ずっと休みになったら、
喜多の湯にゆこうと思っていて、
今日、ゆきました。
午後のひざしの中で、
露天風呂に入って、
寝ころびの湯で、
横になっていると、
いろんなことを考えることができました。
これからは寒くなるので、
自転車なりバスなりで、
喜多の湯までゆくのは、
面唐ナす。湯冷めをしてしまうし。
だから、今日、湯船に入っていて、
今度はいつ来れるのだろう、
と思いました。
確か、去年の大晦日、
ここで僕はくつろいでいて、
雪が降ってきたのでした。
あれからもう一年弱ですから、
早いです。
帰ってから、
「「知」の現場から」という、
対談集を読みました。
これは高橋源一郎の蔵書検索を、
県図書のサイトで調べていて、
知った本です。
内田樹や川上弘美、福岡伸一、酒井順子といった、
興味ある人達の名前があって、
すぐに借りにゆきました。
高橋源一郎と内田樹との対談は、
もう漫談みたいで、
笑えてきます。
良いな、
と思える内田樹の発言がありました。
「物を書く人というのは、特異な経験をしたりとか、際だった才能を持ったりとか、
ある分野で特殊な才能を持った人であって、そうではない凡庸な人間は、
指をくわえて見ているだけなのかなと、ずっと思っていた。
自分も指をくわえて見ている側だなと思っていたんだけれども、
あるときにそうではないように思えるようになった。
ひとつひとつは凡庸な経験で、何も特筆すべきことなんかないんだけれども、
それらの中には何か僕にしか書けないもの、でもみんなと共有できるような
ものが詰まっている。」 (内田樹×高橋源一郎 哲学/教育)より。
それから、
やはり源一郎と川上弘美の対談では、
緊張感というほどでもないけれど、
真摯な内容で、
これも良かったです。
川上弘美の言葉で、
読書に関して、
「途中で投げ出す本は、内容ではなく、文章自体に品がないもの。
言葉を大切にしてないと品の悪いものになるような気がします。」
という発言が僕にストンと落ちました。
あと蔵書検索でひっかかった、
吉増剛造の新刊「盲いた黄金の庭」。
これは写真集で、
合成写真が特徴です。
吉増剛造の手書きの原稿が写真で載っていて、
ルビや書体が、美しい。
吉増の詩は僕は大好きですけれど、
字がとてもきれいです。
ナントカして、
吉増剛造の講演会に、
ゆきたいし、氏のアート関連の、
催しにゆきたいな、
と思います。
喜多の湯にゆこうと思っていて、
今日、ゆきました。
午後のひざしの中で、
露天風呂に入って、
寝ころびの湯で、
横になっていると、
いろんなことを考えることができました。
これからは寒くなるので、
自転車なりバスなりで、
喜多の湯までゆくのは、
面唐ナす。湯冷めをしてしまうし。
だから、今日、湯船に入っていて、
今度はいつ来れるのだろう、
と思いました。
確か、去年の大晦日、
ここで僕はくつろいでいて、
雪が降ってきたのでした。
あれからもう一年弱ですから、
早いです。
帰ってから、
「「知」の現場から」という、
対談集を読みました。
これは高橋源一郎の蔵書検索を、
県図書のサイトで調べていて、
知った本です。
内田樹や川上弘美、福岡伸一、酒井順子といった、
興味ある人達の名前があって、
すぐに借りにゆきました。
高橋源一郎と内田樹との対談は、
もう漫談みたいで、
笑えてきます。
良いな、
と思える内田樹の発言がありました。
「物を書く人というのは、特異な経験をしたりとか、際だった才能を持ったりとか、
ある分野で特殊な才能を持った人であって、そうではない凡庸な人間は、
指をくわえて見ているだけなのかなと、ずっと思っていた。
自分も指をくわえて見ている側だなと思っていたんだけれども、
あるときにそうではないように思えるようになった。
ひとつひとつは凡庸な経験で、何も特筆すべきことなんかないんだけれども、
それらの中には何か僕にしか書けないもの、でもみんなと共有できるような
ものが詰まっている。」 (内田樹×高橋源一郎 哲学/教育)より。
それから、
やはり源一郎と川上弘美の対談では、
緊張感というほどでもないけれど、
真摯な内容で、
これも良かったです。
川上弘美の言葉で、
読書に関して、
「途中で投げ出す本は、内容ではなく、文章自体に品がないもの。
言葉を大切にしてないと品の悪いものになるような気がします。」
という発言が僕にストンと落ちました。
あと蔵書検索でひっかかった、
吉増剛造の新刊「盲いた黄金の庭」。
これは写真集で、
合成写真が特徴です。
吉増剛造の手書きの原稿が写真で載っていて、
ルビや書体が、美しい。
吉増の詩は僕は大好きですけれど、
字がとてもきれいです。
ナントカして、
吉増剛造の講演会に、
ゆきたいし、氏のアート関連の、
催しにゆきたいな、
と思います。