この5ヶ月ほどの間にCDを2枚購入した。特に音楽が好きということもなく、CDを聴くオーディオ装置もパソコンしかない。そんなわけで、よほど気が向かない限りは音楽を聴くこともない。それでも、たまに聴いてみると心地よく、きちんとしたオーディオ装置があったほうがよいのではないかと思うこともある。
音楽は、もちろん、音楽そのものも大事なのだが、CDケースのデザインも大いに気になる。CDが登場してサイズが小さくなってみると、ジャケットの絵柄は今ひとつ存在感が軽くなってしまったように思われる。レコードの時代の、あの大きさでこそ、ジャケットの絵柄がサマになるように思うのである。特に、ジャズのアルバムは、中身の音楽の好みに関係なく、手にしてみたい小粋なジャケットが多い。
レコードからCDになって変わったのは、曲目の構成だ。レコードにはA面とB面があり、それぞれの面において芝居や小説のような展開があり、さらに両面を通じた世界の広がりのようなものがあった。それがCDになると最初から最後まで通しで聴くことになるし、作る側もそのような前提で曲目の配置を行うので、なんとなくアルバム全体の印象が平板になるような気がするのである。
さらに細かい話になるが、レコードを扱う時には、傷をつけないように注意を払って扱うとか、静電気除去スプレーをかけて埃を拭うといった、取り扱う際の緊張感があり、それが針を落とす瞬間に最高潮に達したものである。その緊張感を経て耳にする音にはそれだけで感動を覚えた、と言っても、あながち誇張にはならないと思う。
人は自覚している以上に様々な感覚を動員して物事を認識しているものだ。音楽ソフト市場が低迷を続けて久しいが、音楽媒体がレコードからCD、さらには無形であるネット配信へと変化することで、音楽自体の存在感も軽くなってしまったことも、その一因ではないかと思っている。
今年になってから購入した2枚のCDは以下の通りである。
“IN THE COURT OF THE CRIMSON KING AN OBSERVATION BY KING CRIMSON”
“Vladimir Horowitz FAVORITE BEETHOVEN SONATAS Moonlight, Appassionata, Pathetique”
どちらも大変気に入って聴いている。
音楽は、もちろん、音楽そのものも大事なのだが、CDケースのデザインも大いに気になる。CDが登場してサイズが小さくなってみると、ジャケットの絵柄は今ひとつ存在感が軽くなってしまったように思われる。レコードの時代の、あの大きさでこそ、ジャケットの絵柄がサマになるように思うのである。特に、ジャズのアルバムは、中身の音楽の好みに関係なく、手にしてみたい小粋なジャケットが多い。
レコードからCDになって変わったのは、曲目の構成だ。レコードにはA面とB面があり、それぞれの面において芝居や小説のような展開があり、さらに両面を通じた世界の広がりのようなものがあった。それがCDになると最初から最後まで通しで聴くことになるし、作る側もそのような前提で曲目の配置を行うので、なんとなくアルバム全体の印象が平板になるような気がするのである。
さらに細かい話になるが、レコードを扱う時には、傷をつけないように注意を払って扱うとか、静電気除去スプレーをかけて埃を拭うといった、取り扱う際の緊張感があり、それが針を落とす瞬間に最高潮に達したものである。その緊張感を経て耳にする音にはそれだけで感動を覚えた、と言っても、あながち誇張にはならないと思う。
人は自覚している以上に様々な感覚を動員して物事を認識しているものだ。音楽ソフト市場が低迷を続けて久しいが、音楽媒体がレコードからCD、さらには無形であるネット配信へと変化することで、音楽自体の存在感も軽くなってしまったことも、その一因ではないかと思っている。
今年になってから購入した2枚のCDは以下の通りである。
“IN THE COURT OF THE CRIMSON KING AN OBSERVATION BY KING CRIMSON”
“Vladimir Horowitz FAVORITE BEETHOVEN SONATAS Moonlight, Appassionata, Pathetique”
どちらも大変気に入って聴いている。