1995年、法律的に大人になったこの年は、いろんな意味で衝撃を受けた。
パソコンのOS「Windows95」が発表され、パソコンがマニアの趣味の道具でなく、生活必需品の一員に加わるきっかけになった。また1月には、阪神、淡路大震災が起き、TV画面に飛び込んできたのは、崩壊し炎上する神戸の街並みだった。
そしてそれと同じくらい、いやそれ以上の衝撃を受けたのが・・・地下鉄サリン事件と一連のオウム騒動だった。
きょう、その事件に関わったとされる、オウム真理教の最後の指名手配犯が逮捕された。
昨年から今年にかけて、逃亡を続けていた3名が立て続けに逮捕に至ったが、犯罪に関わったとされる教祖以下主要幹部たちの裁判が終わったことと、先日NHKで放送されたドキュメンタリー番組が、この動きを再び加速させたのかもしれない、と思っている。
今この教団や、一連の事件を振り返るたび、善良(純粋)な若者がなぜ凶悪組織に、とか、教団の暴走を誰も止められなかったのか、という疑問を投げかけるシーンが多いが、片腹痛い話だと思っている。メディアはずいぶん軽く考えてるな、という疑念さえ持ってしまう。
当時を振り返ると、地下鉄サリン事件が起きるまでは、教団による犯行という考え方と、教団も被害者で、何者(国家警察、とか・・・)かの陰謀だという考え方はほぼ二分されていた。オウムにまつわる事件が起きるたび、当時の広報担当氏や弁護士がマスコミの前で弁明をしょっちゅうしていたが、当時の大体のマスコミはそれにコロッとやられて教団の支持に回り、結果として教団への強制捜査や、その後の無差別テロ(地下鉄サリン事件)を止めることができなかった。
ぼく自身は、オウムはおろか、今もそうだが、宗教にはあまり興味がない。ほぼ限りなく現実主義なところがあって、来世がどうだとか、極楽浄土の世界といってもピンとこない。たまたま今、そう思う時期なだけかもしれないが。しかし、小学校や中学校の同級生の中には実際に入信し、勧誘の電話をかけてきたこともあった。彼らがどんなことを思って入信し、どんな結末を迎えたのかは今となってはまったくわからない。
大学生活も後半に差し掛かり、もうすぐ社会の一員になろうという時期に、自分の無限の可能性を信じて飛び込んだところが、現実の国家を転覆させ、自分たちの理想を現実化した社会を目指す集団だったとしたら・・・どう考えるだろうか。途中で逃げ出すか?それとも、とことんまで突き進み、そのためには国の破滅さえ厭わないか・・・?
ここ数年はあまりオウム裁判も話題にならなかったが、そのニュースがあるたび、自分も選択によってはあの中にいたかも、という思いがどうしても頭から離れない。そしてもし自分が、まずありえないが、同じ立場にたったとしたら、迷うことはあっても、最終的に犯罪に加担していただろう・・・。そう考える自分が、時々恐ろしい。
ドキュメンタリードラマの中で、主人公の元女性信者が、一連の凶悪事件の顛末を振り返りながらも、楽しそうな表情を見せたり、教団内の「犯罪」を、独自の勝手な解釈でウヤムヤにしようとする。心の拠り所を、思いもよらぬ形で失ったとき、人はどんな態度を見せるのか、というのを、ドラマで見たように思う。きっと、楽しい(?)思い出と罪深さの間を一生、さまよい続けるだろうね。