熊本熊的日常

日常生活についての雑記

あれから◯年

2012年03月11日 | Weblog
3月10日は東京大空襲の日でもある。太平洋戦争で東京が空襲を受けたのはこの日だけではないのだが、1945年3月10日の空襲が規模において最大であったので、一般に「東京大空襲」と言えば1945年3月10日午前0時7分から午前2時37分にかけて実施された空襲を指す。爆撃に参加したのは米軍第73、第313、第314の三個航空団のB-29爆撃機325機。なかには気象観測や着弾観測専任機のような爆撃には直接関わらなかった機もあったはずなので、実際の爆撃は300機ほどによるのだろう。爆撃用の機には通常の倍に相当する6トンの高性能焼夷弾が搭載されていた。この爆弾は東京を爆撃するためにカスタマイズされたものである。従来の焼夷弾は瞬発あるいはそれに近い遅発信管が装着され、爆発のエネルギーで目標物を破壊する。木造家屋が密集している東京市街地の爆撃には爆発よりも燃焼によって目標物を破壊するものが使われた。木造とは言え、関東大震災の教訓で東京の家屋は燃えにくい素材で補強されており、例えば陶器の屋根瓦などがそれにあたる。そこで、核爆弾には空中での姿勢を制御することで、屋根瓦を突破しやすいようにして、建物内部で着火剤を飛散させて火災を発生させる工夫を凝らした。つまり、米軍は関東大震災の被害状況を徹底的に検証し、その成果を東京爆撃の目標選定から爆弾開発にまで活用しているのである。東京大空襲の被害地域の中核部分が関東大震災の延焼地域とほぼ重なっているのはそのためだそうだ。爆弾の搭載量を通常の倍にするということは、その分既存装備の軽量化が必要になる。東京大空襲参加機はほぼ全ての機銃とその弾薬を降ろしたという。これは迎撃を受けることは想定しておらず、受けたとしても無視しうる程度という評価をしていたことを示している。実際、作戦参加325機のうち撃墜されたのはわずかに12機であり、撃破された機体も42機にとどまった。既に日本に防空能力は無かったのである。防空能力が無いということは戦争継続能力も無いということだ。この後、日本が連合国に対し降伏するまでに5ヶ月を要したということは何を意味するのだろうか。しかも、この5ヶ月の間には引き続いての本土爆撃と広島・長崎への原爆投下が行われる一方、日本軍も大和が参加した海上特攻や菊水作戦のような捨て身の戦いを続ける。確かに特攻によって連合軍側にもそれなりの被害が出ているが、結果としては日本の無条件降伏に終わった事実を見れば、1945年当時の日本の統治者たちの能力というものについて疑念を抱かないわけにはいかず、今の時代に当時の教訓がどれほど活きているのかということについても、一年前の東北の震災とそれに伴う原発事故への対応を見れば、不安を抱かないわけにはいかない。統治者の能力というのは国民全体のそれでもある。他人事ではなく、自分がどうなのかということをやはり反省しないわけにはいかない。