今日は仙台市内を歩いた。午前9時に宿をチェックアウトする。まずは仙台ファーストタワーアトリウムで開催中の「せんだいにあったもの」という坂田和實のコーディネートによる古道具の展示を観る。まさか仙台で「坂田和實」の名に出会うとは予想もしていなかったが、今月は氏の講演会で幕開けて氏のコーディネイトによる展示の見学で終わることになった。それがなんとはなしに落ち着きが良いように感じられて嬉しい。今月はとりあえずの就職先が見つかってやれやれと思うこともあり、一旦乱れたリズムがなんとか落ち着いたということとも重なっているように感じられる。
3月3日の日本民藝館での講演会で氏はものとそれが在る空間との兼ね合いの重要性を語っておられた。そういう意味では「せんだいにあったもの」の展示は唐突な印象を拭えない。会場がオフィスビルのエントランスフロアのなかにある多目的スペースなのだから、多目的とはいいながらそこに弥生土器や昔の農機具が並んでしっくりくるわけがない。でも面白い。会場を訪れたとき警備員一人がいるだけで他に誰もいなかった。しばらくうろうろと展示品を眺めてから帰りかけると警備のおじさんが「10時になると係の人が来て説明してくれますよ」と言う。そのおじさんも妙な展示をするものだと思っているらしいことが表情から見て取れる。そりゃそうだよなぁ、と思うのである。展示の副題が「美しさって、何だろう。」だ。そこに新聞配達かなにかに使われていたようなごつい自転車であるとか、何十年も前のレジスターや、農家などで使われていたらしい補修跡がいくつもある大きな蒸し器とか、何の変哲も無い平瓦といったものが弥生土器や農機具と一緒くたになって並んでいる。それがまたよいのである。本展の展示品の多くが仙台市歴史民俗資料館の所蔵品とのことなので、そこへ出かけてみることにした。
JRのあおば通駅から仙石線に乗り、榴ヶ岡で下車。地上に出て榴岡公園を突っ切って目的地に到着。仙台市歴史民俗資料館は榴岡公園の一画にある。建物は宮城県に現存する最古の洋風木造建築で、二階建て寄棟造瓦葺、漆喰壁、コーナーストーン装飾、上げ下げ窓、洋風円柱ポーチなどの特徴を持つ。「最古」といいながら竣工時期は明確に特定されておらず、明治7(1874)年と推定されているらしい。もともとは帝国陸軍第四連隊の兵舎として使われ、昭和20(1945)年8月までは陸軍が使用していた。戦後は昭和31(1956)年まで占領軍が使用、その後、昭和50(1975)年まで警察学校の施設として使われていた。昭和52(1977)年に榴岡公園整備に伴って現在の場所に移築されたそうだ。移築に際しては明治37(1904)年当時の外観を再現したという。そういういわれのある建物なので、内部の梁や階段の手摺といった構造物ひとつひとつに標識が付されている。内部は一階が事務所で二階が展示スペースだ。展示されているのはもちろん民俗史料が中心だが、建物の由来の関係で兵舎内部を再現した部分もある。「民俗博物館」とか「民俗資料館」というものは各地にあるが、私の知る限り、国立歴史民俗博物館の近世および現代のコーナーに重なる。ただし、ここの展示はこの100年ほどに焦点を当てている印象が強く、電気製品のカタログや学校教科書などは、展示としてかなり細かく網羅している。東北というとなんとなく暗い印象があるのだが、仙台に関しては米どころの中心地であり、近代の軍都であり、学術研究拠点のひとつでもあり、北日本の中心都市でもあるということで、かなり豊かな土地であるように見える。また、そう思わせるような展示内容だ。
歴史民俗資料館からは宮城野大通を仙台駅まで歩く。仙台の幹線道路はとにかく幅が広い。駅を東口から西口へ抜けてバス乗り場へ行く。観光用の循環バスがあり、それ用の一日乗車券をバス案内所で購入する。結論から言えば、これは失敗だった。通常なら平日は20分間隔の運転なのだが、震災被害の影響で一部ルートがいまだに使用不能で迂回路を使っているといった事情もあって現在は30分間隔だ。ところが時間帯によっては観光客が多くて今日も少なくとも午前中から午後の早い時間帯まではどのバスも満員で運行している。30分間隔で乗り降りに難儀をするというのでは使い勝手が悪い。小銭を用意するなどして一般の路線バスを利用するほうがはるかに簡便に市内を動くことができる。そんなわけで、一日乗車券を買ったにもかかわらず、利用したのは仙台駅前から瑞鳳殿までだけだった。それ以外はひたすら歩いて移動した。
瑞鳳殿は伊達政宗公の墓所だ。仙台伊達藩初代藩主である伊達政宗、二代目の忠宗、三代目の綱宗の御霊屋が敷地内にある。墓所なので人気の少ない場所にある。にもかかわらず昭和20年7月10日の米軍による空襲で焼失した。ようやく1970年代に再建され、今世紀に入ってさらに改修が加えられて現在の姿になったのだが、昨年の震災で屋外の石灯籠が全基倒壊するなどの被害を受けた。駅周辺の市街地を歩くぶんには震災の爪痕はもや殆ど感じられないのだが、歴史的建造物のようなナイーブな建築物となると破損した場合の原状回復が容易ではないのである。石灯籠は一部を除いて復旧されているものの、注意深くみれば比較的新しい欠けなどを確認することができる。
敷地内には資料館があり、再建に際して発掘された埋蔵品のレプリカなどが展示されている。人骨をもとに復元された伊達政宗の等身大の姿や、忠宗と綱宗の頭部像も展示されていて興味深い。政宗というとNHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」で政宗を演じた渡辺謙をイメージするのだが、実際にはかなり小柄な人だったようだ。推定身長159センチ、血液型はBで、死因は食道癌および腹膜炎だったという。
瑞鳳殿から広瀬川を2回越えて仙台市博物館に行く。広瀬側というのは都市域内を流れる川にしては蛇行している。川付近のある地点から別の地点へ移動するに際し、なるべく直線で結んだ線に近い経路で行こうとすると、時として川を串刺しにするように何回か越えることになる。川が蛇行することに何の不思議もないのだが、蛇行をそのままにしておくと増水したときに氾濫を起こし易くなるので、都市を流れる比較的大きな河川は流路を改修して水害をおこしにくくするのが一般的ではないだろうか。戦後に大規模な都市改修を実施しているにもかかわらず広瀬側が大きく蛇行したままになっているのは、川底が深い谷になっていて氾濫の危険が小さいことと、改修が困難であることによるのだろう。こういう都市は他にあるだろうか。瑞鳳殿から仙台市博物館へ至る途中、大手町という地域にギャラリーやそれに類似の商店が点在している。住宅街に埋没するように営業しているので、気をつけておかないと見逃してしまうのだが、そういうものがあるのがなんとなく自然に感じられるような雰囲気の地域だ。
仙台市博物館は旧仙台城の三の丸に立地している。収蔵品は伊達家から寄贈された史料や品物を核に、仙台に関する歴史や文化に関するものとなっている。展示されている年表を見ると、仙台は多くの震災と冷害に見舞われていることがわかる。最近でこそ温暖化が問題になっているが、古くは気候が厳しく農業、殊に元来は熱帯性の作物である稲作には課題の多い地域なので冷害が多いのはやむを得ないところもある。東北地方に限らず日本列島全体が地震の巣の上に横たわっているようなものなので大規模地震の被害もある程度は覚悟しないといけないのかもしれない。それにしても、数十年に一度の割合で何がしかの大規模災害に見舞われ、その都度復興を果たしてきた。よく東北の人は粘り強いなどと言われるが、それは単なるイメージのことではなく、現実を受け容れるには粘り強さがないといけないということなのだろう。
仙台市博物館の一階では写真展「生きる」が開催されている。これは今月2日から15日まで新宿で開催されていた東日本大震災関連の写真展が巡回してきたものだ。テレビも新聞も無い生活をしているので初めて見る写真ばかりで、もう一年も前のことで、しかも東北とは何の縁もないのに、眺めていたら涙が溢れてきてしまった。今、その時のことを思い出しながらこうしてキーボードを打っているだけで目の前のスクリーンが曇ってしまって見えにくくなる。若い頃は何かに涙することなど滅多に無かったように思うのだが、歳を取ると涙腺が緩くなるのだろうか。改めて、生きるとはどういうことなのかと思う。
仙台城は石垣や一部のブロンズ像などの修復が終わっておらず、城跡内部を通る道路にも通行止め区間が残っている。仙台市博物館を出て大手門跡のほうへ行くと、門跡の石垣が崩壊しており、門跡に向かって右手の壁は中央部が陥没している。本丸方向へ進むと崖側の歩道の舗装とガードレールが部分的に新品になっており、震災後に修復されたものと思われる。その新しいガードレールから崖下を覗くと斜面の崩壊跡がある。その先は全ての石垣が何がしかの被害を受けており、崩壊しかかった石垣を仮止めすべく大きな土嚢が積み巡らされている。石垣というのは組み上げられた状態では堅牢なのだろうが、想定を超える衝撃を受けるなどしてその一部が崩壊すると単なる瓦礫になってしまう。堅牢に見えていながら、実はナイーブな構造物なのである。無数に組み上げられた石のなかのひとつでも構造から抜け出てしまうと、それを押し戻して済むというようなことでは収まらず、その抜けが出た周囲の広範な部分、場合によっては全体を組み直さなければならなくなる。おそおらくそれは石垣に限ったことではなく、構造を持ったもの全てに共通した性質だろう。人体のような有機物も、社会組織のような半有機物も、無機物の構造体である石垣と似たことがあるように思う。ただ、有機物の場合は個々の構成要素がある程度自立的に動いて構造全体の崩壊を阻止しようとするので、無機物ほどにはナイーブではないということだろう。本丸も所々が修復工事の真最中だが、騎乗の伊達政宗公の銅像は何事もなかっかのように城下を見つめている。しかし、その近くにある鳥が羽を広げた像は台座から転落してブルーシートがかけてある。転落した像の損傷を拡大しないためにそのままにされているのだろう。
由緒のある公園やそれに準じた場所というのはどこでもそうなのかもしれないが、仙台城跡は銅像や石碑の類が多い印象がある。そうした記念碑を残す意味というのは一体何だろうか。本丸から坂道を下りながらふと考えた。私も自分の銅像をどこかに建ててやろうかと。映画「ショーシャンクの空に」のように人知れず少しずつ台座を設置する穴を掘り、ある程度の大きさになったところで銅像を専門業者に発注するのである。像と台座が完成したところで深夜に公共工事のような顔をして設置してしまう。公衆便所の近くのような目立たない場所にある日忽然と姿を現す。半年ほどしてから、誰かが気付くが誰も何も知らない。公園などの公共の場所であれば、役所はそれを撤去するだろう。しかし、誰が建てたものなのかわからなければ撤去費用の請求先がわからない。費用が計上できなければそのまま放置される。そのことが話題になると、真似をする奴が現れないとも限らない。100年もすると公園という公園に銅像がニョキニョキと立っている。なんていうふうになったら楽しいかもしれない。
本丸からの下りは沢門跡から清水門跡へ向かう。この道は舗装されておらず山道のような風情がある。清水門跡の石垣も崩壊寸前で囲いがしてある。再び仙台市博物館の前を通り残月亭の脇を抜ける。残月亭は土壁が落ちたり屋根が損傷するといった被害があるらしく、周囲を工事用の柵で囲われて修復作業の最中だ。ここから宮城県美術館へ行こうかと思ったが、既に午後4時近くなっており、見学の時間が十分に無いので仙台市戦災復興記念館へ向かう。
太平洋戦争のとき、日本は至る所が米軍の空襲を受けた。東京で暮らしていると、東京大空襲と広島・長崎の原爆以外にあまり具体的なイメージが湧かないのだが、私の母親は宇都宮で空襲に遭っており、そのときのことはたびたび聞かされる。学生の頃に平泉を訪れたとき、平泉駅の跨線橋の木製の手摺に米軍戦闘機による機銃掃射の弾痕があって、こんなところまで攻撃されたのかと驚いたことがある。仙台の空襲のことも今回初めて知った。
仙台は昭和20年7月10日午前0時03分から約2時間に亘ってB29戦略爆撃機123機による空襲を受けた。投下された爆弾は100ポンド膠化ガソリン爆弾、500ポンド集束焼夷弾、500ポンドエレクトロン集束焼夷弾の計12,960発、917.6トンだそうだ。集束焼夷弾とはひとつの爆弾ケースのなかに複数の子爆弾が格納されており、上空で子爆弾が放出されて地上に落下する。どちらの集束焼夷弾にもひとつあたり48個の小型焼夷弾が収まっている。この日投下された12,960発のうち集束弾は2,155発なので、全ての集束弾が子爆弾を無事に放出したとすれば地上に降ってきたのは114,245発という勘定になる。これにより仙台市中心部は焦土と化した。翌年、仙台市は復興事業計画をまとめ、15年後の昭和36年3月に工事を完了、さらに15年後の昭和52年10月に事業を完了した。仙台市戦災復興記念館では、その空襲から復興までを俯瞰できるようになっている。
昨年9月に倉敷で開催された民藝学校に参加したとき、仙台に光原社という民芸品店があるのを知った。仙台にでかけることがあれば是非立ち寄ってみたいと思っていたが、今日その機会が訪れた。戦災復興記念館を後にして晩翠通に出て、青葉通へ向かって南下する。晩翠通と青葉通の角のあたりに土井晩翠が暮らしたという家屋が保存されている。青葉通に入り、晩翠の家であったという晩翠草堂の前を通って国分町通との交差点まで進む。その交差点を南に折れてさらに歩くと国分町通と五ツ橋通の角に仙台光原社がある。看板も内装も有名な作家やデザイナーの手になるものなので絵に描いたような民芸品店だ。仙台に立地しているので東北のものが多いのかと思っていたが、品揃えは都内の民芸品店とそれほど違わない。民芸品というのは万人受けするものではないので、扱うほうの店もそれなりに主義主張があり、商品ひとつひとつを徹底的に吟味して選んでいる、と思う。それくらいなので店員の商品知識は商品そのものだけではなく作り手についてまでも網羅しているものだ。この店も例外ではなく、たいへん愉快な時間を過ごすことができた。倉敷出身で現在はタイで活動しているという作家がデザインした木綿と麻の混紡布に草木染めを施したシャツを一着買い求めた。
店を出ると午後6時だ。国分町通を北上し、南町通との交差点を東へ折れ、最初の信号から北へアーケードが伸びている。そこを商店のウィンドウを眺めながら歩く。途中、カフェに寄って一服しながら、午後7時10分前くらいに仙台駅に着く。仙台からは午後7時13分発のやまびこ64号に乗り大宮で埼京線に乗り換えて板橋で下車。巣鴨の住処には午後9時半過ぎに着いた。
3月3日の日本民藝館での講演会で氏はものとそれが在る空間との兼ね合いの重要性を語っておられた。そういう意味では「せんだいにあったもの」の展示は唐突な印象を拭えない。会場がオフィスビルのエントランスフロアのなかにある多目的スペースなのだから、多目的とはいいながらそこに弥生土器や昔の農機具が並んでしっくりくるわけがない。でも面白い。会場を訪れたとき警備員一人がいるだけで他に誰もいなかった。しばらくうろうろと展示品を眺めてから帰りかけると警備のおじさんが「10時になると係の人が来て説明してくれますよ」と言う。そのおじさんも妙な展示をするものだと思っているらしいことが表情から見て取れる。そりゃそうだよなぁ、と思うのである。展示の副題が「美しさって、何だろう。」だ。そこに新聞配達かなにかに使われていたようなごつい自転車であるとか、何十年も前のレジスターや、農家などで使われていたらしい補修跡がいくつもある大きな蒸し器とか、何の変哲も無い平瓦といったものが弥生土器や農機具と一緒くたになって並んでいる。それがまたよいのである。本展の展示品の多くが仙台市歴史民俗資料館の所蔵品とのことなので、そこへ出かけてみることにした。
JRのあおば通駅から仙石線に乗り、榴ヶ岡で下車。地上に出て榴岡公園を突っ切って目的地に到着。仙台市歴史民俗資料館は榴岡公園の一画にある。建物は宮城県に現存する最古の洋風木造建築で、二階建て寄棟造瓦葺、漆喰壁、コーナーストーン装飾、上げ下げ窓、洋風円柱ポーチなどの特徴を持つ。「最古」といいながら竣工時期は明確に特定されておらず、明治7(1874)年と推定されているらしい。もともとは帝国陸軍第四連隊の兵舎として使われ、昭和20(1945)年8月までは陸軍が使用していた。戦後は昭和31(1956)年まで占領軍が使用、その後、昭和50(1975)年まで警察学校の施設として使われていた。昭和52(1977)年に榴岡公園整備に伴って現在の場所に移築されたそうだ。移築に際しては明治37(1904)年当時の外観を再現したという。そういういわれのある建物なので、内部の梁や階段の手摺といった構造物ひとつひとつに標識が付されている。内部は一階が事務所で二階が展示スペースだ。展示されているのはもちろん民俗史料が中心だが、建物の由来の関係で兵舎内部を再現した部分もある。「民俗博物館」とか「民俗資料館」というものは各地にあるが、私の知る限り、国立歴史民俗博物館の近世および現代のコーナーに重なる。ただし、ここの展示はこの100年ほどに焦点を当てている印象が強く、電気製品のカタログや学校教科書などは、展示としてかなり細かく網羅している。東北というとなんとなく暗い印象があるのだが、仙台に関しては米どころの中心地であり、近代の軍都であり、学術研究拠点のひとつでもあり、北日本の中心都市でもあるということで、かなり豊かな土地であるように見える。また、そう思わせるような展示内容だ。
歴史民俗資料館からは宮城野大通を仙台駅まで歩く。仙台の幹線道路はとにかく幅が広い。駅を東口から西口へ抜けてバス乗り場へ行く。観光用の循環バスがあり、それ用の一日乗車券をバス案内所で購入する。結論から言えば、これは失敗だった。通常なら平日は20分間隔の運転なのだが、震災被害の影響で一部ルートがいまだに使用不能で迂回路を使っているといった事情もあって現在は30分間隔だ。ところが時間帯によっては観光客が多くて今日も少なくとも午前中から午後の早い時間帯まではどのバスも満員で運行している。30分間隔で乗り降りに難儀をするというのでは使い勝手が悪い。小銭を用意するなどして一般の路線バスを利用するほうがはるかに簡便に市内を動くことができる。そんなわけで、一日乗車券を買ったにもかかわらず、利用したのは仙台駅前から瑞鳳殿までだけだった。それ以外はひたすら歩いて移動した。
瑞鳳殿は伊達政宗公の墓所だ。仙台伊達藩初代藩主である伊達政宗、二代目の忠宗、三代目の綱宗の御霊屋が敷地内にある。墓所なので人気の少ない場所にある。にもかかわらず昭和20年7月10日の米軍による空襲で焼失した。ようやく1970年代に再建され、今世紀に入ってさらに改修が加えられて現在の姿になったのだが、昨年の震災で屋外の石灯籠が全基倒壊するなどの被害を受けた。駅周辺の市街地を歩くぶんには震災の爪痕はもや殆ど感じられないのだが、歴史的建造物のようなナイーブな建築物となると破損した場合の原状回復が容易ではないのである。石灯籠は一部を除いて復旧されているものの、注意深くみれば比較的新しい欠けなどを確認することができる。
敷地内には資料館があり、再建に際して発掘された埋蔵品のレプリカなどが展示されている。人骨をもとに復元された伊達政宗の等身大の姿や、忠宗と綱宗の頭部像も展示されていて興味深い。政宗というとNHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」で政宗を演じた渡辺謙をイメージするのだが、実際にはかなり小柄な人だったようだ。推定身長159センチ、血液型はBで、死因は食道癌および腹膜炎だったという。
瑞鳳殿から広瀬川を2回越えて仙台市博物館に行く。広瀬側というのは都市域内を流れる川にしては蛇行している。川付近のある地点から別の地点へ移動するに際し、なるべく直線で結んだ線に近い経路で行こうとすると、時として川を串刺しにするように何回か越えることになる。川が蛇行することに何の不思議もないのだが、蛇行をそのままにしておくと増水したときに氾濫を起こし易くなるので、都市を流れる比較的大きな河川は流路を改修して水害をおこしにくくするのが一般的ではないだろうか。戦後に大規模な都市改修を実施しているにもかかわらず広瀬側が大きく蛇行したままになっているのは、川底が深い谷になっていて氾濫の危険が小さいことと、改修が困難であることによるのだろう。こういう都市は他にあるだろうか。瑞鳳殿から仙台市博物館へ至る途中、大手町という地域にギャラリーやそれに類似の商店が点在している。住宅街に埋没するように営業しているので、気をつけておかないと見逃してしまうのだが、そういうものがあるのがなんとなく自然に感じられるような雰囲気の地域だ。
仙台市博物館は旧仙台城の三の丸に立地している。収蔵品は伊達家から寄贈された史料や品物を核に、仙台に関する歴史や文化に関するものとなっている。展示されている年表を見ると、仙台は多くの震災と冷害に見舞われていることがわかる。最近でこそ温暖化が問題になっているが、古くは気候が厳しく農業、殊に元来は熱帯性の作物である稲作には課題の多い地域なので冷害が多いのはやむを得ないところもある。東北地方に限らず日本列島全体が地震の巣の上に横たわっているようなものなので大規模地震の被害もある程度は覚悟しないといけないのかもしれない。それにしても、数十年に一度の割合で何がしかの大規模災害に見舞われ、その都度復興を果たしてきた。よく東北の人は粘り強いなどと言われるが、それは単なるイメージのことではなく、現実を受け容れるには粘り強さがないといけないということなのだろう。
仙台市博物館の一階では写真展「生きる」が開催されている。これは今月2日から15日まで新宿で開催されていた東日本大震災関連の写真展が巡回してきたものだ。テレビも新聞も無い生活をしているので初めて見る写真ばかりで、もう一年も前のことで、しかも東北とは何の縁もないのに、眺めていたら涙が溢れてきてしまった。今、その時のことを思い出しながらこうしてキーボードを打っているだけで目の前のスクリーンが曇ってしまって見えにくくなる。若い頃は何かに涙することなど滅多に無かったように思うのだが、歳を取ると涙腺が緩くなるのだろうか。改めて、生きるとはどういうことなのかと思う。
仙台城は石垣や一部のブロンズ像などの修復が終わっておらず、城跡内部を通る道路にも通行止め区間が残っている。仙台市博物館を出て大手門跡のほうへ行くと、門跡の石垣が崩壊しており、門跡に向かって右手の壁は中央部が陥没している。本丸方向へ進むと崖側の歩道の舗装とガードレールが部分的に新品になっており、震災後に修復されたものと思われる。その新しいガードレールから崖下を覗くと斜面の崩壊跡がある。その先は全ての石垣が何がしかの被害を受けており、崩壊しかかった石垣を仮止めすべく大きな土嚢が積み巡らされている。石垣というのは組み上げられた状態では堅牢なのだろうが、想定を超える衝撃を受けるなどしてその一部が崩壊すると単なる瓦礫になってしまう。堅牢に見えていながら、実はナイーブな構造物なのである。無数に組み上げられた石のなかのひとつでも構造から抜け出てしまうと、それを押し戻して済むというようなことでは収まらず、その抜けが出た周囲の広範な部分、場合によっては全体を組み直さなければならなくなる。おそおらくそれは石垣に限ったことではなく、構造を持ったもの全てに共通した性質だろう。人体のような有機物も、社会組織のような半有機物も、無機物の構造体である石垣と似たことがあるように思う。ただ、有機物の場合は個々の構成要素がある程度自立的に動いて構造全体の崩壊を阻止しようとするので、無機物ほどにはナイーブではないということだろう。本丸も所々が修復工事の真最中だが、騎乗の伊達政宗公の銅像は何事もなかっかのように城下を見つめている。しかし、その近くにある鳥が羽を広げた像は台座から転落してブルーシートがかけてある。転落した像の損傷を拡大しないためにそのままにされているのだろう。
由緒のある公園やそれに準じた場所というのはどこでもそうなのかもしれないが、仙台城跡は銅像や石碑の類が多い印象がある。そうした記念碑を残す意味というのは一体何だろうか。本丸から坂道を下りながらふと考えた。私も自分の銅像をどこかに建ててやろうかと。映画「ショーシャンクの空に」のように人知れず少しずつ台座を設置する穴を掘り、ある程度の大きさになったところで銅像を専門業者に発注するのである。像と台座が完成したところで深夜に公共工事のような顔をして設置してしまう。公衆便所の近くのような目立たない場所にある日忽然と姿を現す。半年ほどしてから、誰かが気付くが誰も何も知らない。公園などの公共の場所であれば、役所はそれを撤去するだろう。しかし、誰が建てたものなのかわからなければ撤去費用の請求先がわからない。費用が計上できなければそのまま放置される。そのことが話題になると、真似をする奴が現れないとも限らない。100年もすると公園という公園に銅像がニョキニョキと立っている。なんていうふうになったら楽しいかもしれない。
本丸からの下りは沢門跡から清水門跡へ向かう。この道は舗装されておらず山道のような風情がある。清水門跡の石垣も崩壊寸前で囲いがしてある。再び仙台市博物館の前を通り残月亭の脇を抜ける。残月亭は土壁が落ちたり屋根が損傷するといった被害があるらしく、周囲を工事用の柵で囲われて修復作業の最中だ。ここから宮城県美術館へ行こうかと思ったが、既に午後4時近くなっており、見学の時間が十分に無いので仙台市戦災復興記念館へ向かう。
太平洋戦争のとき、日本は至る所が米軍の空襲を受けた。東京で暮らしていると、東京大空襲と広島・長崎の原爆以外にあまり具体的なイメージが湧かないのだが、私の母親は宇都宮で空襲に遭っており、そのときのことはたびたび聞かされる。学生の頃に平泉を訪れたとき、平泉駅の跨線橋の木製の手摺に米軍戦闘機による機銃掃射の弾痕があって、こんなところまで攻撃されたのかと驚いたことがある。仙台の空襲のことも今回初めて知った。
仙台は昭和20年7月10日午前0時03分から約2時間に亘ってB29戦略爆撃機123機による空襲を受けた。投下された爆弾は100ポンド膠化ガソリン爆弾、500ポンド集束焼夷弾、500ポンドエレクトロン集束焼夷弾の計12,960発、917.6トンだそうだ。集束焼夷弾とはひとつの爆弾ケースのなかに複数の子爆弾が格納されており、上空で子爆弾が放出されて地上に落下する。どちらの集束焼夷弾にもひとつあたり48個の小型焼夷弾が収まっている。この日投下された12,960発のうち集束弾は2,155発なので、全ての集束弾が子爆弾を無事に放出したとすれば地上に降ってきたのは114,245発という勘定になる。これにより仙台市中心部は焦土と化した。翌年、仙台市は復興事業計画をまとめ、15年後の昭和36年3月に工事を完了、さらに15年後の昭和52年10月に事業を完了した。仙台市戦災復興記念館では、その空襲から復興までを俯瞰できるようになっている。
昨年9月に倉敷で開催された民藝学校に参加したとき、仙台に光原社という民芸品店があるのを知った。仙台にでかけることがあれば是非立ち寄ってみたいと思っていたが、今日その機会が訪れた。戦災復興記念館を後にして晩翠通に出て、青葉通へ向かって南下する。晩翠通と青葉通の角のあたりに土井晩翠が暮らしたという家屋が保存されている。青葉通に入り、晩翠の家であったという晩翠草堂の前を通って国分町通との交差点まで進む。その交差点を南に折れてさらに歩くと国分町通と五ツ橋通の角に仙台光原社がある。看板も内装も有名な作家やデザイナーの手になるものなので絵に描いたような民芸品店だ。仙台に立地しているので東北のものが多いのかと思っていたが、品揃えは都内の民芸品店とそれほど違わない。民芸品というのは万人受けするものではないので、扱うほうの店もそれなりに主義主張があり、商品ひとつひとつを徹底的に吟味して選んでいる、と思う。それくらいなので店員の商品知識は商品そのものだけではなく作り手についてまでも網羅しているものだ。この店も例外ではなく、たいへん愉快な時間を過ごすことができた。倉敷出身で現在はタイで活動しているという作家がデザインした木綿と麻の混紡布に草木染めを施したシャツを一着買い求めた。
店を出ると午後6時だ。国分町通を北上し、南町通との交差点を東へ折れ、最初の信号から北へアーケードが伸びている。そこを商店のウィンドウを眺めながら歩く。途中、カフェに寄って一服しながら、午後7時10分前くらいに仙台駅に着く。仙台からは午後7時13分発のやまびこ64号に乗り大宮で埼京線に乗り換えて板橋で下車。巣鴨の住処には午後9時半過ぎに着いた。