画している日本と台湾の関係に目を向ける旅第二弾のための下見旅より
↓駅ホームの柱もパイナップルをイメージしてこの色なのだそうだ↓

駅前広場には巨大なパイナップルを収穫する像。これを見るだけでこの地域でパイナップル産業がどれだけ重要なのかが伝わってくる。

高雄から南へ。
高屏渓という川を渡って屏東市に入り、竹田駅から電車に乗って屏東市にある九曲堂駅。


駅から三分でかつての工場事務所跡の資料館・お土産売り場↓
ここで詳しい解説がされている。

↓戦前の日本では台湾から缶詰パイナップルが大人気だった↓

★台湾のパイナップルは1895年に日本統治がはじまった時にはすでにあった。
だが、17世紀にオランダ人が南方から持ち込んだそれは酸味が強すぎてあまり売れなかった。
日本の会社が1903年にハワイの甘い品種を持ち込んで広大なプランテーションを建設していった。
↓台湾の原住民たちがその労働力だった。

山間部のプランテーションから工場や港までの輸送のために鉄道が敷設された。
1913年に鉄道を敷設した飯田豊二という人物の記念碑がある↓ここに葬られたと書かれたものもあった。

↓静岡県出身、1897年に二十三才で、日本統治がはじまったばかりの台湾にやってきた。
1913年にこの鉄道が開通する直前に台南で没した。
わずか四十歳。技師人生のすべてを台湾ですごした。

烏山東ダムを建設した八田與一の前にもこういう人があったのだ
※烏山東ダムを訪れた時の話はこちらからお読みください

インフラが整った台湾のパイナップル産業は飛躍的に発展した。
1935年(昭和十年)には全島で五十四もの会社が乱立し、原料パイナップルの値段が高騰してゆく。
国際的な競争力を維持するために政府が介入して「合同会社」の設立を主導。
一社を除く五十三社が買収に応じて「合同パイン」がスタートした。
↓「合同パイン」という不思議な商標にはそういうストーリーがあったのか↓

↑原料を安く買いたたくための談合会社が政府主導でつくられたようなもの?
パイナップル農園で働く人々の待遇はどうだったのだろう。

↓「合同パイン」以前の、各社の商標が載せられたパッケージがこれ↓

↑「ニイタカヤマ印」「タイガー印」「軍人印」など、たくさんブランドがあったことが分かる。


**
屏東には今も三千五百ヘクタールのパイナップル農園がある。
今では缶詰ではなく、もっと軽くて魅力的な商品が工夫されている↓

どれもなかなかおいしいのです(^.^)


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