晴
今日も
治癒のため
バスに乗って
川沿いをゆき
湯に浸かる
どんどん
よくなってゆく
けれどまだまだ
痛し
労働を休む前日の痛みは
激減したものの
やはり
痛いものは痛い桃太郎
吉日
神戸までゆく
調べを済ませる
スマホは寝転びながら
いろいろ
作業ができる
こんな時は
ありがたい
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ずいぶん前
音楽家の友人から
言われたことを思い出す
彼は言った
「『僕』と言ったり『俺』って言ったり、『自分』とか『私』とか、文章の中でバラバラであってもいいと思う」
つまり彼は
その時々によって
人は主語を使い分ける
それが口語上の特質だと
文語になったときだけ
何故
統一しなくてはいけないのか
ある方に
「小説を書く決まりってあるんですか」
と訊かれたことがあった
「あります」
と答えたものの
実は
ない
音楽が西洋の音階だけで
作られることに違和がある
それと同様
言葉も実は決まり事は
本来ない
それは活字になったとき
読み手が読みやすいようにしただけこと
ところが会話をしている時って
主語はばらばら
この文語と口語の違いを
考える
造語という言葉は
未だ
自然発生的に
若い女の子たちから
発生し続けている
つまりそれは
言葉が実は自由だからだ
そこにこそ
言葉の面白さがある
時代が次第に認知してゆく
マイノリティな言語が
広辞苑に掲載される
造語がすでに
ャsュラリティを得たということです
「マジで」
は今や
誰でも使う
ところが
最初は造語
短縮形態だった
絵文字
スタンプで
表現する時代になって
言葉と絵が混在してくる
この面白さ
言葉だけでは誤解される場合
語尾に絵文字
またはスタンプが使用されることによって
誤解をかなりの確率で回避できる知恵
国々によって
絵文字が違う
それも面白い
卓上の文語セオリーから
コミュニケーションとしての
言語への変化
それはつまり
文学の終わりを意味する
吉本隆明が示した
「見て、きれいな花が咲いてる」
とコミュニケーション主体の思考と
「あ、きれいな花」
と自己に向かう言葉
後者が件pだという理論は
鮮やかで平明な説明だった
だからこそ
誰もが理解できない
言葉
子供が発する
意味不明の言葉が放つ
新鮮さ
ドレミファソラシドの音階で
作られた音楽と
自然発生的な音
そこに彼は音の
音楽の大事を
言っていた
そんな彼と久しぶりに
五月
会って
話ができる
またわたしは
彼の常に五年先をゆく
素敵と感嘆
に
打たれるだろう
学ぶだろう
勇気を得るだろう
楽しみ
彼は常に
教示し続けるだろう
実際に聞く音と
存在と
仕草と
言葉と
笑顔によって