公開時に英国マンチェスターの映画館で観て以来、約20年ぶりに観た。当時は志を同じくする者どうしが国境を超えて心を通わせる物語と思ったように記憶しているが、改めて観ると、どうもそういうことではないようだ。
この作品が公開されたのは1989年である。日本はバブルに沸き、欧米での日本に対する注目度が一気に高くなっていた時代である。米国映画だが主要な舞台は大阪、監督は英国人のリドリー・スコット、日本人俳優は高倉健、若山富三郎、松田優作といった豪華なキャスティングで、それだけでも当時の日本の国としての勢いのようなものが感じられる。台詞のなかにも、大阪府警の松本警部補が、護送中の佐藤に逃げられてしまったニューヨーク市警の刑事に、規律を守ることの重要性であるとか、日本人の勤勉さといったことを説くところがある。今観れば、日本人としては少し恥ずかしく聞こえてしまうが、当時の自分も、日本の経済力を誇る気持ちがあったかもしれない。
リドリー・スコットは本作以前に「エイリアン」や「ブレードランナー」で映画監督としての評価を確かなものにしている。本人がどれほど意識したのか知らないが、1979年の「エイリアン」、1982年の「ブレードランナー」があり、その続編が本作なのではないかと思うのは私だけだろうか? つまり日本というのは欧米の人々から見れば、SFの世界なのではないか? 第二次世界大戦で欧米列強相手に4年間に亘る戦争を戦った国ではあるが、欧米から見れば得体の知れない国なのだろう。それが、ふと気がつくと米国に次ぐ経済力を持ち、欧米の著名な企業を買収したり、ランドマークといえるような不動産を買い漁り、美術品のオークションでは常識はずれの高値で次々と名作を競り落とし、身の回りに日本企業製の工業製品が溢れている、となれば、やはり薄気味悪く思われるのではなかろうか。
余談になるが、1989年の夏の2ヶ月間をドイツのアウグスブルクという町で過ごした。そこで日本に郵便物を送ろうとすると、たまに日本の場所を知らない局員がいた。そんな時は、郵便局の壁に貼ってある、料金帯ごとに色分けされた世界地図を使って説明していた。
「ドイツはどこ?」(と地図上で指をさしてもらう)
「ここだよ。」(と局員は指をさす)
「そこから、ずーっと右。」
「こうかい?」(と指先はロシア方面へ)
「もっと右。もっと」
「こう?もう、太平洋だよ。」(指先はユーラシア大陸を横断)
「そこ、その端の国。」
「あぁ、ここ。」
という具合だ。歴史が人々の日常生活のなかに深く影響を与えている欧州の、しかも第二次大戦では日本の同盟国であったドイツですら、このような有様なのであった。
当時の日本の勢いも無くなって久しく、少なくとも私が仕事でかかわっている分野では、自分の勤務先を含め、日本での事業を縮小したり、日本から撤退する企業が後を絶たない。経済力という点では、もはや存在感を失った感が強いが、花粉症の季節に引き続いて新型インフルエンザ対策で、街行く人々がマスクをつけている姿は、やはり奇怪なのではないだろうか。マスクの効果については諸説あるようだが、日本よりも感染患者の多い米国ではマスク姿を見かけることは殆ど無いのだそうだ。こうした違いも何かのネタになりそうで、なんとなく好奇心がそそられる。
この作品が公開されたのは1989年である。日本はバブルに沸き、欧米での日本に対する注目度が一気に高くなっていた時代である。米国映画だが主要な舞台は大阪、監督は英国人のリドリー・スコット、日本人俳優は高倉健、若山富三郎、松田優作といった豪華なキャスティングで、それだけでも当時の日本の国としての勢いのようなものが感じられる。台詞のなかにも、大阪府警の松本警部補が、護送中の佐藤に逃げられてしまったニューヨーク市警の刑事に、規律を守ることの重要性であるとか、日本人の勤勉さといったことを説くところがある。今観れば、日本人としては少し恥ずかしく聞こえてしまうが、当時の自分も、日本の経済力を誇る気持ちがあったかもしれない。
リドリー・スコットは本作以前に「エイリアン」や「ブレードランナー」で映画監督としての評価を確かなものにしている。本人がどれほど意識したのか知らないが、1979年の「エイリアン」、1982年の「ブレードランナー」があり、その続編が本作なのではないかと思うのは私だけだろうか? つまり日本というのは欧米の人々から見れば、SFの世界なのではないか? 第二次世界大戦で欧米列強相手に4年間に亘る戦争を戦った国ではあるが、欧米から見れば得体の知れない国なのだろう。それが、ふと気がつくと米国に次ぐ経済力を持ち、欧米の著名な企業を買収したり、ランドマークといえるような不動産を買い漁り、美術品のオークションでは常識はずれの高値で次々と名作を競り落とし、身の回りに日本企業製の工業製品が溢れている、となれば、やはり薄気味悪く思われるのではなかろうか。
余談になるが、1989年の夏の2ヶ月間をドイツのアウグスブルクという町で過ごした。そこで日本に郵便物を送ろうとすると、たまに日本の場所を知らない局員がいた。そんな時は、郵便局の壁に貼ってある、料金帯ごとに色分けされた世界地図を使って説明していた。
「ドイツはどこ?」(と地図上で指をさしてもらう)
「ここだよ。」(と局員は指をさす)
「そこから、ずーっと右。」
「こうかい?」(と指先はロシア方面へ)
「もっと右。もっと」
「こう?もう、太平洋だよ。」(指先はユーラシア大陸を横断)
「そこ、その端の国。」
「あぁ、ここ。」
という具合だ。歴史が人々の日常生活のなかに深く影響を与えている欧州の、しかも第二次大戦では日本の同盟国であったドイツですら、このような有様なのであった。
当時の日本の勢いも無くなって久しく、少なくとも私が仕事でかかわっている分野では、自分の勤務先を含め、日本での事業を縮小したり、日本から撤退する企業が後を絶たない。経済力という点では、もはや存在感を失った感が強いが、花粉症の季節に引き続いて新型インフルエンザ対策で、街行く人々がマスクをつけている姿は、やはり奇怪なのではないだろうか。マスクの効果については諸説あるようだが、日本よりも感染患者の多い米国ではマスク姿を見かけることは殆ど無いのだそうだ。こうした違いも何かのネタになりそうで、なんとなく好奇心がそそられる。