旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

夕暮れのフィレンツェ到着、翌朝のウフィッツィ美術館

2018-02-22 10:10:10 | イタリア
ちょうど夕暮れがはじまる時間にフィレンツェを見晴らすミケランジェロ広場についた↓

アルノー川の両岸にひろがる旧市街↓




駅の目の前のホテルにチェックイン↓

バスは目の前に止まりにくいが、今回はこの立地がとても重要。
だいぶ以前に泊まったことがあったが、ぐっとモダンに改装されていた↓


歩いて、近くのバリオーニホテルの最上階レストランへ夕食に↓
  

*****
翌朝、予約のあるウフィッツィ美術館まで歩いていく。ノヴェッラ教会↓


市場に置かれた有名なイノシシの像↓


市庁舎のあるヴェッキオ宮殿↓


ウフィッツィ美術館09:15予約入場↓
以前は写真撮影禁止だったが今はOK、あれはなんだったんだ?↓


最初の部屋の主役はジョットなのだが、だいぶ以前にシエナに滞在して「マエスタ」に感激してから、ドゥッチョの作品が好きになった↓

遠近法の上手下手をルネッサンスの魅力に数えるかどうかは知らないが、それを超えてこの聖母の衣の表現は美しい↓


ウッチェロの三部作のひとつ↓

最初に見た時にはその魅力がよくわかっていなかった気がする。
今の自分におもしろいのは、こういう動物の表現。現代のプリント柄にも合うのではないかいな↓



↑ボッティチェリの作品によく登場する同じ顏の女性は、誰なのだろう?

↓★「トリブーナ」と呼ばれる部屋は、16世紀のオリジナルの姿を留めているとされる数少ない場所↓
以前は絨毯通路で中へ歩みいることができたが、今は外から見る↓入れなくなることによって、すばらしい床モザイクの全貌が見られるようになった↓

この部屋の神髄を知るには上を仰ぎ見なくては↓

真珠貝を貼った輝くドーム↑
丸い壁の部分を拡大するとここにも螺鈿のような輝きが↓


この部屋をつくらせたフランチェスコ一世メディチはなかなかに個性的な人物だったようだ。となりのヴェッキオ宮殿内にある彼の「秘密の小部屋」をあとで見せていただいた



***
ミケランジェロの数少ない絵画作品、ドーニ家の結婚祝いの絵↓

やっぱり額縁の彫刻のほうに目が惹かれてしまいます↓


ティツィアーノ「ウルビーノのヴィーナス」は、先日ドイツのドレスデンでジョルジョーネの「ヴィーナス」を見たばかりだったのであらためて意識した。
先輩ジョルジョーネの描いたヴィーナスを完成させた経験が、二十年以上後にもこうして画面に影響を与えずにはおかなかったのだ↓

※こちらのドレスデンの日記に載せております、比較してみてください

***
カラヴァッジョの「メドゥーサの楯」

「バッカス」


★ウフィッツィ美術館の展示環境、ここ十年で大きく進歩しておりました。別に書きます。

****
ガリレオ七十一歳の肖像↓

後のコジモ二世メディチの数学の家庭教師をやったこともあり、メディチ家は彼の庇護者だった。

以前、ローマのアンジェリ教会でやっていた「ガリレオ・神のような人」という展示を思い出した。
午後に訪れるピサが楽しみになった。




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ヴェネチア

2018-02-21 06:58:24 | イタリア
ほとんど人気のない明け方のサンマルコ広場周辺。ホテルの立地が良いとこういう楽しみがある。





大聖堂ファサードの「風神」?↓ヴェネチアはどこか東洋を感じさせる


露天商が大荷物を引っ張って出勤中↓


午前八時半からガイドさんと歩き始めた。
ビザンチンの柱頭ををもつ二本の柱の上に置かれている、聖テオドーロ(奥・レプリカで本物はドゥカーレ宮殿内)と、聖マルコのライオン(手前・本物?)↓
これら二つ彫刻は12世紀あるいは1204年の第四次十字軍でコンスタンチノープルからもたらされたと推察されているが、いずれにしても本来この柱の上に置かれるためのものでなかったのは歴然。両方とも柱との大きさがつりあっていない↓

特にライオンの方の由来は諸説あるが、古代のペルシャ伝来との説もある。羽はあとからつけられたのか?もともと羽のあるグリフォンの像(こちらは古代ペルシャの図像でよくみられる)で、後に顔だけライオンにされたのか?
間近で見てみたいブロンズ像のひとつ。



ドュカーレ宮殿を見学↓最近の廉価版ツアーではここにさえ入らないヴェネチア観光があるのだそうだが、そうなるとヴェネチアに来たとさえ言えないのではないかしらん?

ドゥカーレ宮殿この「黄金の階段」までしか、以前は写真OKでなかった↓

なのに、今はフラッシュなしで撮影OKに変わっている。以前のルールはなんだったのかしらん。


16世紀の大火の前には14世紀にジョットが描いた大画面のフレスコ画が議会を飾っていた。その焼け残りが大事に保存されている↓

残っていればアッシジのものと同じぐらいに、ジョットの代表作とされただろうモノ。

現在、議会を飾っているのはティントレットの絢爛たる数々の大画面。
★ティントレットの描き間違い がおもしろい↓

魚を持った人物の足は、右足?左足?
↑なぜこんな事が起こったのか? ※こちらに書きました(^.^)

***


今回のツアーはサンマルコ大聖堂のテラスにも入る。
四頭のブロンズの馬はもともとコンスタンチノープルの競技場を飾っていたもの↓

現在はコピー。鋳造者の名前が刻まれていた↓ブロンズ像を見る時、元の像を造形した人だけでなく、誰が鋳造したかもたいへん重要な事なのです↓




それにしても、オリジナルの四頭は別格の迫力がある

****
ガラス屋さんのデモンストレーション

お馬さんですね(^.^)↓

↓お勧めしてくれる豪華な金飾りのグラスよりも、超絶技巧のこのレースグラス気泡入りをしっかりごらんください↓


ゴンドラ、歌い手さんと乗ればさらに盛り上がります↓


お昼ご飯はフェニンチェ劇場の近く

「謎のヴェネチア人」というお店にて↓


ホテルに戻り、手荷物をとともに水上タクシーにのる。
対岸のジュデッカ島にあるレデントーレ教会は名工パッラーディオの作品↓


バスに乗り込み、リベルタ橋を渡っているとき、遠くドロミテの雪山が見えた↓


今晩はフィレンツェ泊



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ミラノからヴェネチアへ「最後の晩餐」は写真撮影OKに

2018-02-20 12:49:21 | イタリア
昨夜、アリタリアでミラノに到着。住宅街のホテルで一泊して今朝はミラノ観光。
スフォルチェスコ城でガイドさんとお会いしてスタート。パッケージツアーではしばらくぶりに来たからバスの乗降場所が変わっていたのにも気づいていなかった。

築城当時の跳ね橋が残っているのはこれだけ↓

フランチェスコ・スフォルツァの紋章が掲げられている↓

↑左の大蛇がスフォルツァ家、右がヴィスコンティ家。ヴィスコンティ家の娘と結婚したのが傭兵隊長のスフォルツァだった。
**
この城を見学するグループの多くが、ミケランジェロが死の数日前までノミを入れていたという未完の「ピエタ」像を見学する。
以前は博物館を全部見学した最後にたどりつく部屋に置かれていただが、今はこれだけを見学することが可能になっていた↓

このピエタ像は長くローマのロンダニーニ家が所有していたものを1952年にミラノ市が買い取った。
ミラノ市のいちばん上手な買い物になったとされている。

ミケランジェロはローマで亡くなった。甥のレオナルドが二つのデスマスクをとることを依頼して、そこから製作されたブロンズの頭部像が近くに置かれている↓若い頃、兄弟子に殴られて潰れた鼻の様子がリアル。彼は自分の容姿に強いコンプレックスをもっていた。

↑目の部分がどうも不自然。蝋でとったデスマスクからブロンズを制作する時に閉じていた眼を開いた形に形成しなおしたのでこんな風になったのではないかと思う。

当時ミラノに住んでいたスペイン王のお抱え彫刻家になるレオーネ・レオーニが86歳のミケランジェロに敬意を表して贈ったとされるメダルの一つも展示されている↓ミケランジェロが、生前からどれだけの名声を博していたのかがうかがわれる。

犬に導かれてゆく老人はミケランジェロに似せているそうな。
旧約聖書の「詩編」に由来する図像だそうだが、小松は知識が足りなくてよくわかりません…。

***
スフォルチェスコ城から歩いて大聖堂へ向かう。振り返ると↓

フィラレーテの塔を背景に、イタリア統一の英雄ガリバルディの騎馬像

前方に大聖堂のファサードが見えてきた↓


近年、大聖堂に入場するにはチケットが必要になった。大聖堂向かって右横のチケットセンターで、こんな整理券発行機をつかい↓

呼ばれたカウンターで料金を支払ってはじめて入場できるシステム、
入り口で待たされている間、彫刻を見ていた。
これは、天使とすもうをとるヤコブの図のような…「イスラエル」の語源ですね↓




ランチは定番のミラノ風リゾットとミラノ風カツレツ。14時に「最後の晩餐」の予約がはいっている。

十五分間で三十人だけ入場。完全予約制。教会左横の入り口から入ると↓

ブラマンテのクーポラが中庭から美しい

ここへ来るたびにいつも思うのだが、この教会は「最後の晩餐」ばかりが有名になってしまったが、このクーポラの外側・内側の素晴らしさにももっとスポットライトがあたってもよいのではないかしらん。

そして、ひさしぶりに対面↓

昨年から突然フラッシュなしなら写真OKとなった。
今まであれほど禁止禁止と言っていたのはなんだったのかと思ってしまう。
まぁ、こういう変更はよくあるのですが。

★謎のナイフを持った手↓

今回ガイドさんに教えてもらったのが、誰のものか判然としないナイフを持った手が描かれているということ↑
確かに後ろで左手指ををキリストに突き出しているペテロの左手だというには不自然↑

この絵は後代になって何度もいろいろな「修復」がされているので、そのなかでこんなおかしなことになってしまったのだろう。
ネットにいろいろな解釈があった。
「もともとナイフを持っているたのはユダの右手で、ペテロの右手がその腕をつかんでいる」というもの。
すると現在のユダの右手は誰が描いたの?という事になるのだが…、あり得るかもしれませぬ。
どこかの映画でとりあげられたよりも、もっと謎と思えることがある絵なのです。

****
午後はヴェネチアへ向かう。
途中のドライブインで売っていた復活祭のウサギ型チョコ↓

ホワイトチョコ、ミルクチョコ、ファンダン

夕暮れてきたヴェネチア、トロンケットから水上タクシーに乗る↓

「海に落ちないようにきをつけてください」と何度も行っていたのだけれど、おひとりが踏み外しそうになった。暗いとよく見えない…近頃小松もその気持ちがわかるようになってきました(^.^)

元粉ひき工場のヒルトンを横目にみて↓


サン・マルコ広場へ上陸↓

ホテルは広場からすぐ入ったところにある。

夕食はリアルト橋近くへ↓







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「若返りの泉」クラナッハ と ゲメルデギャラリー

2018-02-13 22:31:34 | ドイツ
よれよれの老女たちが画面左から泉に入る↓

↓中央へいくにしたがいだんだんと元気になり・・・

右側で泉から上がる時にはすっかり若返って↓

右奥で開催中のお金持ちとの合コンの席につく

1546年、七十代のルカス・クラナッハが描いたこの絵は、当時は世界のどこかにあると思われていた「若返りの泉」を描いた作品。
今回のこのベルリン、ゲメルデ国立絵画館を見学している時に全員が興味津々となった。
洋の東西を問わず、時代も問わず、人間ならば誰もがちょっとは「あったらいいなぁ」と思う泉なのだろう。
**
これだけの名品が並ぶ美術館では、「名品と呼ばれる作品を全部見てやろう」などと考えること自体が間違っている。限られた時間でそれは不可能なのだから。
むしろ、何か一つだけでも、自分の気に入る作品に出会うほうが価値がある。

ゲメルデギャラリーは1960年代に建設された文化センターの中にある↓ベルリンの主要なミュージアムは当時は東側にあったので、西ベルリン地区にも文化的な施設が必要だと考えられ、建設された場所。


ここに飾られている絵画はもともと宮殿や邸宅に飾られていたもの。オリジナルの展示場所とは違う。

それはそれで仕方がないし、作品そのものを標本のように隅々まで観察することができるのは、こういった場所におかれているからなのだ↓
美術館の入口はこんな部屋↓




ルネサンス期の名作もたくさん所蔵されている↓

フィレンツェにある代表作「春」と同じ時期に、三十代の●ボッティチェリによって製作された「歌う天使と聖母子」

●マンテーニャ↓にはやはり師匠のベッリーニからの影響があるのだなぁとあらためて思う


ルネサンス期の作品をみてきた後で●カラヴァッジョの作品に出会うと、ある種どぎついリアルさにぎょっとさせられる。当時の人々がいただいた感覚とはこういうものだったのかもしれない↓

大量のコレクションを持つ美術館が作品群をそのように配置するかは腕のみせどころなのだ。

ヴェネチアの風景画家●カナレットは一見客観的な風景画↓今回、ウィーン、ドレスデンの両都市でもカナレットの描いたそれぞれの町が印象的だった




●フェルメールも所蔵している

●デューラーのデューラーらしくないカラフルな作品↓二十代半ばでイタリア絵画を見に旅した彼が、もろに影響をうけていたことが感じられる↓

三十代前半、未だ自分のスタイルを完成させる途上のデューラー吸収力

●ルーベンスのこの小品に描かれた子は、ウィーンのアルベルティーナで見た彼の息子にちがいない↓

弟子の手が入った大作注文品よりも、こうした小さな作品の方が彼本人の息吹がつたわってくるではないか

●レンブラント?「兜の男」は、1980年代までは真作とされていたが、その後弟子の作と断定されてしまった作品。2003年に来日した時に見て、真贋は知らず、好きな作品だと感じた↓

2007年に大阪でこれとそっくりの作品が見つかり、「こっちがほんもの?」との話も週刊誌に載ったが、真偽は不明。

いつも思うのだが、「真作・名作」とか「世界遺産」とか「ミシュラン★付」といったレッテルに惑わされずに自分の価値観でものごとを判じるのは、思うよりずっと難しい。
それは「思ったままを口にする」という事とは違うのだ。

****
一時間ほどガイドさんに解説していただきながら見学。
その後、併設のカフェで軽食↓

どんな場所でも、見所を全部まわるなんてぜったいに無理なのだ…誰でも物事をやり残したままで、いずれ去っていかねばならない。クラナッハの描いた「若返りの泉」など存在しないのだから。


ミュージアムショップ↓



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ベルリンの壁~「チェックポイント・チャーリー」の今

2018-02-11 19:30:23 | ドイツ

現在はベルリンで指折りの観光地である↓

片側にアメリカ兵の顏、逆側にソ連兵の顔が掲げてある。左側のビルに「壁の博物館」があるようだ
右側にはマクドナルド、手前左にKFC

記念写真の場所↓は、いかにもそれらしいが検問所よりもずっと手前


足元に、壁のあった場所の表示↓

これがなければもうどこが壁だったのかさえ判別がつかないほど跡形もない↓


西ベルリンを取り囲んでいた150㎞を超える長さの壁↓下の図の赤い枠↓

いくつもの検問所があったが、もっとも有名なのがここ「チェックポイント・チャーリー」↑
「チャーリー」とは単に「C」の意味↑上図の赤い点。ここは外国人と外交官だけが通過できる検問所として、アメリカ占領地区と東ベルリンの間にあった。

他に「アルファ=A]と「ブラヴォー=B」と呼ばれた検問所もあったし、検問所は他にもたくさんあって↓※下の図で赤い点の場所↓

↑旅行者がこれらを通過して第三国へいくことも可能だった。

●ベルリンの壁の経緯をちょっとふりかえる
敗戦国ドイツを分割統治した戦勝四か国(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連)は、さらにベルリンも四つに分割した。
四つの地区の間はもともと往来自由だった。
占領している国がちがうだけで同じベルリン市民だったのだ。

これらが別の国家として別れてしまったのは1949年。
1948年にそれぞれの占領エリアで新ドイツマルクを発行することになった時、ソ連とほかの三国が同じ通貨にできなかったのが決定的だった。
そこから社会主義の東側と資本主義の西側で、経済格差がうまれはじめる。
○ベルリン封鎖は、西ベルリンとの往来をはじめて遮断した出来事
1948年7月24日から翌1949年5月12日までの間、電気や水も含めて西ベルリンを兵糧攻めにした。
西側は「ベルリン空輸」でそれをしのいだが、不満を感じた東側の市民が西に移動してしまう事例が続く。
○ベルリン暴動(1953年6月17日)では三十万人が東から西ベルリンへ亡命したといわれる。
当時、東西ドイツ人が「国境」を自由往来することはできなくなっていたが、西ベルリンの中だけは自由に入ることが出来たのである。
東からの「難民」流出は続く、1961年までに二百七十万人。1961年になると週に四千人。
西ドイツには「難民収容施設」が建設されていた。西ドイツを目指す難民のはじめは東側の同胞だったのである。

1961年6月3日、フルシチョフはケネディと会談し、あらためて西側が西ベルリンをあきらめるように促したが、アメリカは西ベルリンへの保護を続ける強い意志を示した。
8月13日日曜日の朝、「起きてみると東西の境界線は通れなくなっていた」市民にとってはこれが実感だったのではないか。
有刺鉄線が張られ兵士が並び、西側に忘れた帽子をとりに戻ることはもうできないのだ。

ここまでに政治的なレベルでのうごきはあったが、実力行使の日時は事前に通告されていなかった。
有刺鉄線はだんだんと強固な壁に換えられ、物理的に移動を不可能にしていった。

と、ここまでは教科書的な理解。
実際にこの場所を訪れて、東ドイツ人だったがカタリナさんの話を聴くと、分断の深まっていった様子がひしひし伝わってくる。
●1961年、最初の壁は人の背丈よりもずっと低かった↓

もともと町の中に無理やり引いた分断線だったのだから、そこを通るなというほうが無理なのである。
「通ってはいけません」を市民に守らせるには銃を向けるしかなかった。
検問所も障害物を置いてあるだけ↓車の上部を切り取って検問バーの下を突破した者もあったときく。


それが、壁はどんどん高くなり・特別性の固いコンクリートでできたモノに換えられた。検問所もきびしくチェックされるようになった↓


それでも壁を越えようとする人は後を絶たず、1961年から1989年までの間におよそ二万人が、なんらかのかたちで壁を越えたとされる。
失敗して命を落とした人136人の名前が年表になっていた↓

いや、これは少なすぎる。誰にでも見える形で殺された人の数だけだ。
今回調べていて、1962年8月ピーター・フェヒターのケースが壁の悲劇を象徴していると感じた。
彼は壁を越えようとした瞬間に撃たれ、不幸にも東側の壁際に落ちた。
西側から救護箱が投げ入れられたが、誰も助けに降りることなどできず、東西がにらみ合う場所で一時間苦しんだ末に絶命した。
ジャーナリストがすぐ近くから虫の息の彼を撮影した写真まで残されている。

こういう事例の、実際の数は分かっていない。
東ドイツ人が突然行方不明になった未解決の事例が今も調査されている。

これらの写真は、壁のすぐ横にある博物館に展示されていたもの↓



これらの博物館、実はみな個人がやっている。
公立のものは近くないのだ、びっくり。

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