昨日か一昨日の
中日新聞
『大波小波』
の記事が目を引いた
切り抜きしたけれど
どうぜまたどこかになくしてしまうので
ここに書き写したい
=
芥川賞候補となった社会学者古市憲寿の『百の夜は跳ねて』に対する選考委員たちの厳しい選評(『文件t秋』9月号)が話題になった。古市は参考文献として、同じビルの窓ふきの仕事を主題とする木村友祐の小説「天空の絵描きたち」(『文学界』2012年10月号)を挙げたが、その利用の仕方に疑問が示されたのである。その是非は今は問わない。
むしろ私がハッとさせらたのは、木村の次の言葉だ。「この件に関しては、『無名』の僕のことを心配してくださるより、また小説云々より、街を歩いていて見かける、ガラスの反射熱を浴びながらビルに張り付いて窓を拭く人たちに想いを寄せてくれた方が、うれしいです。こんなに機械化が進んでも、窓拭きは人力で、今も時には人が亡くなります」(本人ツイッターから)。
目線が違う。文壇やネットという「コップの中の嵐」よりも大事なものがこの世界には山ほどある。そう極端に言えば、木村にたしなめられるかもしれない。だがかつての文学者たちの覚悟を思い出す。小説など滅びても構わない。苦しむ人々がもはや文学に救いを求めずに済むような現実が実現しさえすれば。文学がその絶頂の力で役立ってくれるなら…。
------
この記事を読んで、
久しぶりに切り抜きたいと思ったのは、
まず
① かつての文学者たちの覚悟の詳細と、その氏名に興味があったから。
② 苦しむ人々がもはや文学に救いを求めず、が究極に良い。という記述。これはドキッとした。今、文学に代わる媒体として、苦しむ人々が何に救いを求めるか。
まず、マンガ、アニメ、ゲーム、ハウツー本、映画、音楽、歌、歌詞。
そして先に記述した、相田みつお、ひろはまかずとしさんたちの短い語句である。
判りやすく、すぐに胸に飛び込み、苦しむ人を救っているからこそ、たくさん相田みつお、ひろはまかずとしさんたちの、絵と言葉は売れるのだ。求められている。現代に。
③ 高田渡さんというフォークシンガーの言葉「歌わないことが一番良いんだ」
と通底している以前の文学者たち。
つまり乱暴な言い方をすれば
書き写した記事の内容は
名もなき民の苦しみの目線である。
古市さんは古市さんで本当に聴覚障害者のために
ラディカルで大事な仕事をしているし、
それをふくめて古市さんを批判するつもりはいっさいない。
ただ、文学の役割が、現在と以前では違ってきているということ。
記述の中で「文学に救いを求める」
とある
そこにもう一つ書き加えるとしたら
高橋源一郎が以前言っていた言葉だ
「文学に救いを求めるなんて甘いですよ」
それは一般読者に向けて発されたものだと思う。
そして書き手の意識のあり方としても
今一度、言っておかなければいけない
という危機感からだろう。
ここがラディカルな源一郎の立ち位置である
すでに苦しみから救う文学が終わり
違う媒体があふれた時
文学はどこへ行くのか
という命題を含んでいる
それは言葉以外
何もない
言葉の運動性と身体性に
文学の新たなというか
非社会的な役割がある
それは
言葉そのものの
現象であり
面白さ
なんだろうな
と思う
文学の黄金期は過ぎ
今は言葉の世界だ
詩人 最果タヒに代表される
言葉の運動性と
感覚だ
そして
くどいようですけれど
身体性という実感
理と情を考える
理には情を
情には理を
高橋源一郎と谷川俊太郎の対談で
かなり前の新聞で
「これから言葉はもっと短くなる」
という記事があった
ツイッターをはじめ
本当にそうなってきている
もう長い文より
短い文を先に読む
それは誰しも実感があるのではないだろうか
けれど長い文でしか現わせないという
ことも当然だけれどある
論文がそう
理には明晰なディティールが必要であり
でなければ
理にはならず
題になる
源一郎のラディカルな発言を承知した上で
「言葉を持たない者たちの通訳者」
と言った津島祐子の言葉を
わたしは今でも信じている
中日新聞
『大波小波』
の記事が目を引いた
切り抜きしたけれど
どうぜまたどこかになくしてしまうので
ここに書き写したい
=
芥川賞候補となった社会学者古市憲寿の『百の夜は跳ねて』に対する選考委員たちの厳しい選評(『文件t秋』9月号)が話題になった。古市は参考文献として、同じビルの窓ふきの仕事を主題とする木村友祐の小説「天空の絵描きたち」(『文学界』2012年10月号)を挙げたが、その利用の仕方に疑問が示されたのである。その是非は今は問わない。
むしろ私がハッとさせらたのは、木村の次の言葉だ。「この件に関しては、『無名』の僕のことを心配してくださるより、また小説云々より、街を歩いていて見かける、ガラスの反射熱を浴びながらビルに張り付いて窓を拭く人たちに想いを寄せてくれた方が、うれしいです。こんなに機械化が進んでも、窓拭きは人力で、今も時には人が亡くなります」(本人ツイッターから)。
目線が違う。文壇やネットという「コップの中の嵐」よりも大事なものがこの世界には山ほどある。そう極端に言えば、木村にたしなめられるかもしれない。だがかつての文学者たちの覚悟を思い出す。小説など滅びても構わない。苦しむ人々がもはや文学に救いを求めずに済むような現実が実現しさえすれば。文学がその絶頂の力で役立ってくれるなら…。
------
この記事を読んで、
久しぶりに切り抜きたいと思ったのは、
まず
① かつての文学者たちの覚悟の詳細と、その氏名に興味があったから。
② 苦しむ人々がもはや文学に救いを求めず、が究極に良い。という記述。これはドキッとした。今、文学に代わる媒体として、苦しむ人々が何に救いを求めるか。
まず、マンガ、アニメ、ゲーム、ハウツー本、映画、音楽、歌、歌詞。
そして先に記述した、相田みつお、ひろはまかずとしさんたちの短い語句である。
判りやすく、すぐに胸に飛び込み、苦しむ人を救っているからこそ、たくさん相田みつお、ひろはまかずとしさんたちの、絵と言葉は売れるのだ。求められている。現代に。
③ 高田渡さんというフォークシンガーの言葉「歌わないことが一番良いんだ」
と通底している以前の文学者たち。
つまり乱暴な言い方をすれば
書き写した記事の内容は
名もなき民の苦しみの目線である。
古市さんは古市さんで本当に聴覚障害者のために
ラディカルで大事な仕事をしているし、
それをふくめて古市さんを批判するつもりはいっさいない。
ただ、文学の役割が、現在と以前では違ってきているということ。
記述の中で「文学に救いを求める」
とある
そこにもう一つ書き加えるとしたら
高橋源一郎が以前言っていた言葉だ
「文学に救いを求めるなんて甘いですよ」
それは一般読者に向けて発されたものだと思う。
そして書き手の意識のあり方としても
今一度、言っておかなければいけない
という危機感からだろう。
ここがラディカルな源一郎の立ち位置である
すでに苦しみから救う文学が終わり
違う媒体があふれた時
文学はどこへ行くのか
という命題を含んでいる
それは言葉以外
何もない
言葉の運動性と身体性に
文学の新たなというか
非社会的な役割がある
それは
言葉そのものの
現象であり
面白さ
なんだろうな
と思う
文学の黄金期は過ぎ
今は言葉の世界だ
詩人 最果タヒに代表される
言葉の運動性と
感覚だ
そして
くどいようですけれど
身体性という実感
理と情を考える
理には情を
情には理を
高橋源一郎と谷川俊太郎の対談で
かなり前の新聞で
「これから言葉はもっと短くなる」
という記事があった
ツイッターをはじめ
本当にそうなってきている
もう長い文より
短い文を先に読む
それは誰しも実感があるのではないだろうか
けれど長い文でしか現わせないという
ことも当然だけれどある
論文がそう
理には明晰なディティールが必要であり
でなければ
理にはならず
題になる
源一郎のラディカルな発言を承知した上で
「言葉を持たない者たちの通訳者」
と言った津島祐子の言葉を
わたしは今でも信じている