旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

屋久杉自然館、ヤクスギランド

2017-03-06 16:55:59 | 国内

JRホテルから一時間かからずに屋久杉自然館に到着。 屋久杉に特化して、そのなんたるかを分かりやすく解説してくれる場所。

有名な縄文杉から「落ちた枝」が展示してある↓折れた現場から、展示できるように処理して持ってくるのに一年かかったそうだ↓

巨大な枝はそれだけで一本の木のようだ。★靴を脱いで入館する床は心地よい木製。栂(つが)の木のブロックをはめ込んでな並べてある↑

切り株で説明↓屋久杉の年輪というのは、気候の変化で一年に一本とはかぎらないのだそうだ。ほほう↓

第二室の真ん中に、巨大な切り株がそびえている。もともとはもっと大きかったものを、この建物に入れるためにちいさくしたのだとか↓

★伐採のためのノコギリが年代を追って展示してある。これだけ巨大な木を完全に切り出すのには、手動ノコギリの時代には一本に一か月もかかっていた。 それが、昭和30年代にチェーンソーが導入され、いっきに伐採のペースがはやくなっていった↓

 ★かつて杉を伐採するために住んだ人たちの村があった。小杉谷といい、大正末期からはじまり約半世紀の間だけ、屋久島唯一の山の中の集落であった。そこでの暮らしを記録した白黒フィルムが興味深い

はじめは木材運搬のために建設されたトロッコだったが、ディーゼルが運行されるようになると住民の足となった。一時間で麓の安房まで買い物に行く風景↓「トロッコの上で生まれた子供も三人」いたんだそうな。

  昭和三十一年に導入されたチェーンソーの様子↓

 切り出した丸太に一人一人が跨り、ブレーキだけでふもとまで運んでいく様は、まるで遊園地のアトラクションのよう↓

この村は昭和四十五年に廃村となり、今はトロッコの軌道の跡を登山客が歩く。

 自然館には★近年噴火した口永良部島の解説もある

***屋久杉自然館を出て、さらにじぐざぐ道をのぼってゆく

標高千二百三十メートルのところにある「紀元杉」へは、そのままバスでつけらる↓

まわりに木道が敷設されていて、ひとまわりできる↓

↑この「紀元杉」には、二十四種類もの別の植物が「着生」しているのだと、先ほどの自然館で解説された。その図↓

その種類が、現地の解説版に「着生植物」として列記されている↓

「着生」は「寄生」とは違い、木そのものの養分を奪う事はしない。文字通り、くっついてそこで生きている。雨が多い屋久島のような場所だからこういう事が可能になるのか。

★りんご椿の実がころがっていた→これは黒くなってしまっているが、枝で赤く実っている時にはまるでリンゴのように見えるのでこの名前になったのだという。花もまだ残っているところがあった↓

***標高千二百三十メートルの「紀元杉」から、標高千メートルのヤクスギランドまで下る。歩くコースはたくさんあるが、「大きな杉が見たい」というだけならば、短いコースでも充分に楽しめる。

★ヤクスギランド

30分、50分の短いコースならば、歩きやすい木道が整備されている↓

 雨が多く、苔むした木肌の木が多い中で、つるりとしたこんな木が目立つ↓

これは巨大な「ヒメシャラ」。苔が生えると表面が自然に剥けて、こんな木肌を保っていられるのだそうだ↑

ガイドさんが形状のちがう二種類の杉の葉を紹介してくれた↓下の写真は両方とも同じ杉なのだけれど・・・

とげとげの葉と優しめの葉と↓どちらが、若木のものだと思います?↓

左のとげとげのほうが若木。小さい時には動物に食べられやすいから、こういう形状になって自己防衛しているのだそうな。へぇええ~↑

★土埋木(どまいぼく)とよばれる古い切り株が苔むして残されている。これは、江戸時代の伐採の残り。当時は木目がまっすぐになっている少し高い位置から切り倒していた事による↓

切り株の上から二本の新しい木が生えている場所をよく見かける。自然にはそうならない。

「江戸時代、樹齢何百年という杉を切り倒すと、そのあとに若木を二本植えて祈るという習慣があったのです。そこから二本の木が育ってこの姿になったのです。」↓バスガイドさんに説明していただいて、はじめて納得した。

苔にもたくさんの種類があり、優秀なバスガイドさんにはちゃんと「自分の好きな苔」というのがあった。このふかふかした丸いのがお気に入りなんだそうな(^.^)

この「栂の木のトンネル」はどうやってできたのか?↓

「もともとここには巨大な石があったのを、またいで栂が育っていったのです。あるとき石が転がり出てこのようなかたちにのこりました。」なぁるほど。

**苔のなかに咲く、小さくきれいな花は「オオゴカヨウオウレン(大五加葉黄連)」という↓

****ヤクスギランドへの公共バスは朝夕一本だけ。公共交通機関だけで旅をするのはなかなかたいへんな島であります。

水力発電所が見えた。この荒川ダムでつくられた電気は20%だけで家庭用がまかなわれていて、あとの80%は屋久島電工が運営しているダイヤシックをつくる工場へまわされている。ダイヤシックとは何?⇒屋久島電工のHP 国内ではここでしか生産されていない。それだけ豊富に安い電気を供給できる屋久島だということか↓

それでいて一般住民の電力が安くはないのが不満というのは理解できる。

***

まだ午後二時過ぎだけれど、滝を見たらサンカラホテルに入ることにする。良いホテルはただ泊まるだけではもったいないから。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JRホテル屋久島

2017-03-06 09:42:40 | 国内

JR屋久島ホテルの魅力は、徒歩十分でこんな場所に立てるということ。明日朝、晴れたらお連れしましょう(^^)

***

バスが屋久島カトリック教会を出ると、十分ちょっとでJRホテル屋久島へ到着する。岬の高台にぽつんと建つ八角形のホテルは絶好の立地を誇る。そして、ここの温泉には、温泉にはそれほどこだわらない小松でも「これはいいお湯だ!」と感激させられた。まずはチェックイン。部屋の開け閉めや施設の使い方を、これだけしっかり説明してくれる日本のホテルサービスはすばらしい↓

余裕がある広い部屋↓三名利用でも、写真左奥にもうひとつのベッドがちょうど置けるだけのスペースが用意されている。ご家族にも便利なつくり↓

山側の部屋もあるけれど、海側と比べて遜色ない景色だと思う。モッチョム岳が雲が切れて顔をだした↓

夕食は「尾野間会席」 

   

黒豚の白湯鍋、おいしかったのに撮り忘れました… デザートは

明日の天気予報は、雨

でも、いちおう六時半に「谷崎鼻散策」希望者はロビー集合とする。

***日出はこの時期六時四十分。そろそろ明るくなってテラスに出てみると雨は降っていなかった。南国らしい暖かい風を感じる。天気予報とは印象が違うお天気。

 八人ほどで岬へ向けて歩きだす。すぐ近くの灯台、景色が見晴らせる場所まで十分ほど。

木の間がくれに見えていた荒々しい磯が やがて見晴らせる場所に出る

さらに少しコンクリートの階段を下りる

磯まで降りるよりも少し上の場所の方が眺めはよい。

ホテルに戻ろうとしたころ、遥か海上を照らす朝陽が雲間を赤くしていた↓

小松は朝食前に最上階の温泉へもう一度。誰もいない派手な装飾などいっさいない大浴場だが、このすばらしいお湯と岬の景色だけで十分である。

朝食、なにげないもずくの酢の物がびっくりするほどおいしかったりもちろんトビウオのさつま揚げも  

紫いものパンも味わってみてほしい 

朝九時、雲は低いが雨にはなっていない。ホテルを出発し、ヤクスギランドへ向かう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

屋久島カトリック教会を経由してJRホテルへ

2017-03-05 17:00:00 | 国内

吉田村集落を出て、海を右に走る。永田には日本でいちばんウミガメがやってくるという田舎浜がある。時期は五月から八月。この時期ならば是非この浜近くに泊まって、夜の観察に参加してみたい。古民家を改造した宿がならぶ「送陽邸」の受付棟 村を出て険しい道に入る。「日本で五番目に古い灯台」が道路からちらり↓



世界遺産の中を車で走ることの出来る「西部林道」は、シカやサルがたくさん出てくる


    


「日本の滝百選」にも選ばれている大川(おおこ)の滝は、岩肌を流れ落ちる高さ88mの豪快さ↓



水量は天候によってずいぶん変わるそうで、今日はなかなか美しい。大雨になると近づけない大濁流になるのだと、バスガイドさんが携帯で撮った写真を見せてくださった→ バスに戻るときに売っていた屋久杉のメダル。小さくても香りが良く、木目が美しい。油分が多いので使い込むと光がましてくるのだそうだ↓



巨大なガジュマロの木を見に、仲間集落でしばらく停車↓



「ガジュマロ」と「あこう」は似ているけれど、はっきり違いがあるそうな。


ガジュマロ↓



あこう↓



タンカンを無人販売所で売っている。百円は島にあっても安い!↓もってかえるのたいへんだけれど、もっと買えばよかったと、食べてから思った。ほんとにおいしいのです↓



**今回の旅で、小松がこだわって訪れることにした屋久島カトリック教会へ


江戸時代初期のキリスト教弾圧の嵐がおさまって数十年後、1708年にマニラを出たイタリア人シドッチ神父は、密かに屋久島南端の険しい海岸に上陸した。なんと侍の扮装をしていたのだという。教会は1980年代に建てられてた↓



上陸したシドッチは村人に見つかった。村人藤兵衛は驚いたが怖さを抑えて見捨てずに村へ連れて帰った。その後の幽閉生活を思うと、この出会いは唯一ほんとうの一般日本人との出会いだったと言えるだろう。


身長180センチ以上あったというシドッチとの出会いを、想像で描いた絵が教会を入ってすぐのところにかかっている↓



描かれたシドッチのモデルになっているイタリア人がいる。シドッチの足跡を追って屋久島にこの教会を建てたコンタリーニ神父。三百年前の一人の神父の情熱が、この教会となって屋久島に残った↓ 彼がこの教会に住んだ時には周辺から人々が集まってよく酒を交わしていたのだそうだ。


 近くに住むフィリピン出身のご家族もきてくださっていた



現在、巡回で訪れている栃尾神父にお話をお願いしていた↓



↑正面上のステンドグラスは「親指の聖母」と通称されている、シドッチが上陸したときに持っていたガラス絵がもとになっている。本物は東京の国立美術館に所蔵されているが、通常は非公開↓



屋外の記念碑↓



そして、屋久島の南端が見える場所へ行く↓


↓「シドッチがほんとうに上陸したのは、あちらの入江なのです。最初はその場所に教会を建てたかったのですが、土地を所有するI産業が許可してくれなくて、この場所になりました」とのこと↓


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

屋久島到着 環境文化村センターから 吉田村 里めぐり

2017-03-05 08:47:53 | 国内

羽田発06:25の鹿児島行に搭乗飛行機は富士山上空を飛んだ

鹿児島空港での乗り継ぎ時間は三十分ほどだが、屋久島行のゲートはすぐとなり。飛行機が小さいので鹿児島行で手荷物にしていた大きさでも預けることが必要になる ほんの三十分ほどで、雨の屋久島へ到着。「月に三十五日雨が降る」と言われる島なのだから、めずらしくはない。それよりも、タラップを降りると空気が違うのが誰にでも感じられるだろう↓

荷物は「ターンしないテーブル」で手渡される

**お迎えのバスにのり、屋久島最大の集落・宮之浦へ向かう。宮之浦川には昔の橋が良い雰囲気でかかっている

環境文化村センターを訪ねると、入ってすぐにこんなバスケットが用意されていた。この時期島の名物タンカンがおいしいので、家でタンカンをつくっている職員の方がわざわざ持ってきてくださっていたのだった↓

文化村センターのジオラマを見ながら、まずは島の概要を理解していただく。「島の道路は一周百キロほど。二十四の集落はすべてこの道沿いの海辺に位置しています」↓「世界遺産に指定されたのは、標高差によって小さな島に日本全土の植生が観察できるという特異さがあるからなのです。大きな杉があるというだけではなく。」なるほどなるほど↓

気になるのは上から下がっている水色の玉、ですよね。これは、これまでに降った最大の降雨量を地域ごとに示したもの。いちばん長い水玉は8m30㎝もある。つまり年間降雨量8300㎜ということ。※東京は1500㎜ほど

場所は、かつて森林伐採のためにつくられた小杉村あたり↓

IMAXふうに屋久島の自然を撮影した大画面映画二十分ほども見ていただいてから、吉田村集落へ向かう。この旅企画のカギとなる「里めぐり」をお願いしている。環境文化村センターよりお見送りありがとうございます

バスは屋久島のいちばん北に位置している一湊(いっそう)を通る。矢筈岬が長く伸びて、そこに通称「おっぱい山」が二つ。なるほどこの半島に守られた入江があるので、一湊はかつて島でいちばん栄えた村だったのだそうだ。つまり、いろいろな歴史が埋もれている筈。こちらも訪れる機会をつくりたいと思っている。

***吉田村に到着。「ようこそ吉田集落へ」雨の中三人の語り部さんが待っていてくださったりっぱな体育館で身支度して、里めぐりスタート。巨石がごろごとした風景がおもしろい↓

屋久島は火山島ではなく、花崗岩が隆起してできた島。巨石に近づいてみると長石の結晶とおぼしきものがたくさん見える↓

集落は斜面に大石がごろごろ転がっている間につくられている。細い階段の左右の家もよくみると、大石と共存してつくられている↓

↓村でいちばん大きな神社だが社はコンクリートでなんだか味気ない↓かつてあった木造のものは朽ちてしまったのでこのようなかたちになったのだそうだが。弁財天はここ出身の方が寄贈したもの。屋久島の二十四集落のうち七つが七福神の村に選ばれているのだが、唯一の女性の神弁財天がここにおわすのは、この社が安産の神とされているから↓

吉田村・里めぐりでいちばん見ておきたい高台の祠へあがっていこう↓そこはかつて平家の落人が住んだといわれる場所↓村の細い道をのぼってゆく↓

 

その位をあらわすように、いくつもの鳥居がおかれている

そして、たどりついた高台↓

ふりかえると、海が見える場所。

晴れていればこんなふうに島々が見えるそうな↓ この高台はあの島々と煙によって通信していた場所だと考えられている。

通信する必要があったのは誰か? 集落には壇ノ浦の戦いに敗れた平家の落人伝説がある。源氏の追手がやってきていないか、常に恐れていたことだろう。安徳天皇も実は生き延びていて、「長浜皇子」として長生きしたというのだ。硫黄島にその墓とされる場所もある。

これは、伝説以上のものであることが、この社をみると感じられる↓長老の近間(ちかま)さんは語ってくれる↓「ここはかつて山雪崩が左右に割れて残った場所で、それ以来ご利益があると大事にされているんです。収められているのは『三又に割れた矛先』です。古い社は朽ちてしまいこの小さな祠になっていますが」↓

周囲、森の中に埋もれてしまおうとしているが、まだまだ発見されるべきものが眠っている場所だと思えた。

****坂を下って、かつて小学校(昭和41年閉校)だった場所にある「吉田生活館」到着↓

かつての給食室から出汁の良い香りが今日のお昼ごはんは、吉田村のみなさんが用意してくださった。

「こんな田舎料理、お口にあうかどうか…」と心配されるけれど、豪華でなくとも、地の食材を使ったおもてなしの一膳は、旅いちばんの記憶になるに違いない↓ 野菜が豊富で濃すぎない味つけ。解説は恥ずかしがってされなかったので、小松が根掘り葉掘り訊ねて知った。 ちょっと解説いたします↓

★タコは吉田集落の浜でとれたもの。醤油ではなくつけあわせてある甘めの味噌で食べる。刺身でもそうやって食べることが多い吉田村↑

★木製のお膳も手造り↑ 右下に楊枝がささっているのは「まつば貝」を味噌漬けにしたもの。検索してみると、貝殻が松葉が放射状にひろがったようにみえる。

★さつま揚げはトビウオが原料「つきあげ」と呼ぶ。身をほぐして棒で突いてこねたのを揚げるから。

 ★左上の四品盛りの皿↑☆左上はロマネスコというブロッコリーに似た野菜。イタリアで最近見かけるようになったちょっと変わった野菜が、屋久島の村昼食で出るのはおもしろい。きけば、販売しているのではなく、村の人が自分たちが食べるために栽培しているのだそうだ。 ☆右上はキンカン ☆右下はツワブキと鯖節を炊いてある。鯖節はこの村唯一の工場でつくっている。 ★左下はわかめ?海藻? そんな食感なのだが、訊ねると「はんだま」とよばれるものだそうだ。それっていったいなに?

わざわざ調理前のものを持ってきてくださった↓え?これを調理してワカメかキクラゲみたいになるとは↓

この「はんだま」、この日宿泊したサンカラホテル&リゾートのOKASレストランで、まったくちがった使われ方をしていて驚かされた→※こちらからごらんください

 この時期、島の名物タンカンがおどろくほど甘い。ところが皮はみかんよりかたくてちょっと剥きにくい。「こんなふうに、りんごみたいに剥くのがよいですよ」と指導してくださる ★前出のお膳の写真で右下に見えるデザートもタンカンのゼリーでした。

***生活館の横には体育館だった建物が「まんてん館」になっている。2002年、朝の連続テレビ小説「まんてん」の舞台がこの吉田村だったのであります↓

 

坂を下りる分かれ道に、ドラマで主人公が手を合わせていた祠がある↓

↓さっき食べていただいた「『はんだま』はこれですよ。」と、途中の道でおしえてくださった↓

さいごに海岸にある「祈りの大岩」へ↓

平家落人伝説では、大岩は山の天狗が頼まれて源氏の追手を追い払うのに用いたとされる。この海岸では1月7日に巨大な鬼を焼く行事が行われる。正月飾りを焼いて、鬼も払って一年の無事を願うのだ。その鬼をつるしてあった台がまだあった↓

雨も止んできた。

西部林道をとおって、島の南端を目指そう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする