熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「『こころ』は本当に名作か」

2009年05月28日 | Weblog
平均すると週に1冊くらいの割合で本を読むのだが、このところ読みたいものがなく、少し困っていた。普段は新聞や雑誌の読書欄などを参考にして読むものを選んでいるのだが、内容の薄っぺらなものは読んだ後にひどく寂しい気分になる。かといって、世に?言う「名作」だの「古典」だのも自分の理解を超えてしまっていては、これまた面白くない。ある作者の作品が面白かったからといって、同じ作者の別の作品も面白いとは限らない。本を読む、という行為自体は単純なのだが、読む本を選ぶところから始まって、読んでいる最中の思考とか、読み終わってから思うあれこれとか、読むという行為の周辺を含めれば、大仕事だ。

たまたま新聞社のサイトの読書コーナーで「『こころ』は本当に名作か」というのを見つけた。所謂「読書案内」である。少し気になるところがあったので、買い求めた。

この本の著者は、高校2年と3年の時の同級生だ。といっても、殆ど口をきいたことがない。仲が悪いとか、互いに性格が悪いというような特殊事情があったわけではなく、単に親しくなるきっかけが無かったというだけのことである。本書のなかで彼は「高校時代にはいじめられっ子だった私には…」と書いているが、私たちのクラスにはそもそも「いじめ」というものはなかった。世間で謂うところの「進学校」だが、これがトップクラスの学校なら、それなりに余裕のある学校生活があったのかもしれない。2番手グループで、しかも共通一次試験という新制度が始まった直後で、大学受験にまつわる不安が大きかった所為もあり、受験勉強以外のことにはあまり興味が向かなかったと記憶している。今から思えば、もったいない時間の使い方をしてしまったと後悔の念を覚えるのだが、その当時の自分の置かれていた状況では、そうすること以外は考えられなかったのだろう。それでも、バスと電車を乗り継いで片道1時間ほどだった通学時間は主に読書にあてられ、漱石や鴎外も読んだが、なぜかヘミングウェー、スタインベック、フォークナーなどの米系作家の作品が印象に残っている。マルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」を読んだのも高校2年の夏休みだった。当時は少し背伸びをして「文学作品」を読んでいるつもりだったのだろうが、振り返ってみれば通俗なものばかりのような気もする。あまり言葉を交わすこともなかったが、彼が読書家だったことは知っているし、彼と私の通学経路が重複していたし、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけたやや猫背気味の姿も記憶にある。しかし、当時のことを思い返してみても、こうして彼の書いたものを読んでみても、状況が違っていたとしても、やはり彼とは親しい間柄にはならなかったような気がする。

メディアの世界は建前の世界だ。本当のことであっても、言ったり書いたりしてはいけないことばかりで、それらをいかに読み解くかというところに、リテラシーが要求されるものだった。今でも、意思疎通に必要なのは言葉そのものではなく、その背後に積み重ねた知性であることに変わりはない。ただ、近年はネットを通じて誰もが自分の思いを発信できるようになったことで、メディアに乗せる情報の様相が以前とは違ってきた。本書にしても、それこそ自分が高校生の頃ならば、新潮社のような大手から出版されることなどあり得なかった内容ではないだろうか。それほどブックガイドとして参考にするに値する情報が多く、自分にとってはありがたいものである。何がどのように参考になったかということは、敢えて書かないことにする。