昨年11月8日付のこのブログ「鬼の嘲笑」に書いた坂田和實氏の講演会に出かけてきた。坂田氏の著作「ひとりよがりのものさし」については何度もこのブログで触れているが、目白の店のほうにはまだ一度もお邪魔したことはない。ギャラリーであるas it isのほうは何度かレンタカーを利用して出かけている。私は骨董にはあまり興味がないので、ひやかしで商売の邪魔をしては申し訳ないと思い、店には足を向けないのである。それでも坂田氏の眼には興味があるので、展示スペースであるas it isのほうには足を運ぶということだ。今日の講演によると、店のほうは坂田氏お一人で切り盛りされているそうなので、やはりお邪魔をしなくて正解だったと思う。
さて、今日の講演だが、タイトルは「私の好きなもの 美しいもの 私のものさし」。「ひとりよがりのものさし」は何度も目を通しているのだが、それでもこうして改めて坂田氏の話をうかがうと、なるほどと思うことがいくらもある。店の運営とか値付けについては、私がギャラリーを経営したいと目論んでいるので実際的な興味としてたいへん参考になった。また、いまごろになって自分の誤解に気付いたこともある。具体的には朝鮮陶磁のことだ。朝鮮陶磁については茶道具の名物と呼ばれるようなもののなかにもあるし、民藝館のような場所にもたくさんある。しかし、そのどれもがどこか緩さを感じるものだ。王朝が交代しても中国のものは完成度の高いものだけが博物館や美術館の展示を通して代々伝えられているのに対し、そこから陸続きで、時に中国王朝の一部であった時代もある朝鮮半島のものが中国の歴代のものと一線を画するのは何故だろうと素朴に疑問を抱いていたのだが、今日の講演によれば朝鮮半島でも高い評価を受けているのは中国同様に技術的完成度の高いものだそうだ。日本に伝わっている朝鮮陶磁は柳宗悦らの影響がやはり大きいのだそうだ。私は民藝館だけでなく上野の国立博物館に並んでいるものもどこか弛緩したところのあるものが多いので、それが朝鮮陶磁の特徴だとばかり思い込んでいた。これまで韓国には仕事では出かけたことがあるが、遊びに行ったことはなかったので、土地の空気のようなものを知らない。やはり、興味を持ったところには出かけてみないといけないと改めて思うのであった。
他に今日の講演で勉強になったのは、道具とそれを使う空間の取り合わせのことだ。つまり、モノというのはそれが単独で存在するのではなく、どのような場所で使われるのかという取り合わせのなかで存在するということなのである。たびたびこのブログのなかで、私は人間の在り様について関係性のなかでのみ存在すると書いている。モノは人が使うのだから、なるほど関係性のなかに存在するものだ。聞いてみれば当然のことなのだが、人とモノを無意識のうちに別扱いしていたので、今日のこの話で目から鱗が落ちる思いがした。さらになるほどと思ったのは、取り合わせという点から考えると茶道具は茶室の在り様が定着しているので、この先もその在り様に大きな変化はないだろうが、民藝は民家の姿が大きく変化しているので、この先が危惧される、ということだ。民家との取り合わせ以前に、普段使いであるはずの民藝品が普段使うのが憚られるような価格になっていることがそもそも存在の限界を示していると思うのだが、値段を克服したとしても、例えばマンションや規格化された住宅メーカーの建物のなかでしっくりと馴染むことができるだろうか、という問いかけは正鵠を射ていると思う。モノと空間の取り合わせ、というのは単にものだけのことではなく、人間同士の関係にも敷衍して考えることができる。
最後にモノを見るときのものさしについてだが、坂田氏はモノを人に置き換えて考えてみるということをおっしゃった。ようするに自分と合っているのか、長く付き合うことができるのか、とう観点で見たらよいのではないかというのである。単に美しいということだけで見ると、身近に置いておくと息苦しさを感じるほどの繊細さや完成度の高さのものあれば、愛おしくていつも傍に置いておきたいものもある。自分のものとして、自分の一部としてモノを考えるならば、自分の日常性との親和性というものが不可欠になるだろう。それは人も同じことで、誰とでも仲良くできるものではない。先ほどの取り合わせの問題と重なるが、数ある選択肢のなかから自分の生活のパートナーを選ぶのは容易なことではないのである。単に完成度の高さや学界や骨董界での評価だけで選ぶほうがどれほど簡単なことか。人間だって履歴書や釣書だけで選べば悩むことなど何もない。モノや人を選ぶというのは、つまりは自分自身の感受性が問われているということなのである。では、感受性を高めるにはどうしたらよいのか、ということになるが、それは場数を踏む、多くの刺激を受ける、というよりほかに方法はないのである。
私にとっては今日の講演もそうした刺激のひとつだ。本を読んだり人の話を聴いたり誰かとメールや会話を交わすことの喜びというのは、波が寄せたり引いたりするなかで不意にザブンと波頭が弾けるような、それこそ目から鱗が落ちるような爽快な衝撃を味わうことにあるように思う。尤も、そういう体験ができる相手というのは滅多にあるものではない。たいがいは何かの受け売りのような評論家風の能書きに終始してうんざりさせられるだけの奴が多い。類は友を呼ぶ、とも言うから、私の側に責任があることは承知している。だからこそ、そういう相手に捕まると心底がっかりする。相手に対して、ではなく、そういう奴と関係がある自分に対してだ。逆に今日のように、出かけてきた甲斐があったと思えるようなものに巡り会うと、自分の直観や選択眼もなかなかのものだという気分になる。人生もいよいよ終盤を迎えているので、少し奮起して人やモノとの付き合いを積極的にして有終の美を飾りたいものだ。
さて、今日の講演だが、タイトルは「私の好きなもの 美しいもの 私のものさし」。「ひとりよがりのものさし」は何度も目を通しているのだが、それでもこうして改めて坂田氏の話をうかがうと、なるほどと思うことがいくらもある。店の運営とか値付けについては、私がギャラリーを経営したいと目論んでいるので実際的な興味としてたいへん参考になった。また、いまごろになって自分の誤解に気付いたこともある。具体的には朝鮮陶磁のことだ。朝鮮陶磁については茶道具の名物と呼ばれるようなもののなかにもあるし、民藝館のような場所にもたくさんある。しかし、そのどれもがどこか緩さを感じるものだ。王朝が交代しても中国のものは完成度の高いものだけが博物館や美術館の展示を通して代々伝えられているのに対し、そこから陸続きで、時に中国王朝の一部であった時代もある朝鮮半島のものが中国の歴代のものと一線を画するのは何故だろうと素朴に疑問を抱いていたのだが、今日の講演によれば朝鮮半島でも高い評価を受けているのは中国同様に技術的完成度の高いものだそうだ。日本に伝わっている朝鮮陶磁は柳宗悦らの影響がやはり大きいのだそうだ。私は民藝館だけでなく上野の国立博物館に並んでいるものもどこか弛緩したところのあるものが多いので、それが朝鮮陶磁の特徴だとばかり思い込んでいた。これまで韓国には仕事では出かけたことがあるが、遊びに行ったことはなかったので、土地の空気のようなものを知らない。やはり、興味を持ったところには出かけてみないといけないと改めて思うのであった。
他に今日の講演で勉強になったのは、道具とそれを使う空間の取り合わせのことだ。つまり、モノというのはそれが単独で存在するのではなく、どのような場所で使われるのかという取り合わせのなかで存在するということなのである。たびたびこのブログのなかで、私は人間の在り様について関係性のなかでのみ存在すると書いている。モノは人が使うのだから、なるほど関係性のなかに存在するものだ。聞いてみれば当然のことなのだが、人とモノを無意識のうちに別扱いしていたので、今日のこの話で目から鱗が落ちる思いがした。さらになるほどと思ったのは、取り合わせという点から考えると茶道具は茶室の在り様が定着しているので、この先もその在り様に大きな変化はないだろうが、民藝は民家の姿が大きく変化しているので、この先が危惧される、ということだ。民家との取り合わせ以前に、普段使いであるはずの民藝品が普段使うのが憚られるような価格になっていることがそもそも存在の限界を示していると思うのだが、値段を克服したとしても、例えばマンションや規格化された住宅メーカーの建物のなかでしっくりと馴染むことができるだろうか、という問いかけは正鵠を射ていると思う。モノと空間の取り合わせ、というのは単にものだけのことではなく、人間同士の関係にも敷衍して考えることができる。
最後にモノを見るときのものさしについてだが、坂田氏はモノを人に置き換えて考えてみるということをおっしゃった。ようするに自分と合っているのか、長く付き合うことができるのか、とう観点で見たらよいのではないかというのである。単に美しいということだけで見ると、身近に置いておくと息苦しさを感じるほどの繊細さや完成度の高さのものあれば、愛おしくていつも傍に置いておきたいものもある。自分のものとして、自分の一部としてモノを考えるならば、自分の日常性との親和性というものが不可欠になるだろう。それは人も同じことで、誰とでも仲良くできるものではない。先ほどの取り合わせの問題と重なるが、数ある選択肢のなかから自分の生活のパートナーを選ぶのは容易なことではないのである。単に完成度の高さや学界や骨董界での評価だけで選ぶほうがどれほど簡単なことか。人間だって履歴書や釣書だけで選べば悩むことなど何もない。モノや人を選ぶというのは、つまりは自分自身の感受性が問われているということなのである。では、感受性を高めるにはどうしたらよいのか、ということになるが、それは場数を踏む、多くの刺激を受ける、というよりほかに方法はないのである。
私にとっては今日の講演もそうした刺激のひとつだ。本を読んだり人の話を聴いたり誰かとメールや会話を交わすことの喜びというのは、波が寄せたり引いたりするなかで不意にザブンと波頭が弾けるような、それこそ目から鱗が落ちるような爽快な衝撃を味わうことにあるように思う。尤も、そういう体験ができる相手というのは滅多にあるものではない。たいがいは何かの受け売りのような評論家風の能書きに終始してうんざりさせられるだけの奴が多い。類は友を呼ぶ、とも言うから、私の側に責任があることは承知している。だからこそ、そういう相手に捕まると心底がっかりする。相手に対して、ではなく、そういう奴と関係がある自分に対してだ。逆に今日のように、出かけてきた甲斐があったと思えるようなものに巡り会うと、自分の直観や選択眼もなかなかのものだという気分になる。人生もいよいよ終盤を迎えているので、少し奮起して人やモノとの付き合いを積極的にして有終の美を飾りたいものだ。