熊本熊的日常

日常生活についての雑記

10%の重さ

2012年03月28日 | Weblog
来月になると遠出ができなくなるので、明日、仙台に行くことにした。朝食を済ませた後、ネットで宿泊先や往復の足を探していたら9時半頃に宿の価格の一部がざっと変更されたように感じた。一部で直前モードに切り替わったのかもしれない。仙台に泊まるのは大学3年の夏休み以来のことだ。当時はユースホステルに泊まり、今回は単純に最安価格のカプセルホテルを予約した。新幹線のほうはJR東日本のサイトで予約する。行きは定価の10%引きの席で、帰りは若干のネット割引。大宮・仙台間は乗車券と特急券合わせて1万円近くするので一割引はそれなりにありがたい。

1割といえば消費税が10%になるらしい。税率引き上げに向けていろいろ言われているが、そういうものを聞いていて不思議に思うことがある。日本の財政が深刻な状況にあり、国家としての機能を維持するには収入を増やさないといけないという。そのなかで毎年の支出がどれくらいで、それに対する収入がいくらで、不足分を国債に依存し、国債の残高がいくらで、というようなフローに関する話はいくらも出てくるのに、日本が国家として保有している資産がどれほどなのかということは聞いたことが無い。もっと不思議なのは、それを誰も問うている様子がないことだ。家計でも企業財務でもストックとフローの両方を把握した上で行動しているはずだ。自分の日常生活における当然を自分が身を置いている国家財政の議論に当てはめるという発想がないのは何故だろうか。想像するに、役人も議員も報道関係者も経済評論家も皆エライひとたちなので自分で家計簿をつけるというような小さなことに思いが至らないのではないか。何千億もの年金基金が「消失」しても大騒ぎになるまで当事者以外は気がつかないのだから何のための「監督官庁」だかわからないような役所もあるくらいだ。小さな事を気にしないというと大人物のようだが、かといってこの国に大きなビジョンがあるとも思えない。エライ人たちというのは幽霊のようなものなのかもしれない。まさに共同幻想体だ。

10%の割引が「大きい」と感じられるということは10%の消費税も同じくらい「大きい」と感じられるはずだ。そういうものだと慣れてしまえばどうというほどのことでもないのかもしれないが、引き上げられてしばらくは間違いなく経済活動は停滞することになるだろう。財政を立て直すために税収増を図るはずが、経済活動の沈滞で却って税収が減ってしまうということにでもなれば、その責任は誰がどのような形で取るのだろうか。木を見て森を見ずという。部分最適を積み上げても全体最適に至るとは限らないというのは誰しも経験則として実感しているはずだと思うのだが、税金という制度に関する変更の難しいところは、その影響がすぐにはわからないというところにある。制度を手直しして、それが社会のなかに咀嚼され、人々の行動に反映されるまでに何年かかるかわからない。その間にもさまざまな影響が日に陰に現れて、なかには直ぐに対応しなければならないこともあり、なかには無視しても差し支えないものもあり、しかしその場においては無視してもよいのかどうか判断がつかないものである。

昨年の地震に伴う原発事故で原発というものが制御不能であることが明らかになった。50いくつもの原発を抱えてしまった後になって、つまり原発というものが電力行政という制度に組み込まれてしまった後になって、その問題が露呈され、露呈されたときには手の付けられない状況なのである。原発による発電コストは他より安いはずなのに、こういう事態に陥って所轄の電力会社は実質的に国有化されなければならないほどの費用を負担しなければならくなった。費用というのはこうした万が一の事態への対応も見据えた上で算定されているのかと思っていたが、そうではないことが明らかだ。原発の厄介なことのひとつは廃棄物の処理だ。50いくつある原発の殆どが停止している、つまり電力という収入源を生まない状態になっているにもかかわらず、毎日費用は発生している。爆発してしまった原発に至っては再稼働しないことが確定しているのに、事故の後始末にどれほどの費用がかかるか誰にもわからないようなことになっている。殊に垂れ流し状態になっている放射能への対応と、それに汚染された廃棄物の処理は費用だけの問題ではないだろう。誰の手で、どのように処理され、最終的にどうなるのか、誰かわかっているのだろうか。

それで消費税だが、10%に引き上げたときに、どのような影響があって、国家財政はどうなるのか。誰かわかっているのだろうか。