夜遅くなるまで雨こそ降らなかったが風の強い日だった。まずは昨日通りかかって気になった道路へ行ってみる。大坂トンネルを樫立側に抜けてすぐの側道入口に「防衛道路」という標識があった。いったいどのような道路なのかと思って車を走らせてみた。なんのことはない林道なのだが、「防衛」というだけあってよくぞここまで舗装したと感心するほど整備された道路だ。島の内部の山地のなかにある電波中継所への連絡道路を兼ねている所為もあるのかもしれないが、不必要に過剰に整備されているように感じられる。この道路は路面に苔が密生しており、交通の往来が殆ど無いことが一目瞭然だ。おそらく島の経済の主要な部分が公共事業によって支えられているのだろう。昨日丸一日島のあちこちを車で走って、至る所が工事中であることに驚いた。それも歩道に自然石風のタイルを貼るとか、歩道の縁石を交換するというような緊急性があるとは思えない工事が目立つ。崖の擁壁化工事も見かけたが、それにしても工事が多い。結局、その「防衛道路」は大坂トンネル樫立側入口から山の中を縫うようにして大賀郷の宗福寺前まで通じていた。
大賀郷を通り抜けて南原千畳敷という溶岩の海岸を訪れる。八丈富士が噴火したときの溶岩が海に流れ出して冷やされた部分で、溶岩が流れ出してから400年も経つというのに未だに生命の気配が希薄である。海岸から八丈富士を振り仰げば今でも溶岩の流れが感じられるほど溶岩の様子が生々しい。千畳敷の一画には宇喜多秀家と豪姫の石像がある。ふたり揃っておひな様のように鎮座し、海の向こうを眺めている様子である。宇喜多秀家は八丈島流人史の魁となる人物だ。八丈島には豪姫は同行していないが、八丈富士噴火の翌年、1606年に配流され、不自由な生活とはいいながら83歳で没する1655年までこの島で暮らした。今回の旅行で島へ渡るのに利用したさるびあ丸が4,973トンという規模であるにもかかわらず外洋ではそれなりに揺れるのである。宇喜多秀家の時代に使われた船がどのようなものか知らないが、航海だけでもたいへんなことだったのではなかろうか。それを思えば流刑という自らの意志とは無関係に島での生活を強いられたことに対する思いはいかばかりであろうか。
千畳敷の後、八丈島歴史民俗資料館を訪れる。これは元東京都八丈支庁として使われていた建物を利用した施設だ。一見して建物の傷みが酷い。そう遠くない将来に建て替えが必要になるのだろうが、どのような姿になるのだろうか。今回、館内の資料を見て感じたのは、自分のなかでは八丈島は離島という印象だったのだが、決してそうではないということだ。島には縄文時代の遺跡が発掘されており、最も古いもので7,000年ほど前のものだという。当時、既にここは島であったはずで、この縄文人たちはどこかから海を越えてやって来たことになる。時代を下って陶磁器など生活用具を見れば、それが日本各地から渡ってきたものであることがわかる。とはいえ、今日の八丈島の「特産」とされるようなものの多くが流刑地となってから流人を通じてもたらされているのも事実のようだ。例えば島酒として焼酎が知られているが、これは密貿易の罪で配流された薩摩の廻船問屋丹宗庄右衛門秀房が伝えたとされている。こうした経緯から八丈島産の焼酎はもともと芋を原料としたものが中心だったが、芋の確保が困難なため、現在は麦を原料としたもののほうが多いらしい。また、八丈島の特産品として黄八丈という絹織物があるが、養蚕技術を伝えたのも流人だという。これは新たな価値を創造するのは異質なものとの交流に拠るところが大という解釈も可能ではないだろうか。それは島というものが閉鎖系ではいけないということでもある。島を国とか人に置き換えてみても同じことが言えるのではなかろうか。
昼食は寿司屋で島寿司を頂く。地魚ばかりをネタにしたもので、話の種にはよい。午後1時頃だったが、店内には釣り客と思しき男性4人組と観光客風の老夫婦1組がいた。板前が釣り客と釣りの話をしている。聞くともなしに聞いていると、島の生活の一端を窺うことができてなかなか面白い。
腹が膨れた後、竹芝からの船が発着する底土港へ行き、その駐車場に車を停める。ここから歩いてすぐのところに太平洋戦争末期に設置された回天の発進基地跡がある。回天は戦時中に開発された特攻兵器のひとつで所謂「人間魚雷」である。魚雷なので本来は潜水艦に搭載されて潜水艦から発射されるのだが、戦争末期になると作戦行動可能な潜水艦の数が十分になく、こうした海岸基地から発進するという方法を取らざるを得ない状況になった。八丈島は東日本唯一の回天発進基地でこの底土地区と末吉地区に各一カ所設けられた。末吉のほうは既に無くなっているが、底土基地のほうはまだそれとわかる状況で残っている。昨日触れた震洋と同様、こちらの特攻兵器も発進の機会が無いままに終戦を迎えた。
島に着いたとき、埠頭の上に並んでいた大型のテトラポットが風景として面白いと思ったので、改めて埠頭を歩いてみた。あまりテトラポットというものを意識したことはないのだが、いままでに見たことの無い大型のもので「80t型」と側面に書かれている。埠頭の周囲にはよくあるテトラポットが組んで並んでおり、こちらは「50t」と書いてある。テトラポットというものの重さを初めて知った。港でぼんやりしていたら眠くなったので、宿に戻って昼寝をする。
八丈島には飲食店が少ない。昨日今日と島中をうろうろした結果、三根地区の護神交差点の周りに何軒か集まっているところが殆ど唯一の飲食店街だ。今夜もそこにある店に歩いて30分かけて出かけた。昨夜の店は団体客と複数の予約客で賑やかだったが、今夜の店はエイトという名前のダイニングバーで、私が訪れた時点で誰もいなかった。カウンターのなかにふたりの青年が立っていた。話をするとふたりとも島の人ではないという。それがどうして八丈島に渡って来てここで商売をするようになったのか、というようなことは聞かなかった。店自体は営業を始めて5年ほどになるという。こちらで頂いたのは以下の通り。
豆腐ハンバーグ
メカジキのかき揚げ
島たくあん
今夜も酒を飲む。八丈島には島の規模の割には地酒である焼酎の種類が多い。今日も島酒のなかから選んだ。
月下美人(この店のオリジナルカクテル)
鬼殺し
昨夜に続いて今夜も2杯だけなのだが酔って雄弁になり、他に客がいないのをいいことに店のニイチャンふたりを相手におしゃべりを楽しませて頂いた。
大賀郷を通り抜けて南原千畳敷という溶岩の海岸を訪れる。八丈富士が噴火したときの溶岩が海に流れ出して冷やされた部分で、溶岩が流れ出してから400年も経つというのに未だに生命の気配が希薄である。海岸から八丈富士を振り仰げば今でも溶岩の流れが感じられるほど溶岩の様子が生々しい。千畳敷の一画には宇喜多秀家と豪姫の石像がある。ふたり揃っておひな様のように鎮座し、海の向こうを眺めている様子である。宇喜多秀家は八丈島流人史の魁となる人物だ。八丈島には豪姫は同行していないが、八丈富士噴火の翌年、1606年に配流され、不自由な生活とはいいながら83歳で没する1655年までこの島で暮らした。今回の旅行で島へ渡るのに利用したさるびあ丸が4,973トンという規模であるにもかかわらず外洋ではそれなりに揺れるのである。宇喜多秀家の時代に使われた船がどのようなものか知らないが、航海だけでもたいへんなことだったのではなかろうか。それを思えば流刑という自らの意志とは無関係に島での生活を強いられたことに対する思いはいかばかりであろうか。
千畳敷の後、八丈島歴史民俗資料館を訪れる。これは元東京都八丈支庁として使われていた建物を利用した施設だ。一見して建物の傷みが酷い。そう遠くない将来に建て替えが必要になるのだろうが、どのような姿になるのだろうか。今回、館内の資料を見て感じたのは、自分のなかでは八丈島は離島という印象だったのだが、決してそうではないということだ。島には縄文時代の遺跡が発掘されており、最も古いもので7,000年ほど前のものだという。当時、既にここは島であったはずで、この縄文人たちはどこかから海を越えてやって来たことになる。時代を下って陶磁器など生活用具を見れば、それが日本各地から渡ってきたものであることがわかる。とはいえ、今日の八丈島の「特産」とされるようなものの多くが流刑地となってから流人を通じてもたらされているのも事実のようだ。例えば島酒として焼酎が知られているが、これは密貿易の罪で配流された薩摩の廻船問屋丹宗庄右衛門秀房が伝えたとされている。こうした経緯から八丈島産の焼酎はもともと芋を原料としたものが中心だったが、芋の確保が困難なため、現在は麦を原料としたもののほうが多いらしい。また、八丈島の特産品として黄八丈という絹織物があるが、養蚕技術を伝えたのも流人だという。これは新たな価値を創造するのは異質なものとの交流に拠るところが大という解釈も可能ではないだろうか。それは島というものが閉鎖系ではいけないということでもある。島を国とか人に置き換えてみても同じことが言えるのではなかろうか。
昼食は寿司屋で島寿司を頂く。地魚ばかりをネタにしたもので、話の種にはよい。午後1時頃だったが、店内には釣り客と思しき男性4人組と観光客風の老夫婦1組がいた。板前が釣り客と釣りの話をしている。聞くともなしに聞いていると、島の生活の一端を窺うことができてなかなか面白い。
腹が膨れた後、竹芝からの船が発着する底土港へ行き、その駐車場に車を停める。ここから歩いてすぐのところに太平洋戦争末期に設置された回天の発進基地跡がある。回天は戦時中に開発された特攻兵器のひとつで所謂「人間魚雷」である。魚雷なので本来は潜水艦に搭載されて潜水艦から発射されるのだが、戦争末期になると作戦行動可能な潜水艦の数が十分になく、こうした海岸基地から発進するという方法を取らざるを得ない状況になった。八丈島は東日本唯一の回天発進基地でこの底土地区と末吉地区に各一カ所設けられた。末吉のほうは既に無くなっているが、底土基地のほうはまだそれとわかる状況で残っている。昨日触れた震洋と同様、こちらの特攻兵器も発進の機会が無いままに終戦を迎えた。
島に着いたとき、埠頭の上に並んでいた大型のテトラポットが風景として面白いと思ったので、改めて埠頭を歩いてみた。あまりテトラポットというものを意識したことはないのだが、いままでに見たことの無い大型のもので「80t型」と側面に書かれている。埠頭の周囲にはよくあるテトラポットが組んで並んでおり、こちらは「50t」と書いてある。テトラポットというものの重さを初めて知った。港でぼんやりしていたら眠くなったので、宿に戻って昼寝をする。
八丈島には飲食店が少ない。昨日今日と島中をうろうろした結果、三根地区の護神交差点の周りに何軒か集まっているところが殆ど唯一の飲食店街だ。今夜もそこにある店に歩いて30分かけて出かけた。昨夜の店は団体客と複数の予約客で賑やかだったが、今夜の店はエイトという名前のダイニングバーで、私が訪れた時点で誰もいなかった。カウンターのなかにふたりの青年が立っていた。話をするとふたりとも島の人ではないという。それがどうして八丈島に渡って来てここで商売をするようになったのか、というようなことは聞かなかった。店自体は営業を始めて5年ほどになるという。こちらで頂いたのは以下の通り。
豆腐ハンバーグ
メカジキのかき揚げ
島たくあん
今夜も酒を飲む。八丈島には島の規模の割には地酒である焼酎の種類が多い。今日も島酒のなかから選んだ。
月下美人(この店のオリジナルカクテル)
鬼殺し
昨夜に続いて今夜も2杯だけなのだが酔って雄弁になり、他に客がいないのをいいことに店のニイチャンふたりを相手におしゃべりを楽しませて頂いた。