落語を聴きに横浜へ遠征する。寄席と違って落語会は何ヶ月も前に切符を手配するので、暇にしていることが強く想定される場合であっても万が一何か予定が入ることも宝くじが当たるような確率ではあるけれども一応考慮するので、昼夜連続口演というのは切符の購入を躊躇ってしまう。それで昼の部だけ、夜の部だけを予約することになるのだが、たまに両方聴いておけばよかったと嬉しくも悔しい思いをすることになる。今日はまさにそういう日だった。
今日の会はただの落語会ではない。「文学しばり」というタイトルが付されていて、何がしか文学作品に関連したネタが披露される。しかも、上方と東京からそれぞれを代表する噺家がネタをかけるのである。上方のほうは桂吉坊、東京は柳家喬太郎だ。吉坊のほうを聴くのは今回が初めてだった。見た目は子供のようだが、プロフィールを見れば30歳を超えている。噺を聴けばもっとずっと上をいっている。吉朝の弟子で米朝の内弟子も経験しているとのことなので、師匠との巡り合わせにも恵まれているのだろうが、やはり本人の感性と才能が抜きん出ているということだろう。今日はこの人に出会えただけでも横浜まで出かけて来た甲斐があったと嬉しく思う。
もっと嬉しいのは初ネタ披露の場を共有できたことだ。吉坊が口演した「夜櫻ばなし」は正岡容の作で、昨年6月に米朝宅で発見された直筆原稿を噺に起こしたものだそうだ。狐に化かされる噺なのだが、単なる滑稽でもなければ妖怪潭でもない。狐や狸に化かされるというのは、人間と自然界との交流を描いていると見ることができる。狐が象徴するのは勿論自然界であり、それが人間を化かすというのは、双方のトランザクションを象徴していると見ることができる。その関わりを妖怪潭としてまえば、それは双方の対立関係に焦点を当てているということであり、滑稽潭とするなら共存関係のほうに重きを置いた世界観が背後にあるということだ。「夜櫻ばなし」はどちらかといえば後者だが、夜桜という舞台装置とも相俟って、たいへん美しい世界が展開する。聴いていて嬉しくなる噺なのである。
一方、喬太郎がトリで口演した「赤いへや」はその対極だ。江戸川乱歩の同名作品をモチーフとしたもので、密室のなかで作り話とも実話ともわからぬ「プロバビリティの殺人」事例が次々に語られる。聴いているうちに気分が悪くなるほどのものだ。サゲも後味が悪く、落語としては口演場所を選ぶ難しいネタである。しかし、「夜櫻ばなし」と一緒に口演されるなら、こういうものでも良いのではないか。そもそも落語とは何かということに対する考え方次第ではあるのだが、故談志が語っていたように「人間の業」を表現する芸であるとするなら、落語会が耳にやさしい噺だけで終わるというのは人を食った話といわれても反論できまい。ほのぼのと心温まる噺もあり、見てはいけないものを見てしまったような後味の悪い噺もあることで、聴衆は自分について、人というものについて何事かを考えさせられるはずだ。それこそが芸というものではないだろうか。昨今、つまらぬことにいちいち目くじらを立てて大騒ぎをする風潮があるように感じられるのだが、そういう時代だからこそ、こういう刺激の強い噺を聴かせる場がもっとあっていいと思う。
今日は夜の部しか聴かなかったのだが、昼は源氏物語の「空蝉」をモチーフにした「ウツセミ」と米朝作の「淀の鯉」が口演されたと知り、こちらも是非聴きたかったと残念に思う。
本日の演目
入船亭辰じん 「手紙無筆」
柳家喬太郎 「ほんとのこというと」
桂吉坊 「夜櫻ばなし」
仲入り
桂吉坊 「胴乱の幸助」
柳家喬太郎 「赤いへや」
座談会:柳家喬太郎、桂吉坊、宮本亜門
開演:17時
終演:19時55分
会場:KAAT神奈川芸術劇場
今日の会はただの落語会ではない。「文学しばり」というタイトルが付されていて、何がしか文学作品に関連したネタが披露される。しかも、上方と東京からそれぞれを代表する噺家がネタをかけるのである。上方のほうは桂吉坊、東京は柳家喬太郎だ。吉坊のほうを聴くのは今回が初めてだった。見た目は子供のようだが、プロフィールを見れば30歳を超えている。噺を聴けばもっとずっと上をいっている。吉朝の弟子で米朝の内弟子も経験しているとのことなので、師匠との巡り合わせにも恵まれているのだろうが、やはり本人の感性と才能が抜きん出ているということだろう。今日はこの人に出会えただけでも横浜まで出かけて来た甲斐があったと嬉しく思う。
もっと嬉しいのは初ネタ披露の場を共有できたことだ。吉坊が口演した「夜櫻ばなし」は正岡容の作で、昨年6月に米朝宅で発見された直筆原稿を噺に起こしたものだそうだ。狐に化かされる噺なのだが、単なる滑稽でもなければ妖怪潭でもない。狐や狸に化かされるというのは、人間と自然界との交流を描いていると見ることができる。狐が象徴するのは勿論自然界であり、それが人間を化かすというのは、双方のトランザクションを象徴していると見ることができる。その関わりを妖怪潭としてまえば、それは双方の対立関係に焦点を当てているということであり、滑稽潭とするなら共存関係のほうに重きを置いた世界観が背後にあるということだ。「夜櫻ばなし」はどちらかといえば後者だが、夜桜という舞台装置とも相俟って、たいへん美しい世界が展開する。聴いていて嬉しくなる噺なのである。
一方、喬太郎がトリで口演した「赤いへや」はその対極だ。江戸川乱歩の同名作品をモチーフとしたもので、密室のなかで作り話とも実話ともわからぬ「プロバビリティの殺人」事例が次々に語られる。聴いているうちに気分が悪くなるほどのものだ。サゲも後味が悪く、落語としては口演場所を選ぶ難しいネタである。しかし、「夜櫻ばなし」と一緒に口演されるなら、こういうものでも良いのではないか。そもそも落語とは何かということに対する考え方次第ではあるのだが、故談志が語っていたように「人間の業」を表現する芸であるとするなら、落語会が耳にやさしい噺だけで終わるというのは人を食った話といわれても反論できまい。ほのぼのと心温まる噺もあり、見てはいけないものを見てしまったような後味の悪い噺もあることで、聴衆は自分について、人というものについて何事かを考えさせられるはずだ。それこそが芸というものではないだろうか。昨今、つまらぬことにいちいち目くじらを立てて大騒ぎをする風潮があるように感じられるのだが、そういう時代だからこそ、こういう刺激の強い噺を聴かせる場がもっとあっていいと思う。
今日は夜の部しか聴かなかったのだが、昼は源氏物語の「空蝉」をモチーフにした「ウツセミ」と米朝作の「淀の鯉」が口演されたと知り、こちらも是非聴きたかったと残念に思う。
本日の演目
入船亭辰じん 「手紙無筆」
柳家喬太郎 「ほんとのこというと」
桂吉坊 「夜櫻ばなし」
仲入り
桂吉坊 「胴乱の幸助」
柳家喬太郎 「赤いへや」
座談会:柳家喬太郎、桂吉坊、宮本亜門
開演:17時
終演:19時55分
会場:KAAT神奈川芸術劇場