旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ベルリン市内をバスで巡る~ブランデンブルグ門ちかく

2018-02-10 21:09:18 | ドイツ

クーダム地区の中心にあるホテルを出発。すぐに動物園の入口を右にみる↓

1844年、ドイツで最初の動物園として開園。現在でもヨーロッパ屈指の大きさと入場者数を誇るそうな。
「エレファント・ゲート」夜にもどって撮影↓


第二次大戦で破壊された姿で遺された1890年建設の「カイザー・ウィルヘルム記念教会」↓

↑「虫歯」というあだ名がある。
となりに1960年代に建設された新教会がある。塔の部分は修復中だが、今日の午後にホテルにもどったら行ってみよう。


近くにある二つのリングが結びあう「ベルリン」というモニュメントは、分断下の1987年に設置された。東西ドイツの融和を願っている↓


ベルリンの象徴・かつてのベルリン街への正門だった「ブランデンブルグ門」が見えてきた↓

中世のベルリンもまた城壁に囲まれた古い街で、ここにはブランデンブルグ(ベルリンに遷都する1417年以前の首都)の方向へ通じる門があった。
古い城壁にあった本当に扉のある門は、城壁を壊した時に失われた。現在のものは1791年完成の象徴的な門なので扉は、ない↓

↑ギリシャ神殿の前門をイメージしているというと納得するデザイン↓
この、すぐ前に分断の壁があり、地面にここで演説したアメリカ大統領の記念プレートがはまっていた↓

これは旧西側から見たところ。つまり、この場所と門の間に壁が設けられていて近づくことはできなかった↓

1987年↓ロナルド・レーガンが「ゴルバチョフ書記長、壁を開けてくさだい!」と呼びかけた↓




かつては入れなかった東側がベルリンの旧市街だった↓今はひろびろとしたウンター・デン・リンデン通り↓下の写真の一番左に見えているのが2008年にオープンした新アメリカ大使館↓

アメリカはずいぶん手回しよくこんな場所に土地を買ったんだ、と思ったが、調べてみると第一次大戦後の1920年代すでにこの場所に大使館を持っていた。元の場所にもどっただけだったのか。


ブランデンブルグ門の上にある女神の乗る四頭立ての馬車↓四頭立ての馬車のことを「クアドリガ」と呼び、ローマ時代からの定番。
※かつてコンスタンチノープル(イスタンブル)にあり、現在ヴェネチアにあるものが有名だが、このブロンズ像もあの四頭を意識しているように見える。

↑ナポレオンは1806年にプロイセンを破り、ベルリンで勝利記念パレードを行い、この「クアドリガ」をパリに持ち去った。
凱旋門の上に飾ろうと思っていたのかもしれないが、この時はまだパリの凱旋門が完成していなかった。

「クアドリガ」がパリの凱旋門に飾られる日は幸か不幸かやって来ず、1815年にナポレオンが失脚するとすぐにベルリンに戻された。
その時まで女神が手に持っていたオリーブの葉の冠は、現在の鉄十字に取り換えられた。
ナポレオンの戦勝を祝うことになってしまったオリーブ冠をそのままはしたくなかったのかもしれない。

鉄十字はしかし「帝国主義的である」として東ベルリン時代には取り外されしまっていた。1990年になってやっと現在の位置にもどされた。


鉄十字というとナチスを思い浮かべるかもしれないが、もともとそれ以前のプロイセンから勲章のデザインに使われていた。ドイツに古くからある十字なのだ。
ヒトラーが第一次大戦に従軍した際に授与され、生涯唯一胸に付けて誇りにしていたからといって、鉄十字自体が否定されるべきものではない。

***
ウンター・デン・リンデン通りを旧市街と逆に進むと広い公園の中をすすんでゆく。途中にあるソ連の解放記念像↓第二次大戦の最後の局面でベルリンにいち早く侵入したT34型戦車が横に置かれている↓


高さ六十七メートルの巨大な「ドイツ戦勝記念塔」↓1864年~1872年にかけて建設された↓この時期、ドイツ民族の統一国家をつくるべく周辺諸国の干渉をはねのけるために多くの戦争をしたから↓

団体観光だとどうしても車窓になってしまうが、ここも是非あとで訪れたい。訪れよう。

議会のガラスのドームが見えてくる↓

ここはかつても議会だったが、火事で内部が破壊され廃墟になっていた。
まだ廃墟だった時代に歩いたことを覚えている。1999年から統一ドイツの正式議場となった。

大学の前庭では、ナチス時代に「有害図書」を集めて焼いた穴が残されているのだそうだ↓この奥にあるという

本を焼くという行為は、どんな理由をつけても正当化できない蛮行である。
その場所、間近にみておきたいと思ったが…バスの中からではちと遠かった。
***
ベルリンに富士山?↓

1996年に建設がはじまった、ポツダム広場にある「ソニー・シティ」のシンボルがこのテントである。
観光後に歩いてみた。
入口に目立つキリンちゃん↓ここには「レゴランド」も入っているのだ↓

さっき富士山のように見えていたテントを下から見上げる↓

半分屋外。今は寒いが、夏場には日陰になって過ごしやすいスペースになるのだろう↓


となりには「ダイムラー・シティ」もある。

★ポツダム広場は、ヒトラーがベルリン陥落を前に籠り、自殺した地下壕があった場所とされている↓ただし、正確な場所は意図的に公表されていない。ヒトラーを礼賛する人々を集める可能性があるから↓※映画「ヒトラー最後の十二日間」は、ここでなにがあったのかをよく理解させてくれる

1990年代はじめ、このあたりは時間が止まったような荒涼とした雰囲気の空き地だった記憶がある。

ポツダム広場は、忌まわしい記憶を払拭しようとするようにどんどん開発が進んだ。
ベルリンの壁は、もうどこにあったのかほとんど分からない↓この石の線でわずかに記憶されるだけ↓

逆に、ナチス以前のベルリンの記憶は、残す努力が行われている。

↓ソニーシティの一角に保存されている、1907年に建設されたかつての「グランド・エスペラナード・ホテル」の記憶↓

ネオロココといった雰囲気で、当時のドイツ皇帝もやってきていた。カイザールーム(皇帝の部屋)のとなりにあった「ブレークファーストルーム」の一部がこの断片だ↓

もともとの場所から西に七十五メートル移動させて、このようなかたちで保存している。

すぐちかくにこんなくまちゃん↓

あ、これはリッツ・カールトン・ホテルの入口か↓


マリオットにはこれ↓


ポツダム広場は19世紀から第二次大戦・壁の崩壊までの記憶を消し去るように再開発されたが、ブランデンブルグ門の近くには新たに歴史を記憶するための巨大なモニュメントが出現していた↓知らずに突然目にすると「なんだこれは?!」と思うだろう↓

⇒※こちらに別に書きました


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京都・丹後 下見三日目

2018-02-08 09:23:21 | 国内

明け方四時ごろだった。
「大雪警報がはつれいされております」と町内放送が夢うつつにきこえてきた。
明るくなって障子をあけると↓

今日は間人の集落を歩いておきたいと思っていたが、これではむずかしそうだ。
シンボルになっている「立石」も本番までとっておこう。

ゆっくり朝食を終えて、「とト屋」女将・池田さんとうちあわせ。
本番でカニをどのように味わっていただくのが良いか、値段とも相談しながら決めなくてはならない。

また、昨夜ひきあわせていただいた町歩き案内をしている亀田さんからもアイデアをいただいた。
3月後半の夕方、間人の路地を案内していただいてから夕陽の海岸に出られたらいいなぁ。

**十時に博物館が開いたら見学に行こう。
※丹後半島は日本一古墳が密集している場所だと、きのうはじめて知った

雪はまだまだ降り続いている。一歩外へ出ると…↓

車が半分雪に埋もれている。なんとか出発できるところまでかき分けて乗車。
「とト屋」も雪に埋もれそうだ↓

堤防のところまで出れば、除雪もされているだろう。がんばれ↓


五分も走らずに↓

「京丹後 古代の里資料館」に到着↓

こんな日には誰も来ないと思っているのでしょう。駐車場も雪でいっぱい。
職員の方のものらしき車はあるから、開館はしているようだ↓
ゆきで見えなくなった階段をのぼって入口↓


★京丹後 古代の里資料館
想像していたような「ほこりをかぶったショーケースが並ぶ博物館」などではなかった。
展示物はよく整理され、見学しやすいように並べられている。
はじめての場所ではしかし、解説が是非ほしい…
この時間お一人しか職員の方はおられなかったのだが、なんとなく案内してくださった↓
「いちばん見てほしいものはなんですか?」の質問に、
下の「女王の墓」をあげられた↓

古墳時代直前、弥生時代末期の二世紀後半から三世紀はじめごろの女性の墓
五十メートル弱の方形の丘の上に埋葬されていて、多くの蒼いガラス装飾が見つかった。
この被葬者を飾っていた部分の土地をきりとってそのままここに展示してあるのだ↓

単独で埋葬された高貴な女性?女王?

三世紀中ごろ、古墳時代がはじまると丹後には何百もの古墳がつくられていった。※大阪堺市の古墳群よりも百年程度早い
つまり、ちょうど卑弥呼の時代にあたる。
卑弥呼が魏に朝貢し、西暦239年(景初3年)に銅鏡百枚を下賜されたとする記述が「魏志倭人伝」にあるという。
その鏡かもしれない…とされる鏡が見つかっている↓

※ここに展示されているのはレプリカ
年号「青龍三年」と刻まれている。これは卑弥呼が鏡を賜る二年ほど前の年。

巨大な古墳の周りを囲っていた埴輪↓頭頂部が丸くなっているのが丹後型と呼ばれる↓

勾玉も多数↓

「舟に乗る人」が刻印された破片↓

この博物館と、すぐ近くにある「神明山古墳」は、是非解説付きで見学したい

出てすぐに「神明山古墳」の入口にある「竹野神社」↓

今日はとても行けません

****
博物館を出て天橋立方面へ向かう

風が降ったばかりの雪を巻き上げて煙の様だ↓


雪雲がとぎれて青空も見えるようになってきた↓


あ!古墳だ↓

「黒部銚子山古墳」百メートル×五十メートルの前方後円墳だった



*****
宮津に着くころにはすっかり青空になっていた。
「今は修復中で中には入れませんが、畳敷きなんですよ」と教えてもらった、日本で二番目に古い現役教会↓
宮津教会は明治二十九年のかたちを伝えている↓

★この教会について、こちらにもうすこし書きました
宮津は細川ガラシャゆかりの地でもあるのだ

******
港の近く、インフォメーションセンターへ行ってみることにした。
この近くは近在の産物も売られている↓

★「たべそ」は、古代赤米の麺 こんなのはじめてみました

付設の解説
「大和朝廷時代、屯倉(みやけ)の耕作に従事した農民の事を「田部」と呼び、そこでつくられた赤米は今日の稲作の起源とも言われます」
ブータンやネパール、スリランカといったアジアの国々でも赤米はたくさんみかける。おいしいでしょうねぇ。

近くにはちょっと食事をする場所もある↓
自分で具をえらんで焼いてももらえる海鮮丼↓


*******
案内所で簡単に解説してもらい、お寺が密集している地区へ行ってみることにした。
路はせまくなり、雪は住民の方々ががんばって除雪されていた↓


蕪村が数年滞在したお寺↓


●経王寺 天井に立派な龍が描かれているという
本堂入口の彫り物↓


「天井画、見られるかな」と心配していたが、ちょうど住職さんが来られて快く招じてくださった。
一歩入ってびっくり!
↓すごい迫力

※これについては別途書きます

本堂の入口につるしてあったかご↓

「これはどうやら、死人を入れて運んだもののようですよ」
と言われてまた見ると、たしかに霊柩車仕様のカゴのようだ

*********
近くに営業している、見るからに古い旅館↓
入口に「当館は享保年間からこの地で営業しております」とあったが、建物はまさかその時期のものではないですよね。


**********
午後五時には京都駅へ到着

20時半には東京へもどった







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京丹後から間人(たいざ)へ 下見旅二日目

2018-02-07 12:17:12 | 国内

朝の座禅会を終えてホテルで着替えたらすぐに出発。
いくつかトンネルを抜けているうちに雪が多くなってきたがそれはきれいに晴れている。
高速道路が発達して天橋立まで二時間ほどで到着した↓

日本三景のひとつ天橋立。古くから訪れる人は多かったので寺社仏閣も密集している。


知恩寺の境内の木々には扇の形をしたおみくじがたくさん吊るされていた↓

解説版に「日本三文殊」について説明されていて、ひとつに山形県の大聖寺(だいしょうじ)の名前があった。
二年前の《手造の旅》山形・赤湯で訪れ、七福神の相撲木彫がいたくおもしろかった場所だった↓
※⇒こちらからご覧ください おもしろいところでつながりました

境内の手水は鉄でできた鎌倉時代の浴槽を再利用したもの↓

**
今日は下見なので天橋立らしいところは見物なし。丹後半島方面へ向かって再出発。本番で利用してみたいと思っている京丹後鉄道の観光列車「あおまつ号」本数がすくないので今回実際に乗ることができなかったが、ちょうど逆方向から走ってくるのに出会った↓

内部のデザインは工業デザイナー水戸岡鋭治氏のデザイン。
観光列車は、個人・車で訪れると車を回送する役割の人が必要になるので乗れなかったりする。今回はぜひ。

丹後半島の付け根を西へ移動し久美浜を見下ろす森の中にある蕎麦屋「ろあん」へ↓

春遠からじ

海の色と空の色が、変わってきた↓


近くにある「和久傳ノ森」へ↓

昨年開館した「森の中の家・安野光雅館」↓建物は安藤忠雄氏デザイン↓

美術館の展示は季節で入れ替えられる。現在は御所内の植物をテーマにした展示を行っている↓


三十メートル程離れたところにあるショップとレストラン、なかなか素敵な↓





***
建物を出ると、天気は一変していた↓
先ほどまでの穏やかな日差しは風とともにかき消され、空を灰色に埋め尽くす雪。見る間にあたりが白くなってゆく↓

「天気予報、今になって当たりましたね」
下見予定の場所はある程度見終わっていたので、宿泊する丹後半島北西部の間人(たいざ)へ向かう↓

その間にも景色は白く変わっていき、方向を危うくする。運転してくださっているのが間人に家のある方なので安心だが、観光客がドライブしてやってきたこんな状況になったらかなり焦ることだろう。
宿泊する「とト屋」さん到着!↓川沿いの道もまだなんとか通れた↓

明日の朝は?・・・明日になってみなければわかりません
夕食はブランドの★間人カニ↓

※こちらにその写真を載せました



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座禅初体験

2018-02-04 09:56:49 | 国内
「源光庵の早朝坐禅、思いっきり寒いですが、行きませんか?」
以前から興味はあったが機会がなかった座禅、ついに体験する機会がやってきた。
二月の京都、朝六時二十分にホテルに迎えにきていただき、北大路を超えてあがってゆく。
「北大路通は東寺の塔と同じぐらいの標高で五十五メートルぐらい違うんですよ」
 寒さもそれだけ増すということか↓






はじめての人には十分ほど解説してくださる。
座禅の丸い座布にどのように尻をおろすのか、足はどう組むのか、警策(きょうさく)はどのようにしていただくのか~(肩にバシっといただく、あれです)

七時に始まるが少し前になると、顔なじみの常連さんがどんどん来られる。この座禅は檀家さんというより長年参加している方々が自主的にお世話をしているのだそうだ。厳しい作法も問われない気軽なもの。

最初に本堂で般若心経を唱える。
「お経は最初の音楽だ」という話をきいたことがあった。
なので、今まで御経を聴くときも四拍子を基準にしていたのだが、どうもしっくりこなかった。
今回、分かりやすい冊子を渡してもらい、文字を追いながら読んだ。
そして、お経は四拍子とか・何拍子とか、まったく考えないでつくられている事に気づいた。

お経はいわば漢詩。漢詩の文字数は四文字で切れるとは限らない。
意味によって五つになったり六つになったりする。
書かれた経典には意味があり、それを音読しているのがお経だということか。
息継ぎをするタイミングも、意味の切れ目にあった。
「お経は四拍子ではない」
これを理解できただけでも今日ここへやってきた甲斐があった(^.^)

暖かい部屋に入って身仕度。そこで皆が靴下を脱ぎだした。
これから凍てついた本堂で座禅を組むのに、裸足になるんですか?
夏には靴下があまり好きでなくなる小松だが…今朝は、脱いで冷たい廊下に一歩踏み出した瞬間に「靴下様」のありがたさがよぉっく分かった。

暖かい部屋を出た四十人ほど、作法通りに座布を持って左足から本堂へ入る。
それぞれの座る位置を決める。曹洞宗は達磨大師以来の「対壁」つまり壁に向かって座る。
足の裏を逆の膝上に組み上げるのが正式だが、小松は片方だけにした。
足を組むのが辛い方には、この座禅会では椅子も用意されている。

二柱(にちゅう)の間、じっとしていられる身の置き所を各自探して、各自ゆらゆら身体を揺らす。
※座禅の一単位は、線香が一本燃え尽きる時間とされ、「一柱(いっちゅう)」と呼ぶのだと知った。ここでの一柱は三十分。

やがてぽーんっと鐘が鳴らされ、一柱目がスタート。
足を組んだきつい体勢で自分はどれだけ耐えられる?
痛くて痺れて、ギブアップのサインをどう出したらよい?
そんなんで、「頭を空にする三十分、何もも考えない三十分。」が可能なのか?
と、いろいろ考えていたのだが、はじまってみると意外にも体勢自体は辛くはなかった。

周囲のいろんな音が聞えてくる。
くるぅる~、ぐるぅ~、
「お腹の鳴る音」というのは多様だ。今朝、ちょっとだけパンを齧ってきたので幸い自分のは鳴っていない様子(笑)
もぞもぞ身体を動かす音、背後を歩く僧の足音。ひととおりを感じ終わると退屈が訪れた。
耳が音を探している。そして、聞こえてきたのが、自分の心臓の鼓動だった。
規則正しく自分の中を流れていく血液の音。
さっき聴いたお経のリズムのような。
考えないという時間にはならなかったかもしれないが、それを飽きずに聴き続けていると
ぽーんっと鐘が鳴って一柱が終わった。
「あ、こんなに短かったんだ」と思った。

皆は一度立ち、冷たい畳の上を半歩ずつゆっくりと歩く。
気分をリフレッシュする、ということなのだろうか。

元の位置にもどり、二柱目がはじまった。
一柱目でちょうど良い体勢だったと思ったのに、今度はその位置がよく分からない。
もぞもぞと動く自分。氷のように冷たくなっていく印を結んだ親指の先。
足もさっきよりよほど辛く感じる。
心臓の鼓動がきこえるまでに至らず、終わってしまった。
今度は、ほっとした。

暖かい部屋に移動。
老子を中心に輪ができる。半世紀も月一度の座禅会を続けておられるのだという。
この人があって、この場がある。
「はじめての方」と問われて手を挙げ、ここに書いたような感想を簡単に話した。
お茶とお菓子をいただき、九時になって散会。

夜明け前凍てついたきびしい雰囲気だった境内に、今は光があふれている。

丸い「悟りの窓」の向こうに庭の緑がある↓


右隣に四角い「迷いの窓」↓

この二つの対比は、ルネサンスの幾何学的美しさと共通する。
幾何学的な美しさは古くならないのであります↓


丹精された庭がうしろにひろがっている。借景が現代でも何者にも邪魔されていないのはありがたい↓

きけば、その向こうはお墓なので何も建たないだろうとのこと。

この源光庵、観光場所として有名なのは
★「血天井」↓

関ヶ原の戦い前哨戦となった伏見城で自刃した鳥居元忠はじめとする徳川家家臣の血の跡。
徳川家康は忠義に報いるため「その血の跡を踏んではならない」としたので、天井板にされたのだそうだ。

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京都・丹後 下見一日目

2018-02-03 13:04:44 | 国内
3月20日発あなたの知らない京都・丹後のための下見旅。ナビゲーターは「京都癒しの旅」の下戸さん。提案してくださった場所を実際に訪れて小松なりの判断をしなくては。

渉成園は東本願寺に属するが、敷地は少し離れている。ゆっくり庭を歩きたい。入口はいってするに見えてくる目隠しの塀が、いろいろな石材を再利用して美しく再構成されている↓

ちょうど庭の水を抜いて整備している時期だった。三月末までの予定だという。終わっているかしらん?

渉成園入口すぐまえのこの公団住宅が目に留まった↓この斜めにつくられた構造はおもしろい↓

調べてみると1960年代に建設されていった公団住宅に個性を持たせようと考え出された通称「スター住宅」というものの生き残りとわかった。

内部、どんなかんじなのかしらん
**
菅原道真の乳母を祀る「文子天満宮」↓

十世紀紀元ということだが、現在の社は1918年のもの


***
「市比賣神社(いちひめじんじゃ)」は女性を守る神社

https://ichihime.net/

****
茶筒の専門店↓


*****
高瀬川沿いを歩くと

かつての歓楽街の名残が残っている↓

一角で売っていた特製ポン酢、本番までに味をみておきます↓


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「半兵衛麩」は突然行ってもなかなかお席は空いていない↓

今回はお昼にしっかり予約がとれました(^.^)

今日の我々のお昼はこちらにて

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近くの路地を若い作家に貸し出す試み↓


小さな文房具店もいいですね↓


********
今日は節分、壬生寺へ行ってみよう↓

二日間限定で「ほうらく」を納めさせてくれる↓



いろいろな祈願を書いた「包絡」は、四月後半の大念仏狂言のなかで豪快に割られるのだそうだ↓
壬生寺のFacebookにも出ております
壬生狂言、今日は無料公開されていて並べば誰でも見ることが出来る↓一時間交代でいろいろな演目があるそうな↓

このお寺は鑑真和上ゆかり・つまり一千年の歴史を持ち、壬生狂言も七百年間続けられてきた。
何度も災禍に遭い、昭和三十七年に本堂を全焼したりもしているが、数多くの文化財がある。
境内の一角に近年つくられた仏塔を模した石塔群を見てもそれが感じられる↓


*********
昔ながらの町屋はそこに住んで守る人があってこそ継がれてゆく↓今回ご紹介いただいたのがこちら↓

写真でこの場所の雰囲気を伝えることはとても難しい。
ひっそりした小さな庭が美しく保たれているのは簡単なことではないはずだ↓

見る目と感じることのできる心、持って伺いたいです(^.^)
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