kotoba日記                     小久保圭介

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現代のモーツァルト

2010年09月30日 | 文学
曇り、雨


奥田民生の「暗黒の闇」という歌の、
歌詞を、思い出していました。

「あたりは闇、
 闇って何、
 あたりは暗黒の闇」

家に帰って、
調べてみると、
間違っていました。
僕は、誤解していました。
「闇って何」
というふうに、
どうしてだか、
思い決めていたのです。
奥田民生ならではの、
歌詞だと思っていました。
韻を踏み、闇というイメージについて、
それは「何?」と、
本当に、闇が判ってるの?
みたいな。
ともかく、
上記は、間違いです。

アルバム「OTRL」の、
歌詞をちゃんと読みながら、
二度アルバムを聴いていました。
音楽は、ちゃんと歌詞を聴かずして、
音として聴いてしまうので、
歌詞をチェックしました。
http://www.uta-net.com/user/ichiran.html?&Aselect=1&Bselect=4&sort=2&Keyword=%89%9C%93c%96%AF%90%B6
すると、
奥田民生っていうのは、
ほんとう、天才ですか、
現代のモーツァルトですか、
と思います。
歌詞のいちいちを紹介すると、
キリがないのだけれど、
「食べかけのカレーのゆくえ」
なんていう歌詞が、
突然、前後に関係なく歌われています。
これが凄い。

文学の前衛だとか、
現代詩だとか、
そんなことを言うまえに、
奥田民生の歌詞をもっと、
ちゃんと調べて見る方が良いです。

遊び、
韻、
子供、
シャウト、
楽しい、
前進主義、

もういろんな言い方ができます。
「かばんに入れて、全部持っていく」
とか、
もう欲望そのまま、
とか、
「忘れちゃってくれ、忘れないでくれ」
とか、
「えんえんと、永遠と、延々と」
と3つも鰍ッています。
これは、渡り鳥の歌ですけれど、
「えんえん」っていうのは、
きっと渡り鳥の鳴き声なのじゃないか、
と僕は思うのです。
もし鳴き声ならば、
これは凄い歌詞だと思います。

そして、歌い方。
置き換えたくないけれど、
あえて、言うなら、
ャGトリーリーディングの巧さ。
奥田民生は、
何だろう。
歌詞は誰の影響があるのだろう。
現代詩なんか読んでいなさそうだけれど、
どこにこの人の言葉の、
源流があるのだろう。
わからない。
「RT」なんていう歌の詞は、
矢野顕子あたりが、
喜んで振り付けをして、
歌いそうだ。
とにかく、
奥田民生は、
楽しい。

緑がない街のゆくえ

2010年09月29日 | 生活
1㎝前に出る、
それで良い。
たいがい、
1㎝のつもりだったけれど、
結果、数メートル進むことになるのでした。
要は、
1㎝だけで良いから、
前に出ること。

朝、東風に吹かれ。


名古屋は緑がない。
緑が少ない。
みんなそう思っているのに、
口に出す前に、
忘れてしまっている。
緑が少ない街は、
ゆくえがまずい。
緑を、
と、
僕は、ベランダの、
大量の鉢植えを、
見て、
鼻から息を出す。

天使の見分け方

2010年09月28日 | 生活
朝、雨、
ほどなくあがり、
青、

帰って、
奥田民生。

自然滑稽な人の言動を、
笑う人は、
笑うことで、自然滑稽な人を殺す。
殺すことによって、
その人は、生きられるのだ。
だが、
自然滑稽な人は、
純粋なので、
神様に近い。
時々、
ホームレスの深い表情を見て、
神様の遣いではないか、
と思う時がある。
執筆時、
自然滑稽な若者とバス停で、
夜、
会って(顔見知り)、
僕は彼が天使だと後から知った。
彼はきれいでやさしい。
上等な人は、
時に自然滑稽な姿で、
僕らを試す。
天使の見分け方は、
一つ。
きれいなのだ。

やおやの幸せ

2010年09月27日 | 生活
昨日、
安い八百屋にゆきました。
たくさん野菜を買って、
ショルダーバッグに入れました。
柿も4つで200円、
すぐに食べました。
それから、
筑前煮を作りました。
八百屋で、
野菜を買って帰る道、
なんか、
とても幸せな気分でした。

今日は、
オジに、
艱難辛苦、
七難八苦という言葉を、
教わりました。
夕方から、
雨が降ってきました。


あいちトリエンナーレ

2010年09月26日 | 生活
昨夜は、あいちトリエンナーレの催しの一つ、
空に、光を出すのを見ていました。
数日前から、
あ、何だこれは、
と思っていたけれど、
忙しくて、
ちゃんと見入ることができませんでした。
昨夜は、土曜日の夜で、
夜更かしもできます。
名古屋城のどこかから、
空に向かって光が放たれていて、
まず、ベランダから見、
13階まで昇って、
そこから見学、光源が見えると思ったからですけど、
やはり見えました。
僕の家は光源から近いので。
あまりきれいだから、
一階の道路を歩き、
そのまっすぐな光を見て、
ああ、いいなあ、
って思っていました。
見るきっかけは、
まりりんさんのサイト紹介からで、
それからトリエンナーレのサイトを見ると、
昨夜でこのショーも終わり。
見なくては!
と思って、
また部屋に戻って、
ベランダに寝そべって、
見学。
ずっと見ていたかったので、
布団をずらして、
窓辺に寄せ、
眠りながら、
光のショーを見ていました。
見ていることが、
アート、
それを知ることが、
アート、
知らせることも、
アート、
そんなもんです。
アートなんかの解釈なんて、
あってないようなものだから、
ないようであるようなものだから、
どうでもいいんです。
要は、楽しいとかきれいとか、
そんだけ。
のべ、何時間も見ていました。
僕はかなり時間をかけて物事を見る方で、
「え、もう帰るの?」
とか、
よく思います。
熊野本宮なんかでも、
僕はずっとそこにいたい、
というか、そんなふうだから、
たいてい、
父や知人は、
先にどこかで待ってる、
っていうことが多いです。
何かを見極める、
というよりは、
その状態で、
ずっといたい、
対象とセックスをしていたい、
と思うのです。
あいちトリエンナーレ、
面白いです。
行きたいな、マジで。
愛知なんて名前がいいじゃん、
愛を知り、
知を愛す。
どうだ。
って何だ。

そうそう、
月がまた良かったです。
光は、最初、月に向かって、
まっすぐのびていて、
ほどなく、
光は、
月の、
右側を射していました。
気持ちのよい、
夜でした。

してないぞ

2010年09月25日 | 生活
人を観察していると、
みんなケータイを見て、
歩いています。
地下鉄だったかJRだったかに乗った時、
前の席の何人もの人が、
ケータイを見ていました。
これは、何事だ、
と僕は思う。
以前は、みんな本を読んでいた。
というか、みんな何もせずにいた。
物事を考えているのか、
ぼんやりしているのか、
眠っているのか。
何のツールもなかった。
今は、
誰もぼんやりしていません。
世相に興味がない僕でも、
これは、まずい、
と思います。


パラレルワールド

2010年09月24日 | 読書
昨夜は、1Q84(3)12章まで読みました。
去年の夏にも書いたけれど、
サブタイトルも、かっこいいです。
12章は「世界のルールが緩み始めている」です。

少しずつ読みたい本です。
ともかく面白い。

パラレルワールドという言葉を、
今年よく目にしました。
それは東浩紀著「QF」だったり、
高橋源一郎著「悪と戦う」だったり、
相対性理論の曲名であったり。
で、
この小説もパラレルワールド。

「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」で、
ダブルプロットという言葉と小説技法を、
初めて知りました。
1Q84は、ダブルどころか、4個ぐらい、
プロットがあるのじゃないでしょうか。
パラレルな感覚は、
村上春樹が、
一番早かったのでは?
と思います。

常に、どこかでもう一つの世界がある、
たとえば、誰かの生活と僕の生活。
これで、立派なパラレルワールドです。
ずっとあるものに、
名前が付けられた、
または解釈の名前としての、
パラレルワールド。
それを意識するか否か。

それと、この小説は1984年が舞台です。
東浩紀著「QF」は、確か2030年ぐらい、だったか、
未来です。
いずれにしても、
時間の前と後、
その違いは何だろうと、
比較していました。

思うに、
現在を突破してゆく勢いがある、
東浩紀さんと、
振り返る過去、
ではなくて、
過去を土台として、
長く読まれる物語を作ってゆく、
作家の習性、
のようなものかな、
と村上春樹のことを、
考えていました。
僕はどちらも、
ほんと、
素晴らしいと思う。

上に書いた三作の、
パラレルワールドは、
どれも、面白いです。

今日は、
涼しく、
曇り空。
夕刻から、
雨が降りました。


スーパー生姜(カビ要注意)

2010年09月23日 | 健康


たくさん寝て、
涼しくなった日、
やっと調子が戻ってきました。
季節の変わり目です。
今日がその日のような気がします。

筑前煮を作って、
ショウガの天日干しをしました。

(カビ注意! やはり、レンジで加熱して作った方が良いです。カリカリになるまで)

写真はそれです。

天日干しといっても、
今日は雨と曇りなので、
天日ではないけれど、
風が強いので、
ショウガは乾燥します。

「ショウガは乾燥させると良いらしい」、
と昨日の帰り、オジが言いました。
「知っとおる」
と僕は言いました。
僕らはためしてガッテンを見ていたのです。
どうやら、
ミイラ化したショウガをスーパーショウガというらしく、
それで初めて深部体温があがるそうです。
生ショウガだと、皮膚の発汗作用はあるけれど、
体は逆に冷えてしまうらしい。
たとえば、紅茶に入れたり、
みそ汁に入れたり、
温めることで成分が変わって、
体が温まるそうです。

それを知った日に、
早速、レンジでやってみたけれど、
けっこう、面唐ナした。
やっぱり、
こうやって、
天然でスーパーショウガを作るのが、
楽しいです。
このままほっておいて、
数日したら、
水分がすっかりなくなって、
ャeトチップ状になって、
できあがり。

これから体を温める季節、
スーパーショウガをせっせと作ろうと、
思います。

 (と思ったのですけど、夕方、わずかに、
  カビを発見、そのショウガは早速取り除いて、
  さっそくレンジで乾燥して、タッパーに入れて、
  冷蔵庫で保存、みなさん、カビには要注意)

写真、丸いです。
丸いことは良いことです。

夕焼けも見られたし、
明日は晴れるでしょう。
さて、寝る前まで、
「1Q84」。

お彼岸

2010年09月23日 | 生活
昨夜は暑さも手伝って、
ぐったりでした。
8時には眠ってしまい、
11時に布団で眠りました。
朝、5時半頃、目が覚めました。

窓をあけて、
空を見ていると、
涼しいです。
ほどなく、雷が鳴りました。
雷は好きなので、
良い朝だな、
と思いました。
夏休みの宿題の絵日記で、
雷を描いたことがあります。
クレヨンの赤と黄色で。
その雷の絵日記だけは、
何重も赤い丸がついていました。
自分でも、迫力のある絵が描けたと思います。
ほとんど褒められたことがないので、
そのことはよく覚えています。

暑さ寒さも、彼岸まで、
です。
激しい雨が朝降って、
日中も、かなり降りました。
気温がさがって、
厚手の長袖です。
やっと、夏が終わった。。
そんなふうに、
たくさんの人が思っている今日の気候です。

雨が上がった隙に、
買い物にゆきました。
河村市長関連の署名を、
交差点の角に設置されてある机で、
書きました。
不思議ですけれど、
今朝、僕は、署名したい、
と、
ぼんやり思っていたのです。
よく内容が判らないにもかかわらず、
署名したいと思った。
ネットでどうやったら、
署名ができるのか、
調べようとしていたほどです。
しなかったけれど。
すると、
買い物ついでに、
そんな機会があった。
こんなこともあるんだな、
と思います。

スーパーで、
一匹50円で、
秋刀魚が売っていました。
氷水に入っているやつ。
袋に4匹入れました。
別々の袋に入れて、
このまま冷凍庫です。
きっとこれはおいしい。

山崎ナオコーラ

2010年09月22日 | 生活
昨夜、
山崎ナオコーラのサイトを、
久しぶりに見ました。
ひどく気落ちしている心情が書かれてあって、
その後の更新で、
「言霊があるからもうあんなことは書かない」、
と書かれてありました。
僕は山崎ナオコーラの作品が好きなので、
あんなに気落ちすることはないのになあ、
と真剣に思いました。

山崎ナオコーラは、
小説を「作る」とずっと言っています。
そのことを、
朝、考えていました。
「作る」なのか「生む」なのか、
それを僕はよく考えますけれど、
今朝思ったのは、
両方だ、
ということです。
そんなことは、
山崎ナオコーラは当然、
判った上で、
「作る」と言うのでしょうけれど、
もう一つ、
小説について、
「キャラクター小説は書かない」、
と言っています。
これは、未だにちゃんと理解できていない事柄で、
ずっと僕はその意味を考えています。
たぶん、この発言は、大事なことだと思っています。

文学のレベルの高い人でも、
気落ちすることもあるんだなあ、
と安心しました。
そういうことを、
発露してくれたことで、
あんなにたくさん本を出して、
いろんな賞の候補になって、
映画になって、
雑誌に書いて、
という人でも、
気落ちがあるんだ、
って知りました。

それを公表しているところが、
凄いなと思います。
写真がアップされていて、
風貌はもう立派な、
女流作家です。
良い写真だな、と、
思いました。
「人のセックスを笑うな」なんて、
何度も読みました。
何が書かれてあったか覚えていないけれど、
そこにある空気感が好きで、
何度も読みたくなったのだろうと、
思います。
熊野灘の浜に寝そべって、
それを読んでいたこともありました。

一日、
山崎ナオコーラの気落ちの記事が、
どうしてだろう、
ずっと引っかかっていました。

暑い日で、
天気予報では、
今日が最後の夏日です。
帰り道、
オジと自転車を漕いでいると、
街中の熱気が凄い。
日本というより、
アジアです。
汚いゴミ箱や、
飲み屋、トンカツ屋、
風俗店、サラ金屋、
そしてこの暑さ。
街も変わる、
気候も変わりました。

家の近くになったら、
東の空に、
ガソリンスタンドの上に、
月が出ていました。
今日は中秋の名月、
四季はなくなる、
と言われていますけれど、
花鳥風月を感受する資質は、
ずっと僕らには残ります。
長い歴史ですから。

薄暮

2010年09月21日 | 生活
夕方、
柳原通り商店街を通って、
帰りました。
薄暮の商店街は、
じゅん、と人の心に、
染みこんでくる暖かみがあります。
どの店も、閉店することなく、
自転車屋、金物屋、ケーキー屋、
精肉店、八百屋に、コンビニと、
いろんな店が連なっています。
店の中で、
灯りがともっています。
もうすぐ夜が来ます。

僕はこの柳原通り商店街が好きで、
選んで通る道です。
商店街が生きている、
そんな感じです。
気配がある、と前から思っていて、
きっと、過去、この商店街を、
通った人々の、
歴史というよりは、
気配を感じるのです。
それがとても心地よい。

近所に、
もう一つ、
弁天通り商店街があります。
こちらは、道路が広く、
どうしてだろう、
歩道も、広くなりました。
そして、
弁天通りは死にました。
商店街というのは、
いじってはいけない、
と思います。
生態系があって、
不明な利便で、
歩道を広くしたら、
どうなったか。
あんなに広くする理由がどこにあったか?
弁天通りを歩いてみれば、
歩道の広さが、
無駄であることが判ります。
誰も歩いてはいない、
というのは大げさですけれど、
人がいません。
店もなくなってゆく。
市場もなくなりつつあります。
時々、盛大な夜店を連ねている時がありますけれど、
いずれ、
もっと道路を広くするための、
歩道拡張なのでしょうか。

昨今、大型ショッピングセンターが、
たくさんできました。
いつも思うのだけれど、
あれはいずれ、
すぐに終わる、
そう思います。
すぐに壊せるように、
作ってあるような気もします。

でも、
商店街は違います。
人が作った。
庶民が作った。
柳原通り商店街は、
生きています。
昔、
ここを通った人々の、
気配を残して。
僕は、数十円のハムカツを、
夕飯のおかずで、
精肉店で買おうと思いましたけれど、
もう閉まっていました。
しょうがないので、
氏神様でお参りをして、
夕飯は、
納豆を食べました。

員弁川

2010年09月20日 | 生活



今日は榊原さんと、
三重県は員弁川へ、
ハゼを釣りに行きました。
僕は眠くて、3匹だけ釣って、あとは、
堤防のコンクリートで眠っていました。
榊原さんは、約50匹釣りました。
眠っていると、
聞こえるのは、
中州でシャベルをかく音です。
あさりをとりに来ている人達です。
僕らが糸を垂れた時は、
まだ中州はありませんでした。
川の中を、地元のおばあさん達が、
歩いて、何かをとっているだけです。
潮がひいて、
中州ができる頃、
たくさんの人が、
あさりをとりに来ました。

久しぶりのハゼ釣りですけれど、
眠くてしょうがなかったです。
ほんとうに眠ってしまっていました。
写真の左手の方には、伊勢湾があります。
大きな船が通ると、
波が僕らの前まで来て、
「あ、船だ」と判るのです。

谷川俊太郎のテレビ番組の話になって、
僕が「どうも最近、谷川俊太郎を見ると気落ちするんだよね」
と言うと、
「俺もだ、だから見なかった」
と榊原さんは言いました。
どうして気落ちするのか判らないけれど、
どうやら僕だけではなさそうです。
けれど、あの風貌は、親しみがあって、
僕の父方の祖父にそっくりです。
小柄で丸い頭など、ほんとうに似ています。

村上春樹著「1Q84(3)」を数日前から読み始めています。
去年の夏、1,2を読んで、とても面白かった。
一年経つと、よく覚えていないこともあり、
やっぱり、続けて読みたかったです。
「村上春樹は何もほんとうは言いたいことがない、
村上さんは、純粋に、<小説>を書きたいんじゃないでしょうか」、
と高橋源一郎の生徒が言った言葉を、思いながら、
読んでいます。



作品

2010年09月19日 | 音楽
2009年の5月の終わりに、
僕はリングリンクスの「kobune」を聴いています。
ブログというのは、便利なもので、
このブログ内で検索をすることができます。
記録として言葉に残すのが、
僕は習性のようで、
それはずっと以前からやっています。

今日、
「kobune」を聴きながら空を見ていました。
または、
空を見ながら「kobune」を聴いていました。
でも、
どちらの言い方も正しくありません。
このリングリンクスのアルバムを、
僕は今日、新たに聴いてみて、
空を音にしている、
空を音楽で、声で、言葉で、表現している、
と思いました。
空がとても奥深いように、
リングリンクスの音楽も、
一年半前には気がつかなかったけれど、
とても、奥深いです。
歌詞はシンプルであるのに、
その言葉の質量は大きい。
僕は驚きながら、涙を少し流して、
リングリンクスの「kobune」を聴いていました。
以前、中上健次が「今、安吾が見える」と文月盾ナ、
言っていました。
その言い方を失礼ながら借りてみると、
「今、リングリンクスが見える」、
に、なります。

件p作品は、
いつまでもその形を変えません。
変わるのは、見る側、聴く側、読む側です。
その事を、今日も痛感していました。
「kobune」は買ったままの状態であるのに、
今、その音楽の奥深さを知る事ができた、
それはほんとうに素敵なことです。
作家や歌手は、
いずれ消えてしまうけれど、
作品は残ります。
よく、死んでからどうのこうの、
ということが言われますけど、
そういうことではないです。
作品こそが大事であって、
作者は二次である、
という事実です。
リングリンクスのメンバーは、
それぞれの活動を今はしているのだけれど、
「kobune」なり、アルバム、作品は、
変わらずに残る、
そのことが大事です。
だから、
表現者達は、
どんな作品でも、
形に残しておく意義があります。
なぜならば、
作品はずっと生き続けて、
何十年、経ったあとに、
誰かを勇気づけたり、
行く道を示唆したりする、
可能性があるからです。
これは事実です。

人は変わる、
時間を経れば、
良い作品だったものは、良くなくなることがあり、
良くない作品が、良くなることがある。
けれど、
作品は、変わりません。

空がいつも頭上にあります。

奥深くて、
ゆったりとした流れのなかに、
質量がある言葉と、音を、
リングリンクスに見ました。
今日、
リングリンクスが見えました。


星見えたキラリ

2010年09月17日 | 生活
朝起きて、飯食って、歯磨いて、自転車漕いで、水飲んで、挨拶して、水飲んで、路地を見て、挨拶して、直木賞がどうのこうの言って、水飲んで、走って、前に出て、後さがって、コーヒー飲んで、空見て、飯食って、挨拶して、水飲んで、影見て、日向見て、歩いて、夕方「風が出てきよった」言うて、夜帰って、飯食って、アルマゲドン観て、アメリカだ、思って、イラク戦争で劣化ウラン弾をばらまいた国の映画だ思って、風呂入って、洗濯物しまって、星見てキラリ、松倉如子の「星」っていう歌思って、濡れたバスタオル干して、寝る。

バキラってゆく

2010年09月15日 | 生活
今、奥田民生を聴きながら、
これを書いています。
やっと涼しくなってきました。
寒いくらいで、
防寒さえしています。
でも、
窓を閉める気はさらさらなくて、
こんなに気持ちの良い風を、
体で受けないともったいないです。
ずっと、暑くて大変でした。
その分、気持ち良い音楽と、
気持ち良い風を皮膚で感じて、
過ごしています。

小さな、ほんとうに小さなバキラを買いました。
ちょうど、安い野菜と安い食パンを買ったので、
300円浮いたのです。
そのお金でバキラを買いました。
小さいです。
だから、
あとから、
大きな鉢に植え替えようと思っています。
お店の人に、
越冬の方法も聞きました。
また緑が増えてしまった。

雨が強く降って、
雷も鳴りました。
週間天気予報を気にする毎日ですけれど、
予報より、ずいぶん涼しいです。
今、机の上の温度計付き時計は、
25,9度。
温かいものを食べて、
秋バテを乗り越えて、
元気に、
元気でいたいと思います。

何をしていてもいいから、
とにかく、
元気でいたいと思います。
バキラは、
力をさらに、
加えてくれるかも知れません。
民生も、力をくれます。
友もみんな力をくれます。
ありがたいなあ、
と思います。