遠藤ワールド全開のキリスト生涯もの。
最後を迎えるキリストと
2,000年後のエルサレムを歩く「私」と
物語は2編が並行して進められる。
どうしても比較してしまうのが同じ遠藤著作の
「沈黙」
大司祭アナスの言葉が奉行とかぶったり
イエスの言葉がキチジローとかぶったりする。
どちらが先に書かれたものなのだろう。
いずれにせよ、
遠藤の宗教観を感じることができるのと同時に
超えることのできなかった壁を感じてしまう。
遠藤曰く、
イエスはただの愛の人であると。
奇跡や神ではなくただただ愛するだけの人であると。
奇跡ではなく愛のみを信じよというのが
遠藤にとってのキリストの教えなのかなぁ。
ただそうなると、
イエスにとっての神とはなんだったのだろう。
ただの理想主義者だったのだろうか。
一瞬ジョンレノンの顔がよぎる。
神とは不幸なもの、
つまり信じることすらできないような
精神的にも貧しいものにとってこそのものなのか。
結局のところ遠藤は不肖の弟子であり
だからこそイエスを欲する思いが強く
イエスもまた不肖の弟子を愛したということか。
角度は違えど遠藤の目線は
聖書に書かれたことと一致して
イエスは皆の罪を背負って
十字架に架けられたといっている。
また、この死海のほとりによると
イエスは生活のそこかしこにひそんでおり
誤解を恐れずに言えば
人間のダメな部分に
汚らしい部分に
弱い部分に
殊潜んでおられる。
「細部に神が宿る」
などという我々にとって
実に日本人的ではないか。
そしてそれを愛と呼ぶ。
しかし神がこそらじゅうにいるという表現は
極めて日本人的な多神教ならではの解釈であり
西洋のそれとは本質的に全く異なるように思う。
やはり遠藤文学は
日本人にとってのキリスト教に終始するのだなあ。
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同伴者イエスか。
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遠藤にとってのイエスとは
崇め奉る対象ではなく
遠く輝かしい道標ではなく
どんなときも気づいたら足元で
全てを許し立っている
自らの影のようなものだったのだろう。