なぜこのDVDを買ったのか記憶が定かでない。初めてこの作品を観たのは映画館ではない。以前通っていた映像翻訳の学校で、課題として使った作品のなかのひとつだったと思う。通して観たのではなく、部分だけを教材として観たのだが、それが面白かったという記憶があったのと、たぶん「限定盤」というような広告がアマゾンに出ていたのであろう。それでうっかり買ってしまった。
所謂「娯楽作品」だが興味深い場面がいくつもあって、目が離せなかった。切り口はいくらでもあるだろうが、今日は生きる意欲が命を奪うということについて考えた。主人公レオンは並外れた腕を持つ殺し屋である。その生活は厳しい自己管理によって支えられているのだが、マチルダと関わることで、その生活が微妙に変化する。そしてその完璧とも言える仕事ぶりにも影がさしてくるのである。
人間の身体も精神も自然の一部である。それを精密機械のように寸分の狂いも無く扱おうとすれば、自然とは言い難い自己鍛錬が求められるのは当然のことだろう。酒は口にせず、寝るときもベッドではなく椅子に腰掛けたまま。常に周囲への警戒を怠らず、気晴らしといえば鉢植えの手入れくらいのものだ。尤も、軍隊のような専門組織に属したことはないらしく、自己管理の方法は経験に根ざした自己流であるようだ。理論ではなく暗黙知に拠っているとも言える。
興味深いのは、そうした冷徹さが生きることの放棄によって維持されているということだ。鉢植えの草のように、根を張ることなく今だけを生きている。生きることを放棄することで強靭な生を獲得している。
それが、マチルダと出会うことで変化していくのである。はじめはレオンにとっては、自己の規律を乱す厄介な存在でしかなかったが、自分を心底頼りにしている者の存在が、彼の心に久しく不在であった何物かを呼び覚ます。それが無機的とも言える彼の精神に細波を起こし、完璧であった仕事に微妙な狂いが出始める。それでも彼は、それまでの生き方を転換して、根を下ろした生を求め始めるのである。
その結果として、マチルダの敵である巨悪と対峙することになり、強靭な彼の生は、マチルダの望みを叶えるのと引き換えに瓦解する。個人にとって、身体はひとつであり、時間は有限であり、能力には限界がある。何かを求めれば、それと引き換えに何かを差し出さなければならない。その取捨選択の基準がその人の価値観というものだ。価値観の振れのない生き方の美しさのようなものを感じられる。
ところで、この作品を観るとミルクが飲みたくなるのは何故だろう?
所謂「娯楽作品」だが興味深い場面がいくつもあって、目が離せなかった。切り口はいくらでもあるだろうが、今日は生きる意欲が命を奪うということについて考えた。主人公レオンは並外れた腕を持つ殺し屋である。その生活は厳しい自己管理によって支えられているのだが、マチルダと関わることで、その生活が微妙に変化する。そしてその完璧とも言える仕事ぶりにも影がさしてくるのである。
人間の身体も精神も自然の一部である。それを精密機械のように寸分の狂いも無く扱おうとすれば、自然とは言い難い自己鍛錬が求められるのは当然のことだろう。酒は口にせず、寝るときもベッドではなく椅子に腰掛けたまま。常に周囲への警戒を怠らず、気晴らしといえば鉢植えの手入れくらいのものだ。尤も、軍隊のような専門組織に属したことはないらしく、自己管理の方法は経験に根ざした自己流であるようだ。理論ではなく暗黙知に拠っているとも言える。
興味深いのは、そうした冷徹さが生きることの放棄によって維持されているということだ。鉢植えの草のように、根を張ることなく今だけを生きている。生きることを放棄することで強靭な生を獲得している。
それが、マチルダと出会うことで変化していくのである。はじめはレオンにとっては、自己の規律を乱す厄介な存在でしかなかったが、自分を心底頼りにしている者の存在が、彼の心に久しく不在であった何物かを呼び覚ます。それが無機的とも言える彼の精神に細波を起こし、完璧であった仕事に微妙な狂いが出始める。それでも彼は、それまでの生き方を転換して、根を下ろした生を求め始めるのである。
その結果として、マチルダの敵である巨悪と対峙することになり、強靭な彼の生は、マチルダの望みを叶えるのと引き換えに瓦解する。個人にとって、身体はひとつであり、時間は有限であり、能力には限界がある。何かを求めれば、それと引き換えに何かを差し出さなければならない。その取捨選択の基準がその人の価値観というものだ。価値観の振れのない生き方の美しさのようなものを感じられる。
ところで、この作品を観るとミルクが飲みたくなるのは何故だろう?