熊本熊的日常

日常生活についての雑記

大絶滅時代

2012年03月10日 | Weblog
午前中は「生き物モニタリング調査まとめ報告会」というものに出席した。東京大学大学院農学生命科学研究科保全生態学研究室がボランティアの協力を得て都内で蝶の生態をベンチマークにして生物多様性モニタリングを行っているそうだ。今日の報告会のプレゼンは2部構成で、一部が鷲谷いづみ先生による生物多様性の意味についての説明、二部は須田真一先生による2011年度調査のまとめにつてであった。この「調査」というのは都内で募集したボランティアによる蝶の観察調査のことだ。生活のなかで発見した蝶について、いつどのような場所でどのような状況で発見したのかを報告するのだという。どちらも大変興味深いものだった。

地球に生命が誕生してから約40億年が経過しているということは、おそらく誰でも知っているだろう。この40億年の間に種が極端に減少した時期が6回あるのだそうだ。しかも今が6回目の真最中だというのである。種の減少というのは絶滅率という指標によって計られるのだそうだ。これは「1,000年につき1,000種類の生物のうち何種が絶滅したか」というものだ。一番目の大絶滅時代がいつで直前のものがいつだったのか、というようなことはプレゼンでは触れられていなかったのだが、以前のものが地殻変動や隕石の衝突のようなイベントドリブンであったのに対し、現在のものは人間の活動に伴う生態系の破壊が原因になっているという点でこれまでに例のないものだという。話を聴いていると、自分も生態系破壊に一役買っているようだ。今、世界人口の約半分が都市で生活をしているという。この比率は今後10年以内に6割に上昇するらしい。都市化による緑地の減少と都市自体のヒートアイランド化で温暖化が加速すると見られている。これにより生態系の破壊がますます進行するのである。そうしたなかで生物多様性を確保すべく、対処療法的に絶滅危惧種の保護を図っているわけだが、それが生態系保全に対して気休め程度の意味しか成さないのは明らかだろう。勿論、現状把握と的確な現状認識はそれに対する効果的な対応をする上で必須のことではあるのだが、人間が増えすぎたとか、人間活動が生態系のなかで過剰に活発であるというようなことに対する根本的な対応というのは小手先の環境対策ではなく、人間を大胆に減らすこと以外にないのではないか。それができないなら、遅かれ早かれ絶滅するよりほかにどうしようもないのではないだろうか。個人的な経験として、学生時代にエコロジー研究会というサークルに籍を置いたこともあり、多少はそういうことを考えたこともあるのだが、今いろいろな分野で行われている環境保全の試みはどれも温暖化阻止あるいは生態系保全という目的に対してあまりに枝葉末節な部分への対処でしかないという印象しか持つことができない。

午後は先週末に引き続いて今日も東京都現代美術館を訪れ、秋山祐徳太子、赤瀬川原平、山下裕二による鼎談を聴いてきた。タイトルは「現代泡沫論」。ここでの「泡沫」は、選挙で使われる「泡沫候補」に由来するもので、秋山が70年代に都知事選に2回立候補してそのように呼ばれたことから、彼等が「泡沫」というものに注目するようになったというのである。鼎談のほうは個別具体的な事例を挙げながら「泡沫」か否かというような話に終始していたが、面白くて笑ってばかりいた。そのなかで3人ともに妙に納得している様子だったのは独文学者の種村季弘氏が言っていたという「本気で一生を棒に振る人」との定義だった。ふと、私も泡沫かもしれないと思った。なんて。