熊本熊的日常

日常生活についての雑記

娘へのメール 先週のまとめ

2008年05月05日 | Weblog

元気ですか? 学校のほうは順調ですか? もうすぐ中間試験でしょう。しっかり勉強して下さい。

こちらは日本の連休とは関係なく勤務していますが、たまたま5月5日はイギリスも祝日です。これはバンクホリデーといって年に三回ある祝日です。最初は3月のイースター(キリスト教の「復活祭」日にちは年によってちがう)の月曜日、二回目は5月の第一月曜日、三回目は8月の最終月曜です。このほか
にクリスマスの翌日12月26日がボクシングデーという祝日。勿論、クリスマスは休日。元旦も休日。イギリス(イングランド)は以上の6日が祝日です。日本に比べると少ないですね。祝日は少ないですが、みな適当に自分で休暇を取っているので、平均的な年間休日数は日本もイギリスもそれほど違いはないと
思います。

先日、日本から取り寄せた本が10冊と、親しい友人が日本から送ってくれた雑誌が3冊あるので、先々週から先週にかけてこれらを読みました。まだ読み終えていないものもありますが、今日までに殆ど読了しました。衣里に薦めるようなものは残念ながら殆どありませんが、伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバ
ー」は面白いかもしれません。2008年の本屋大賞に選ばれた本なので、書店に行けば平台に積んであるでしょうが、買ってまで読むほどの本ではないような気がします。純粋に娯楽作品なので、家で寝っころがりながら読むタイプの本です。ある元宅配便ドライバーが首相暗殺の犯人の濡れ衣を着せられ、逃走す
るという話です。図書館にでもあれば読んでみてください。あと俵万智の「考える短歌」というのも面白かったです。言葉の重みとか不思議がわかり易く書かれています。これは買って読んでもいいかもしれません。

何か困ったことはありませんか? できることがあれば何でも言ってきてください。

では、また来週


「ゴールデンスランバー」

2008年05月04日 | Weblog
読後感が爽やかである。登場人物がみなそれぞれに真面目なので、行動の論理がわかり易く、従って物語がきれいにつながるので、500ページでも読者が難なく読み通すことができるのだろう。

伊坂氏の作品を読むのは、本作が「チルドレン」に続いて2作目である。あの作品も時間軸を行きつ戻りつしながら、登場人物それぞれの目からあるひとつの出来事を描いていて、その視点の錯綜が愉快だった。この作品の場合も似たような描き方をしているが、作品の造りとしては主人公の逃走という軸が強調されている。降って湧いたような災厄を抱え、人は何を考えて行動するのか、という視点が核になっているように思う。

読んでいて感心したのは、登場人物がそれぞれの仕事に対して真摯であることだ。宅配便のドライバーは主人公を含めて3人登場するが、それぞれに明確な職業倫理を持っている。対する警察官たちも与えられた任務の遂行に忠実だ。主人公の学生時代の後輩は地方公務員になるが仕事を効率よく遂行しようとして職場で軋轢を生む、というエピソードも公務員というもののありかたを示唆し、主人公と対峙する警察官のキャラ付けの役割を果たしているのが興味深い。主人公の逃走を助ける人々も、主人公の無実を信じているからこそ、それぞれの良心に忠実に行動しているのである。

それぞれ個のレベルでは誰もが自分がやるべきことをやっているのに、そこに対立が生じてしまう。何かがおかしい、どこで間違えたのだろう、と振り返ってみても後戻りはできない。”0nce there was a way to get back homeward”ということなのである。

「習慣と信頼」というキーワードも利いている。主人公の逃走を助ける人たちの間に形成されるチームワークのようなものは信頼の連鎖のように見える。最終章で描かれる事件から3ヶ月後の様子は、まさに信頼があってこそ実現するシーンだろう。現実の世界がどれほど世知辛くとも、人は根底の部分で他人との心地よい関わりを求めているのだと思う。だからこそ、このような人の善意を信頼した世界観のある作品が支持を受けるのだろう。

この作品自体も読者の眼を十二分に意識した丁寧な造りになっている。仕事というものは本来そういうものだと思う。他人を満足させ、その対価としての報酬を得るというのが仕事という行為だ。自分も明日から「も」きちんと仕事をしようと気持ちを引き締めてしまった。

吉兆の思い出

2008年05月03日 | Weblog
私は吉兆という料亭には縁が無い。ただ、以前の勤務先の社長が、ことあるごとに吉兆で食事をしてきたことを自慢げに話をしていたので、吉兆というのはそこで食事をすることが自慢になるような店なのだということは認識していた。

吉兆グループのひとつ、船場吉兆が食品偽装表示問題を機に経営難に陥り、民事再生手続き中であるようだが、その船場吉兆で客の食い残しを使い回していたという問題が新たに発覚した。尤も、食い残しの使い回しは違法行為ではないそうなので、おそらくどこの店でも似たようなことはしているのかもしれない。

この事件の報道で気になるのは「高級料亭」という言葉である。「高級」というのは日常会話のなかでしばしば使われる形容詞だが、その意味するところは何であろうか。

飼い犬は、自分が飼われている家族のなかで自分の位置を推し量るのだそうだ。必ずしも自分に餌を与えてくれる人や、かわいがってくれる人に懐くというわけではないらしい。相手が人間であるとか、一緒に飼われている別の犬とか猫あるとか、種の違いを超えて、その家のなかで誰が物事の決定権者なのかというのを見極めて、家族に序列をつけ、そのなかで自分がどこに位置するのかを決めるという。たいしたものである。

おそらく、人間も犬と同様に社会を形成する生き物なので、対人関係において自分の序列というものを意識するものなのだろう。序列というのは、結局のところ「力」の強弱が基準になるのだろう。その「力」の判断基準として、自分を取り巻く人やモノに付されている記号が大きな役割を果たすことになる。トランプの遊びで、4とか5のような札よりも絵札やエースのほうに高い点数を与えるようなものである。本来なら、何が4で何が絵札なのか、自分で考えるべきだと思うのだが、現実は既に世間で通用している評価とか値段の多寡で無造作に上中下とか松竹梅と決めてしまうことが多いように思う。だからブランドというものが存在し得るのだろう。ひとりひとりがいちいちその価値を吟味していたら、他人に自慢したくなるようなブランドというものが存在するわけがない。ある価値を賞賛する声があり、その声の主を見て取り敢えず反応する有象無象があり、そうして出来上がった評判に盲従する無知蒙昧があってブランドというものが出来上がるのである。人は漠然とその存在を感じながら実体をつかみかねる対象に憧れを抱くのである。

残念ながら私は犬と会話をしたことがないので、彼等が何を基準に自分の序列を判断しているのかわからないが、単に餌を与えてくれるというだけで、その人を自分の上位には位置づけないというところを見ると、自分で観察して判断を下しているようだ。ろくに考えることもしないで、世間の評価に振り回されるような人間に比べたら、犬のほうが知性があると言えるのではないか。

大安に上司との面談

2008年05月02日 | Weblog
今日は大安である。なおかつ、私は東京の上司から電話でパフォーマンスレビューを受けることになっていた。ひょっとしたら解雇通告を受けるのかもしれないとの期待を胸に、普段より30分ほど早く起床し、いつもは利用しないバスに乗り、定刻10分前に職場の自分の席に着席して電話を待った。

通常、会社都合による退職の場合、かなりわががまを聞いてもらえるようなので、帰国便はファーストクラスにしてもらおう、とか、帰国して最初の1ヶ月はホテル住まいをさせてもらおう、といった小市民的な要求を考えていた。

しかし、パフォーマンスレビューは形式的なもので、実質的な話はものの5分とかからなかった。ただ、たまたま上司たちが電話をしている傍を、退職で今日が最終出社日という人が通りかかり、その彼の挨拶もついでに受けることになった。仕事ではメールのやりとりしかなく、おそらく会ったことはない相手である。
「○○です。今日が最終です。どうもお世話になりました。」
「あ、いや、こちらこそ。あのさ、○○さん。まだお若いんでしょ?」
「え、は、はい。24です。今年25になります。」
「わっかいねぇ。いいねぇ。」
挨拶したら、いきなり年齢を尋ねられるというのは、相手にとってはきっと新鮮な体験だったと思う。私はその彼の声を眩しく感じた。

電話を切った後、なんだか自分がすーっと沈んでいくような感覚に襲われた。ひとまずファーストクラスで帰国するという線が消えた所為かもしれないし、自分がどうしようもなく歳を取ってしまったという寂寞とした思いにうち沈んだのかもしれない。陰鬱な一日になってしまった。

理想の相手

2008年05月01日 | Weblog
地下鉄の駅にマッチングサービス会社のポスターがたくさん貼ってある。インターネットの広告にもある。地下鉄の駅のポスターはもちろん英語で、インターネット上の広告は、それが日本語のサイト上のものなら日本語で書かれている。洋の東西を問わず、人々は出会いを渇望しているらしい。

自分の身近には、こうしたサービスを利用して結婚したとか友達を作ったという話は聞かない。この手のサービスは決して新しいものではなく、自分の世代なら「アルトマン」とか「ツヴァイ」といった名前を見聞きしたことがあると思う。さらに時代を遡れば、結婚相談所が原理的には同じサービスを提供していた。私が知らないだけで、世の中にはこのようなサービスを利用して知り合った人たちが思いの外たくさんいるのかもしれない。

日常生活において、出会いの場というのはかなり限定されているものである。人と人とが知り合い、そこから交際が始まり、互いを理解したり誤解したりして結婚に至るというのは、けっこう時間がかかることである。それを、心理学者が開発したとされるプロファイリングによって、効率的に行うというのが冒頭に書いたような企業が提供しているサービスである。こうしたシステムによって知り合って1ヶ月で結婚した、という話を今日聞いた。

人と人との相性というのは、果たしてそれほど容易に「わかる」ものなのだろうか。そもそも、人はどれほど自分のことを知っているものなのだろうか。「信ずる者は救われる」という。「科学」の力で心理を分析すれば、かなり高い確率で理想の伴侶が「見つかる」という幻想があるような気がするのである。人は物理的な存在でもあるが、他者との関係性によって形成されるバーチャルな部分も決して小さくはないと思う。人間関係を結ぶというのは、できあがっているものどうしを組み合わせることではなく、自分と相手とがそれぞれに相手との関係性のなかで新たな自己を創造することだと思うのである。それは容易なことではない。しかし、その手間暇を惜しんでは、「相性の良い関係」というものは永久に構築できないのではないだろうか。