昨日は
動画
『ああ、ひめゆりの塔』を見た
吉永小百合主演
ある意味では
平和の重要なプロパガンダとしての
吉永小百合さんの存在は
現在でも有効である
昭和34年の作
昭和19年前後の沖縄の話
昭和19年なんて
わたしが生まれた36年から数えて
たった17年前の出来事
そういえるのは
わたしも年齢を重ね
17年という歳月が
いかに短いかを
実感できる年齢になったからである
17年前に沖縄で
こんなことがあった
ドキュメンタリーでだいたいは知っていたけれど
映画というのは
嘘もありながら
リアルに描かれるものだ
当然
美化されていよう
それでも
美化されて
あれだけの惨劇だったとしたら
もっと実際の具体は
グロテスクを極めている
見終わって
「ここから全部始まる」
と思った
戦争があって
戦後があり
今に至る
中村哲氏が空に帰った時
吉永小百合は
「許せない」
と言った
強い言葉だと思った
その理由が
この映画を見ればわかる
このような戦争犠牲が
実際にあり
その主役を演じるにあたって
相当の取材と史実を熟知せざるを得ない
不条理に「許せない」
という感情が芽生えるのは
この映画を見たあとと
そうでないのとは
まったく違う
戦争の悲惨を語りつぐ
何故
昭和34年に
この映画がつくられたか
作りたかったからだ
戦争体験は個々人で違う
個人の体験を
自費出版してのちに
残そうとする方もいる
文兼ッ人誌『じゅん文学』の
同人だった
伊勢さんである
それは伊勢さんにしかわからない
知らないことだからだ
戦争の悲惨
といっても
悲惨の現実感が乏しいから
言葉が
ただすべってゆくだけ
けれど
こうして
映像化として
作品化されることによって
わたしたちは
考え
想像することが可能になる
それが後世に残す
本当の意義である
世界を旅するカフカ先生は
ある日
言った
「わたしは観光で沖縄には行きたくない」
もちろん
他の戦地になった島々にも
日本本土を守るために
沖縄が犠牲になった
3人に1人が亡くなったという
文学も
政治も
この映画から
始まっている
ここを基点とする
過去を知れば
未来が見える
現在を現代の事物で
判ろうとしてもだめだ
そう知識人たちは
いう
その意味が
今
判る
井伏鱒二の動画を見たことがある
「戦争っていうのは恐ろしいもんです」
そう言って
井伏鱒二の表情が
長い時間
映像としてとらえられている
あのリアル感
戦争の恐ろしさのリアル感ではなく
井伏鱒二の
リアルな恐賦エが
凄かった
そうやって
二次情報に沿うしか
わたしたちには
他に方法がない
忘れられぬ映画を見た
この
『ああ、ひめゆりの塔』には
たくさんのことが
詰まっている