熊本熊的日常

日常生活についての雑記

インフレの不思議

2008年05月18日 | Weblog
昨日、日本のアマゾンで本を注文した。こちらの住所宛に送ってもらうと配送料を取られるのだが、この配送料が、昨年11月は5,500円、今年1月は6,400円、先月が6,700円で、昨日は7,300円だった。原油価格の上昇が止まらず、航空運賃が値上がりを続けているのだから仕方が無いのだが、物価上昇が選択的に生起しているような気がする。つまり、上がって欲しいものは上がらず、上がって欲しくないものが値上がりしているように思えるのである。

私は自動車を持っていないので、ガソリン価格への関心はそれほど高いほうではないのだが、ガソリンスタンドには大きな数字で価格が表示されているので自然に目に入ってしまう。いつも通勤途上で通りかかるガソリンスタンドでは無鉛レギュラーが109.9である。1リットルあたり1ポンド9.9ペンスという意味だ。数日前に108.9から値上がりした。ここに越してきた頃は99.9だった。

一方で、保有している株式の値段は直視に耐えない惨状だ。尤も、仕事の関係で、口座が凍結されているので、上がっても下がっても売り買いはできないのだが、これほどの評価損を抱えると気分が良くない。

小学生の頃、石油危機を経験した。当時、なぜかトイレットペーパーと砂糖が店頭から姿を消した。風が吹けば桶屋が儲かる、という言葉があるが、石油が値上がりして、人々がトイレットペーパーと砂糖の買い溜めに走る理屈がさっぱり理解できなかった。

今も、世の中の物価がどのような仕組みで決まっているのか、理解できていない。少なくとも需給だけで決まっているわけではあるまい。それぞれの物に固有の事情があるだろう。それにしても、原油という世の中に流通している財貨の基礎となるものが驚くような価格になっているのである。物価上昇圧力の吸収力は、財貨や産業によって様々だろうが、上昇という方向性は同じではないのか? しかも、自分にとって上がって欲しいと思う切実さの度合いが大きいものほど上がらないと感じるのは、単なる気のせいだろうか。保有している株だけではなく、給料やボーナスも上がる気配が全く感じられない。世の中の何か根本的な部分に決定的な欠陥があるような気がしてならない。

「ヘッジホッグ」

2008年05月17日 | Weblog
金融市場に関連した仕事のおもしろさは、人間の欲望を間近に感じることができることだと思う。お金というものが、富の象徴である限り、人はその獲得を目指して右往左往する。市場経済においては、ありとあらゆるものが貨幣価値で表現され、その財貨の保有量と獲得能力が人間に対する評価の軸を形成する。人間の行動原理は、他の生物種と同様、自己保存であるから、自己の遺伝子を残すという命の奥深い所から発せられる指令に従い、自分の貨幣価値を高めるべくあくせくするのである。手っ取り早く、かつ合法的に、貨幣を獲得できるかもしれない場所が金融市場だ。一応「投資」と名付けているが、要は、貨幣を右から左へ移転させるだけで増やそうという、錬金術のようなことを公然と行う場所である。

さすがに、無から有を産み出すということは、金融市場といえどもできない。しかし、10を100にしたり、100を1にしたりというのはそれほど困難なことではない。何故なら、人はそれぞれに価値観を持ち、その価値観に従って物事を評価するので、ある人にとって10の価値があるものは、別の人には100の価値に見えたり、1に見えたりするからである。そこに交換機会が生じ、上手く適切な相手を見つけることができれば、1が10に、10が100に変わるのである。その交換機会を制度化したものが金融市場である。

ギャンブラーというと、怪しげな人物を思い浮かべ、ファンド・マネージャーというと絵に書いたような秀才を思い浮かべるかもしれないが、やってることはどちらも同じようなものだ。おそらく、見た目が違うとしても、一皮剥けば、中身は同じだろう。彼等に求められるのは、その様々な価値観の持ち主である人間に対する洞察力と幸運である。

さて、「ヘッジホッグ」だが、著者の人間観察が興味深かった。長年にわたり米国大手投資銀行でリサーチや運用に携わり、2003年からはヘッジファンドを立ち上げ、その経営をしているという人が語る投資家たちの横顔は、この世界で生き残るにはどのような資質が必要なのかということを示唆している。結局、それは投資家としてという以前に、人として生きて行くのに必要なのは何か、ということを語っているようにも思えるのである。それが何なのか、自分のなかで大いに感じるものがあった。あまりに深く感じたので、誰にも言わないことにする。

国民とは何者か

2008年05月16日 | Weblog
同僚がイギリス国籍を取得した。彼の国では二重国籍が認められているので、晴れて2つの国籍を持つことになった。

英国籍を持つことメリットを尋ねたら、EU域内でどこでも就労できることだという。確かに理屈ではそうだろうが、それほど容易なことではないだろう。つまり、英国籍を持っていても、現実にはそれほどのメリットがあるとは思えないのである。

ところで、国民とはなんだろう?

And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you - ask what you can do for your country.

あまりにも有名な、ケネディ米大統領就任演説の一節である。この言葉に国民のあるべき姿が描写されており、同時に民主政治の本質が表現されている。

かつて、国家は支配者と領民との上下関係によって成り立っていた。支配者は領民から税を徴収し、戦時には軍事力として領民を徴発する代わりに、領民に対して生活の場を与えていた。領民の立場からすれば、国家は自分たちに保護を与えてくれる存在であったと言える。

民主国家は、国民の代表者が政治を司ることになっている。つまり、政治権力は国民と対等の関係なのである。ということは、国民は自分の問題として政治を考えなければならないという状況に置かれている。対等の関係とは、互いに権利と義務を持ち合う関係なのである。従って、真の民主国家が成り立つためには、国民の誰もが政治家になることができるほどの見識を備えていなければならないということだ。民主国家というものが未だに成立し得ない理由はここにある。

さきの引用は、大統領という立場から国民に呼びかけたものだが、”country”を他の言葉に置き換えれば、組織とその構成員との関係、人間と人間との関係にまで敷衍することのできる普遍性を持っている。

人も含めて、生き物の行動原理は自己保存だと思う。人の場合は、エゴとして自分の欲求や要求ばかりを相手に突き付け、自分が相手に何をする用意があるのかという視点が無いことが多い。昔、「くれない族」という言葉が流行したが、そう呼ばれる人たちが恐らく大多数を占めているのが現実なのだと思う。民主政治というものは幻想なのである。権利と義務が表裏一体のものであるということを理解しようとしない人に、社会の仕組みが理解できるはずもなく、秩序を守ることなど期待のしようもない。人間の社会とは、本質的に不安定なものと言える。

それならば、複数の国籍を持ち、必要に応じて使い分けるというのは、それが実際に可能であるか否かは別として、少なくとも気持ちの上では生命保険に加入しているような安心感があるのではないだろうか。

さて、国民とは何者なのだろう?

2008年05月15日 | Weblog
今日は久しぶりに雨が降った。昨日までの暖かさが嘘のように、肌寒い一日だった。季節は真夏へ向かっているのだろうが、気候は時々気まぐれを起こす。

先日、中国四川省の大地震のニュースを知った。天変地異も自然の気まぐれと言えなくもない。しかし、自然の動きというのは、全く予測不可能というわけでもないらしい。

地震の発生メカニズムはある程度解明されており、その発生には周期があるとされている。その周期に従えば、今、東京に直下型地震があっても不思議ではないという。東海地方もその脅威に曝されており、様々な対応策が用意されているという。

ところで、その地震予知のための観測網で異常が見られたとする。そして、大地震の発生が間近に迫っているとの判断が下ったとする。さて、その後、どうなるのだろう? 地震警報のようなものが発せられたら、パニックが起るのではないだろうか? パニックを警戒して、その異常が公表されず、一部の人たちだけが避難するのだろうか? 地震そのものも勿論脅威だが、それに関連する社会の動きも恐ろしげではないか。

人は生まれる時と場を選ぶことができない。生まれてしまえば、与えられた世界のなかで、なんとか人生を全うしなければならない。無意識のうちに現在の延長線上に未来があると思っているが、未来はあるかないかもわからない。あるとして、それが現在の延長線上なのかどうかもわからない。災厄はいつ遭遇するかわからない。生誕そのものが災厄だと言えば身も蓋もない。一寸先は闇だという。それならなおさらのこと、たとえ今が雨でも好天でも平和でも地震でも、その今を大切に生きなければと思う。

幸福な生活

2008年05月14日 | Weblog
人は、己をつづまやかにし、奢りを退けて、財を持たず、世を貪らんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり。

これは「徒然草」第18段の書き出しである。自分の貧乏を正当化するつもりはないが、今日、通勤途上に地下鉄の中で読んでいて、たまたまこの部分が自分の琴線に触れた。

兼好はこのようなことを書いているが、自身は遁世者ではあってもそれなりに財には恵まれていたはずである。だからこそ、このような随筆を遺すことができたのである。今は元手なしに何事かをするのを「紙と鉛筆さえあれば」などと言うが、兼好の時代は紙は貴重品であったはずだ。それ以上に、そこに書かれている内容や表現は、兼好の教養の深さを窺わせるものである。教養を身に付けるには金がかかるものである。

しかし、人の心の平和というものは、足るを知るということに尽きるのではないかと思う。平和は安定と言い換えてもよいかもしれない。あるいは、心の平和とか安定を「幸福」と表現することもできるのではないか。自分自身の生活にとって何が本当に必要なのかということを吟味すれは、少なくとも物理的なモノは多くを必要としない。モノが少なければ移動が容易になるので、住む場所への執着がなくなる。住む場所への執着が無ければ、生活に要する費用の自由度が上がる。生活費の束縛が緩めば、金のために嫌な仕事を引き受けなければならないというようなこともしなくて済む。尤も、現実はなかなかそのように上手くはいかない。

環境変化の淘汰を経て自然界に存在するものは、動物であれ、植物であれ、過不足が無い状態なのだという話を聞いたことがある。これをミニマリズムと呼ぶこともあるらしい。また、動植物の器官には角がないという。これは成長によってのみ形成されていることを示しているのだそうだ。必要があれば欠如している機能や器官を発達させ、過剰であれば退化させる、ということだろう。そうしてできあがった自然を見て、美しいと感じ、なんとはなしにほっとした感情が湧き上がるのは私だけではないと思う。「美しい」とか「いみじ」とか「賢い」とか表現は様々だが、幸福な生活を送りたいものである。

カードの決済日を忘れる

2008年05月13日 | Weblog
カードの決済日が休日にあたる場合、休日明けの最初の日に決済が行われる。昨日は毎月10日を決済日に指定してあるカードの決済日だった。仕事を終えて帰宅した時、郵便物のなかに銀行のステートメントがあるのを見て、その銀行とは全く無関係に、3月に東京へ行った時に使ったカードの決済があることを思い出した。ついでに、その決済口座に残高が無いことも。既に東京は日が変わって5月13日になっている。慌ててカード会社に電話したら、東京時間の午前8時以降にとある番号へ電話するようにとの案内を受けた。そこで、その今回ショートさせたカードの事務手続きの流れを知った。

決済日の決済状況は翌日集計され、事故が発生している口座には連絡を出す準備をするのだそうだ。そして、さらにその翌日、つまり決済日の翌々日に事故を起こしたカード所有者への書面による連絡が発送されるのだそうだ。その書面発送後の未決済残高には延滞利息が課せられるとのことである。

カードの決済内容は、そのカード会社のウエッブサイトで確認し、引き落とし先の銀行口座を確認したりカード会社への振り込みを行うのは、それら銀行のネットバンキングで確認する。カード会社への電話はスカイプを利用する。ネットに接続したパソコンさえあれば、世界中どこにいようとも東京での事務が簡単にできてしまう。驚くほどのことではないが、20年前にイギリスで暮らしていた頃には考えられないような便利なことである。

情報通信技術という側面は確かに大きく発達したが、それを利用する人間というものはそう簡単には進化したり退化したりはしていないように思う。人と人が関係を構築するのに、直接対面することに匹敵する手段はいまだに無い。人は自分が意識している以上に、五感さらには第六感を駆使して、自分を取り巻く人々を認識しようとしている。当然、相手を知るには時間がかかるし、手間暇もかかる。人はそれぞれに個性があるので、相手を知るのに定型化された方法というものは通用しない。ところが、技術が発達すれば、それによって人間というものを理解する方法が代替できるようになるのではとの錯覚を生む。それは技術への過信でしかないだろう。

情報通信技術の発達で、人と人の接点は以前よりも増えたかもしれない。技術の変化がそれを利用する人間の思考に何がしかの影響を及ぼすこともあるだろう。しかし、自分が新たに遭遇した人物を判断するのに要する時間は、自分の判断能力が向上しない限りは短縮できない。結局、人が個人的な領域において関係を構築できる相手の数というのは、今も昔もそれほど変わらないのではなかろうか。

分散の効用

2008年05月12日 | Weblog
今日は仕事が忙しかった。作業量という点では、先週の木曜や金曜のほうが多かった。しかし、自分が感じる負荷という点では今日のほうが重かった。同じ負担でも、それをどのように分散するかによって認識する負荷の値は異なり、当然、処理能力も変化する。

昨年11月3日付のこのブログに無印良品でベッドを買ったという話を書いた。そのとき、それを読んだ東京在住の友人からメールが来た。その人も無印でベッドを買ったのだそうだ。ただし、配偶者の強い意向があって、ベッドの上に布団を敷いて使っているのだという。寝心地が悪くてかなわないので、マットレスを買おうと思うので、寝心地を教えてくれ、という主旨だった。ベッドというのはマットレスを敷いて使うことを前提に作られている。マットレスには金属製のスプリングが組み込まれており、寝心地を良くすると同時に、重量の負荷を適度に分散するようにできている。ベッドに布団、という利用の仕方だと、重量の分散がなされないので、最悪の場合、ベッドの構造が破壊されることになる。そのような話を返事に書いて送っておいた。その後、その友人宅のベッドがどうなったかは知らない。

昨年、こちらへ引っ越すまで、都内のとあるマンションの管理組合の理事長をやっていた。月に一回程度の割合で管理会社からの報告を受けるのだが、あるとき管理会社の窓口役の人が唐突に交代した。鬱病になってしまったのだそうだ。後任の人が語るところによれば、たまたまご両親が同時期に病気になり比較的短期間のうちに相次いで亡くなられたのだそうだ。その後すぐに奥様も病気で亡くなり、お子様が事故で亡くなってしまったのだそうだ。確かに、そのような状況に遭遇すれば、心身の健康を維持するのは至難であろう。

そのマンションを買うのにローンを組んだ。ローンの返済は、収入のある割合を超えなければ、それほど負担にはならない。金利負担の金額に注目すれば、なるべく短期間で返済するのが負担する金額を抑える有効な方法である。しかし、短期間で返済すると毎月の返済額は重くなる。長期間に分散すれば、負担する金利の総額は大きくなるが、日々の暮らしに対する負担は小さくなる。

3本の矢、という有名な寓話がある。矢を3本いっぺんに折ることはできないが、1本ずつなら折れるという話だ。

解決しなければならない課題が山積みになっているとき、それを整理して上手く分散すれば、思いの外容易に解決できる、ということになるのだろうか。逆に、それほど過大な負荷でなくとも、取り組み方を間違えると解決不可能に陥ってしまうということなのだろうか。物事を整理して、適切に分散することができれば、我々は思いの外たくさんのことができるのかもしれない。

娘へのメール 先週のまとめ

2008年05月12日 | Weblog

お元気ですか? 東京は天気の悪い週末だったみたいですね。「相棒」はおもしろかったですか? なかなかの人気らしいですね。ニュースによれば、「男たちの大和」を上回る勢いで興業収入が伸びているそうです。

こちらは夏本番、という感じです。2週間前までジャケットを着て歩いていたのが嘘みたいです。もう今の時期は日本よりも日が長いので、町行く人々も夏モードです。これで東京みたいに暑くなったらどうなってしまうのだろうと素朴に不安を感じます。

私が住んでいる家の庭にも黄色い花が咲きました。花の名前は知りません。写真を添付しますので、花の名前を知っているなら教えてください。

先週は読了した本はありません。仕事が忙しくなって本を読んでいる余裕が無くなったということもありますし、日本から取り寄せた本は前週までにほぼ読み終えてしまったということもあります。

この週末は暑かったので、近所の公園へ散歩に出かける以外は外出をしませんでした。冒頭にも書いたように、この2週間で気候が一気に冬から夏に変わりました。今週はどんな陽気になるのか、少し楽しみです。

もう中間試験ですか? 追試を受けなくてもよいように頑張ってください。

では、また来週。


母の日

2008年05月11日 | Weblog
日本では今日が母の日である。イギリスではイースター・サンデーの3週前の日曜(今年は3月2日)なのでもう終わっている。この日がどういう日なのか全く知らなかった。自分の母親は今も元気でいるが、母の日だの誕生日だのというものを祝ったことが殆どない。私は不孝息子である。

言い訳になるが、特定の日だけ取り出して、そこでつまらない贈り物をしたりして、形を整えることに意味があるとは思えないのである。母親が大事だと思えば、日頃から気をかけ、余計な心配をかけず、自分の生活をきちんとしていればよいと思うのである。そんな習慣が自分の中にできあがってしまったので、今更何か変わったことをする気も起らない。

それでも、このところ無沙汰をしていたので、今日はご機嫌伺いに電話をかけてみた。想定していた通り、こちらはほぼ一方的に聞き役に徹することになった。それで相手の気分が良くなるのなら、結構なことである。

ところで、子供が言葉や立ち居振る舞いを覚えるのに最も大きな動機付けとなるのは親が喜ぶ姿だということを聞いたことがある。人間の子供というのは親の庇護がなければ生きることができないので、親の期待に応えることで生活の糧を得るのだという。親も自分の役割意識というものが必要なので、子の世話に励むのである。ここに互恵的関係が成立する。やがて、子には自我が芽生え、親とか学校の教師といった身近な権威に対する反抗心が生まれる。ほぼ同時期に肉体的にも成熟し、異性を意識するようになる。そうして、日常生活のなかで様々な葛藤を経験して、精神面でも成長が加速する。

子は、成長して自活能力を獲得すれば、親の庇護は必要なくなるはずなのだが、長年の習慣を変えることは容易ではないらしく、いくつになっても親に依存し続ける人もいるようだ。あるいは成長過程で何かが欠落し、巣立つ意識が育たないということがあるのかもしれない。親もそうした子の依存を当然のように受け止める。未成年の保護育成という大義名分がもはや存在しない状況下での親子の相互依存関係が、それぞれのエゴに基づいて継続することになる。

子がいつまでも精神的・経済的に親への依存を止めず、親も子離れせずに親という権威に安住する。生物としては不自然でも、当事者にとっては何の不自由もないのだから、ますますその相互依存関係は強くなる。かくして、我が国では婚姻数が減少の一途を辿り、それに従って出生数も減少を続ける。このままでは、誰もいなくなるのだろう。

国の政策として少子化対策が議論されているようであるが、親子関係の過度の癒着に問題の一端があるのだとしたら、親世代の権威を揺るがす現実が、子世代の依存を解消し、自立を促進することになるのではないか。例えば、年金制度が破綻し、親世代の経済力が低下すれば、子世代は否応無く生活防衛のために新たな家計単位(家庭)を創造し、親世代から自立した生活圏を形成するようになるのではないだろうか。世の中は常に変化するものである。少子化というのは、一時的な現象に過ぎないと私は思っている。

夏の風に吹かれて

2008年05月10日 | Weblog
先日、暖かくなったという話を書いたが、今日は暑い。もう夏本番である。夕方、近所のGreenwich Parkという公園に散歩に出かけたら、そこらじゅうピクニック集団だらけである。芝生にレジャーシートを広げてビールやワインを手に楽しげに語らい合う人々、その隙間を縫うようにフリスビーで遊ぶ人々、アスファルトが張ってある広場ではローラーブレードを楽しむ人々。一年を通じて、曇りや雨の日が多く、日照時間が限られているので、たまに天気が良いと広場はあっという間に人で埋まる。

見た目には長閑な風景だが、景気は下降に転じ、物価はエネルギー関係を中心に上昇中で、世の中は見た目程には安穏とはしていないようだ。今月1日の統一地方選では国政与党の労働党が大敗を喫した。ロンドンでも市長選挙と市議会選挙があったが、2期8年を勤め上げた実績を掲げて選挙戦を戦った現職市長が国政野党である保守党が推す候補に破れた。

日本でもそうなのだが、地方選挙は国政の影響を受け易い。景気とか税制といった市民生活に直接関わることで、地方自治体の首長にできることは限られているのだが、選挙民に国政と地方政治に区別を求めるのは酷というものだろう。現職市長の施策の下で、治安が改善したり交通網の整備が進んだという生活面での目に見える実績があっても、金融不安とか原油価格の上昇といった市長の守備範囲を超えた世界での逆風のほうを市民は敏感に意識するものである。

人は現在を生きている。過去に享受した利益は比較的容易に忘れ、過去に甘受した苦難は記憶に刻み、自分に都合の良いことは都合の良いように記憶し、都合の悪いことは他人の所為だと認識するものである。程度の差こそあれ、誰もが身勝手なものである。困難な状況を目の前にすると、多くの人はそれに対峙しようとはせずに、習慣に逃げ込む。曰く「前例がない」「そんなことをする人は身の回りにいない」「フツーはそんなことしない」。その習慣に問題があったからこそ、目の前の困難があるというような状況下ですら、習慣に逃げようとする。そして困難は一層深くなる。

来年の夏も、皆こうして草上のひと時を楽しむのだろうか。

監視社会の生き方

2008年05月09日 | Weblog
財布に金が無い、という話から起こして、ロンドンは町中至るところに監視カメラが設置されていて、その記録映像とクレジットカードや交通カードの利用記録を結びつけて個人の行動を監視する体制を目指しているらしい、という先日聞きかじった話を書くつもりだった。それで、少し調べものをしていたら、このような映像に出会った。

http://www.youtube.com/watch?v=W2iuZMEEs_A

The Get Out Clause というバンドなのだが、まだレコード会社との契約もなく、従って活動資金が無いので、自分たちのプロモーション・ビデオを街角の至る所にある監視カメラを使って作成したのだそうだ。場所はロンドンではなくて、マンチェスター。路上、建物のなか、バスや路面電車のなか、タクシーのなかと見られる映像もある。そうした場所で演奏をした後、カメラを管理する会社に手紙を書き、情報公開の権利を主張して自分たちの演奏が映っている映像を入手。それらをつなぎ合わせてひとつの作品に仕上げたという。これが格好良いのである。演奏も良いが、監視カメラの映像を利用するというアイディアが素晴らしい。

ただ、PVを製作する資金が無いのはわかるが、このYou Tubeの映像だけで終わってしまっては、営業の詰めとしては甘すぎる。オフィシャルサイトへ視聴者を誘導しても、肝心なオフィシャルサイトがお粗末では視聴者の関心を持続させることができないだろう。
http://www.thegetoutclause.co.uk/index.htm

もう一工夫欲しいところである。

日本からのメール

2008年05月08日 | Weblog
昔、「カナダからの手紙」という歌があった。そんなことはどうでもよい。思い出したように日本からメールが届いた。曰く「ファーストクラスで帰国、待ってます」。他人の首切りを他人事のように眺めていられるような商売をしている奴ではないと思っていたが、君は大丈夫なのか、M君。かと思えば、連休に子供をほっぽり出して奥さんと2人で横浜のニューグランドに「一泊フルコース付き」で行ってきたという奴もいた。その中途半端さ加減にコテコテの小市民精神が溢れているではないか。他人事ではあるが、なぜか我が事のように恥ずかしくなってしまった。幸せそうでいいな、もうひとりのM君。

このところ毎日にようにブログを更新しているが、何を隠そう職場で書いている。単なる暇つぶしで書いていると思われては困る。いつか印税で生計を立てようと思っている。これはその長期的展望に立った上での訓練だ。文章力というのは、とにかく毎日書くことによってしか身に付かないのだそうだ。だから毎日書いている。ブログは毎日ではないが、日記は毎日書いている。たまに昔書いたものを読み返してみるのだが、面白い。すくなくとも私は面白いと思う。しかし、せいぜい私くらいしか面白いと思わないらしい。その証拠に、いまだに印税を頂いたことがない。はるか昔に仕事で雑誌に原稿を書いて原稿料を頂いたことはあるが、印税は未だかつて一銭もない。死ぬまでに一度でいいから印税というものを頂いてみたい。できれば100億円くらい。

さて、今日は珍しく仕事が忙しかったので、職場でブログの原稿を書く余裕がなかった。そんなわけで、夕食を済ませて後片付けを終え、こうしてブログを書いている。継続は力也、という。

ビネガーラテ

2008年05月07日 | Weblog
気がつけば夏である。一ヶ月前に雪が降ったことが信じられないくらい暖かな陽気になった。町行く人は半袖で、これから本格的な夏になったら一体どのような格好で歩くのだろうと思えるほど薄着の人も少なくない。今日、仕事帰りに地下鉄の駅で擦れ違ったオニイさんはショートパンツだけ。上半身には何も着けていなかった。オニイさんではなくて、オネエさんならもっといいのに、と思ってしまう。断っておくが、オネエさんはお姉さんとは違う。隙間の多い我が家には虫たちが容赦なく侵入してくる。日はすっかり長くなり、今日の日の出は4時21分(現在は夏時間なので5時21分)、日の入りが19時34分(同じく20時34分)。

暑いと喉も乾く。今日は夕食の後、ビネガーラテというものを作って飲んでみた。おいしい。作り方は簡単で、酢とメイプルシロップを各大さじ1杯ほどと、牛乳180ccほどを混ぜるだけだ。日本から送られてきた雑誌「クウネル」に紹介されていた。もちろん、自分で飲むためだけに作るので、書かれているレシピはあくまで参考で、きちんと計って混ぜたわけではない。それでも、おいしくできた。今、手元に白ワインビネガー、赤ワインビネガー、穀物酢の三種類の酢があるので、それぞれで作ってみようと思う。

渋滞考

2008年05月06日 | Weblog
日本は黄金週間だ。今日も日本は祝日である。何の日かと思えば「振替休日」。祝日が日曜に当たったからといってわざわざ振り替えてまで休まなくてもよいのではないかと思うのは、自分が休めないからそう思うのだろうか?ネットで日本のニュースを見れば連休で高速道路が渋滞している写真が載っている。車に乗るのが大好きで、せっかくの休日だというのに、渋滞承知でいずこかへ出かけることに決めている人たちが大勢いるのだろう。混雑するのは道路だけではない。公共交通機関は悉く混雑する。何故だろう? 何故、混雑して疲弊することがわかっているのに敢えて出かけるのだろう?おそらく「連休に遊びに出かける」というのも何かの記号なのだろう。

もうひとつ連休の混雑の報道を読んで考えたことがある。自分は渋滞を回避できると考えて出かけている人も少なくないのではなかろうか。

我々は不確実性のなかを生きている。「一寸先は闇」なのである。だから、連休に行楽地へ向かえば、道中は渋滞し、着いた先も混雑していることは十分予想できるのだけれど、実際に行ってみなければわからない。だから敢えて出かけてみる、という人もあるだろう。

我々は無意識のうちに、未来が過去の延長線上にあることを前提にして生きている。だから、得意絶頂にあるときは、それが未来永劫続くとの錯覚に陥り傲慢に振る舞ってみたりする。反対に、何もかも思い通りにならない時は、絶望の底に沈んで陰鬱になってしまう。しかし、実際に未来がどうなるかは誰にもわからないのである。例えば勝負事で、九勝一敗でも全体としては大負けということもあるし、一勝九敗でも大勝ちということだってある。「運命の悪戯」という言葉があるが、幸運も災厄もどこに隠れているかその場になってみないとわからないのである。

もし、自分に希望や期待があるのなら、それを安易に諦めるべきではないと思うのである。ある日突然、希望がかなうような状況が現れるかもしれない。自分の意志で何事かを成し遂げたという経験を重ねれば、それが自信になり、別の幸運を呼び込むかもしれない。逆境を克服した経験を重ねれば、それだけ知恵がついているはずだ。無駄な経験や知恵というものはない。その何事とか逆境は小さなことでもかまわない。自分のなかに達成感を残すことが重要だと思うのである。

話はかなり飛躍したが、敢えて出かけてみて、やっぱり渋滞に巻き込まれてしまった、というのが多くの人の現実だったと思う。それでも、渋滞バンザイ、ということにしておこう。

「考える短歌」

2008年05月05日 | Weblog
別に短歌に興味があるわけではない。ただ、言葉というものには関心があり、31文字で何をどの程度表現できるものなのかということには興味がある。この本は一般の人々から寄せられた歌を俵が添削するという形式で作歌や鑑賞の指針を与えるようになっている。一文字の違いで表現される世界が変わってしまうということがよくわかる。

短歌という様々な約束事のある形式のなかで、言葉が紡ぎ出す世界は無限に広いと言えるが、その約束事や言葉そのものを理解できないと、ただの文字列でしかない。歌の作者と読者の間に約束事や言葉の意味が共有されていないと、歌は意味を成さない。

歌に限ったことではない。言葉の意味というのは、それを発する人によって微妙に違いがある。同じ言語で会話をしていても、会話をしているという実感が湧かない相手がいる。経験から言えば、そういう人とは関係を構築することはできない。リテラシーという言葉があるが、これがある程度共有できてないないと、同じ言葉を話していても通じ合うことはない。仕事や地縁血縁でどうしてもそういう人を相手にしなければならないときは、細心の注意を払って対応するしかない。

同じ話を何度も繰り返す人がいる。平均的には高齢者に多いように感じられるが若くてもそういう人はいる。たまたま最近まで身近にそのような人がいたので、その人の話を聞きながら、何故そのようなことになるのだろうと考えた。おそらく、人は自分の興味関心の広さに合わせて言語能力を発達させるのだろう。あるいは言語能力に応じて興味関心の広さが決まるのかもしれない。このような人を相手にするときも細心の注意が必要だ。ストライクゾーンが極端に小さいピッチングゲームを想像すればよい。一番楽なのはゲームをしないこと。どうしてもゲームをしなければならず、しかも自分のコントロールに自信が無ければ、余計な期待をせずにさっさとゲームを終えるのがよい。

このブログにしても、当然、特定の読者を想定して書いている部分もある。純粋に書くことだけを楽しみにしているのなら、自分の日記帳にでも書けばよいのだから。ただ、ネット上に公開するものなので、それなりの配慮はしているつもりである。その自分が想定している読者に何が伝わり何が伝わらないのか、残念ながらわからないのだが、継続は力也とも言うのでこうして書いている。