明日から天気が崩れるという予報なので、朝起きてまず洗濯をする。洗濯機が回っている間に部屋の中にクリーナーをかけ、こざっぱりとしてから朝食をいただく。明日は子供と会うことになっているので、林望訳の「源氏物語」第二巻を急いで読む。以前に源氏物語を読み始めたというようなことを言ったら、子供が読みたいというので、先月は第一巻を手渡した。毎回会うときに何がしかの本を手渡している。自分が読んで面白いと思ったものだけ渡すようにしているので、本の選択に困るときもある。「源氏物語」のように要望があると、その点が気楽である。ただ、渡す前に自分が読まなくてはいけない。
「源氏物語」は現在のような印刷技術の無い時代に書かれたものであり、しかも写本によって伝えられているので、オリジナルの姿は誰にもわからない。平安時代においては文学といえば漢詩や漢語によるものが格上とされ、「ものがたり」というのは和歌よりも格下とされていたらしい。とはいえ、文字を解する層というのは限られていたはずなので、その読者は一般庶民ではなく宮中に使える女房たちが圧倒的に多かったと推測される。「ものがたり」は女房たちの暇つぶしのネタであったということらしい。そうした位置付けが「源氏物語」の登場で一変したというのである。一条天皇はじめやんごとなき人々も注目し、その後には和歌詠作に際して当然知っていなければいけない必読書のひとつとなる。つまり日本人としての教養の基盤を構成するに至るということだ。
それで林望訳の第一巻と第二巻だが、そこに収められているのは以下の帖である。
第一巻:桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫
第二巻:末摘花、紅葉賀、花宴、葵、賢木、花散里
ここまで読んでみて思うのは、「しょーもない話」ということだけだ。しかし、「しょーもない」話がこれほどの評価を受けて後代に残るはずはない。そこに描かれた普遍性を感じさせるものがあるということなのである。おそらく、それは所謂「人間の業」なのではなかろうか。人の愛憎であるとか心情といった明確には定義できないけれども人の生活のなかでそういうものを知らずして過ごすことのできない、人の人たるための不定形で実体のない構成要素とその運動のようなものが「源氏物語」という形をとって曼荼羅のように描かれている、ということではないだろうか。だから、主人公は光源氏一人の生涯だけでは完結できず、その生誕前の状況から死後に遺された人々の様子に至る連続性のなかで源氏に生涯に焦点を当てるという形式になっているのだろう。そう思って読んでみれば、なるほど興味深い話ではある。
午後は自分が卒業した大学へ就職先に提出する卒業証明書を取りに出かける。国公立大学ではそうした証明書の類は無料で発行してもらえるらしいのだが、私の卒業大学では一部400円。別にだからどうこうというわけではないのだが。
大学の後、再就職支援会社へ登録の抹消に行く。必要な書類を作成して提出し、30分ほど担当カウンセラーと世間話に興じる。所謂リストラの動きは一段落だが、求人のほうは相変わらず少ないという。それでも多少は明るさが見えてきたらしい。今回の私のような事例は「宝くじに当たったようなもの」だそうだ。話を始めたあたりでは「いやぁ、熊本さんのお人柄でしょう。」などといかにも世辞のようなことを言っていたが、そのうちに打ち解けてくると「強運の持ち主」だの「宝くじ」だのと本音がこぼれ出てくるのが面白い。私も自分で不思議な運のようなものを持っていると思うことがある。2001年11月に当時の勤務先で解雇通告を受けたときも、翌日に街中で以前の勤務先の同僚と出くわして、彼の当時の勤務先の社長に紹介されてそのままそこに就職することになった。今回はさすがに解雇の翌日というわけにはいかなかったが、解雇通告を受けた月のうちに今回決まった就職先の案件の話が入り、即入社というわけにはいかなかったが、結局こうして就職することになった。事細かに挙げると際限がないのだが、現状を構成しているひとつひとつの些細な要素がそれぞれにつながっている。人の生活というのは面白いものだと思う。
「運」と書いたが、単純に運が「良い」とか「悪い」ということではない。良し悪しという二元論で割り切れるほど世の中は単純ではない、というようなことはこのブログで何度も書いている気がする。2月22日付のこのブログで山田風太郎の「あと千回の晩飯」について触れているが、この本で山田が書いていることが面白い。
「吉凶はあざなえる縄の如し、というが、吉の次に凶がくる、というように吉凶が交互に訪れるというのではなく、吉そのものが凶となり、凶そのものが吉となるという例を私はいくつも見ている。」(山田風太郎「あと千回の晩飯」朝日文庫 222頁 「わが意外事」より)
解雇されたから悪い、就職できたから良い、という単純なことではないのである。例えば昨年の震災の瞬間、得意の絶頂から失意のどん底へと暗転した人もいるだろうし、あのことがきっかけで予想だにしていなかった幸運を手にした人だっているだろうし、これといった変化の無い人もいただろう。しかし、1年を経てみれば、どん底だと思ったところがそれを機に新たな可能性を見出した人もいるだろうし、幸運だと思ったらトンデモナイことだったというようなこともあっただろうし、変化が無いと感じていたがそうではなかったということもあるだろう。これがさらに時間を経てみると、また違った様相を呈することだって当然あるだろう。
要するに目先のことで一喜一憂するというのは滑稽だと思うのである。「雨ニモマケズ」という宮沢賢治の詩がある。長くなるが引用する。
(以下引用)
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
(以上引用、青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html より)
たいへん有名な詩だが、こういう考えというのは自然なことだと思うのである。「マケズ」と言っているがそれは表現上の便宜として、人は上下であるとか良し悪しというような二元論に囚われることなく平らな心情というものを恒常的に持つことができれば、これほど心安らかなことはないだろう。
夜は某ブリテッシュパブで開催された留学先の同窓会に出席。終わる気配が無かったので22時頃に勝手に退散する。
「源氏物語」は現在のような印刷技術の無い時代に書かれたものであり、しかも写本によって伝えられているので、オリジナルの姿は誰にもわからない。平安時代においては文学といえば漢詩や漢語によるものが格上とされ、「ものがたり」というのは和歌よりも格下とされていたらしい。とはいえ、文字を解する層というのは限られていたはずなので、その読者は一般庶民ではなく宮中に使える女房たちが圧倒的に多かったと推測される。「ものがたり」は女房たちの暇つぶしのネタであったということらしい。そうした位置付けが「源氏物語」の登場で一変したというのである。一条天皇はじめやんごとなき人々も注目し、その後には和歌詠作に際して当然知っていなければいけない必読書のひとつとなる。つまり日本人としての教養の基盤を構成するに至るということだ。
それで林望訳の第一巻と第二巻だが、そこに収められているのは以下の帖である。
第一巻:桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫
第二巻:末摘花、紅葉賀、花宴、葵、賢木、花散里
ここまで読んでみて思うのは、「しょーもない話」ということだけだ。しかし、「しょーもない」話がこれほどの評価を受けて後代に残るはずはない。そこに描かれた普遍性を感じさせるものがあるということなのである。おそらく、それは所謂「人間の業」なのではなかろうか。人の愛憎であるとか心情といった明確には定義できないけれども人の生活のなかでそういうものを知らずして過ごすことのできない、人の人たるための不定形で実体のない構成要素とその運動のようなものが「源氏物語」という形をとって曼荼羅のように描かれている、ということではないだろうか。だから、主人公は光源氏一人の生涯だけでは完結できず、その生誕前の状況から死後に遺された人々の様子に至る連続性のなかで源氏に生涯に焦点を当てるという形式になっているのだろう。そう思って読んでみれば、なるほど興味深い話ではある。
午後は自分が卒業した大学へ就職先に提出する卒業証明書を取りに出かける。国公立大学ではそうした証明書の類は無料で発行してもらえるらしいのだが、私の卒業大学では一部400円。別にだからどうこうというわけではないのだが。
大学の後、再就職支援会社へ登録の抹消に行く。必要な書類を作成して提出し、30分ほど担当カウンセラーと世間話に興じる。所謂リストラの動きは一段落だが、求人のほうは相変わらず少ないという。それでも多少は明るさが見えてきたらしい。今回の私のような事例は「宝くじに当たったようなもの」だそうだ。話を始めたあたりでは「いやぁ、熊本さんのお人柄でしょう。」などといかにも世辞のようなことを言っていたが、そのうちに打ち解けてくると「強運の持ち主」だの「宝くじ」だのと本音がこぼれ出てくるのが面白い。私も自分で不思議な運のようなものを持っていると思うことがある。2001年11月に当時の勤務先で解雇通告を受けたときも、翌日に街中で以前の勤務先の同僚と出くわして、彼の当時の勤務先の社長に紹介されてそのままそこに就職することになった。今回はさすがに解雇の翌日というわけにはいかなかったが、解雇通告を受けた月のうちに今回決まった就職先の案件の話が入り、即入社というわけにはいかなかったが、結局こうして就職することになった。事細かに挙げると際限がないのだが、現状を構成しているひとつひとつの些細な要素がそれぞれにつながっている。人の生活というのは面白いものだと思う。
「運」と書いたが、単純に運が「良い」とか「悪い」ということではない。良し悪しという二元論で割り切れるほど世の中は単純ではない、というようなことはこのブログで何度も書いている気がする。2月22日付のこのブログで山田風太郎の「あと千回の晩飯」について触れているが、この本で山田が書いていることが面白い。
「吉凶はあざなえる縄の如し、というが、吉の次に凶がくる、というように吉凶が交互に訪れるというのではなく、吉そのものが凶となり、凶そのものが吉となるという例を私はいくつも見ている。」(山田風太郎「あと千回の晩飯」朝日文庫 222頁 「わが意外事」より)
解雇されたから悪い、就職できたから良い、という単純なことではないのである。例えば昨年の震災の瞬間、得意の絶頂から失意のどん底へと暗転した人もいるだろうし、あのことがきっかけで予想だにしていなかった幸運を手にした人だっているだろうし、これといった変化の無い人もいただろう。しかし、1年を経てみれば、どん底だと思ったところがそれを機に新たな可能性を見出した人もいるだろうし、幸運だと思ったらトンデモナイことだったというようなこともあっただろうし、変化が無いと感じていたがそうではなかったということもあるだろう。これがさらに時間を経てみると、また違った様相を呈することだって当然あるだろう。
要するに目先のことで一喜一憂するというのは滑稽だと思うのである。「雨ニモマケズ」という宮沢賢治の詩がある。長くなるが引用する。
(以下引用)
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
(以上引用、青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html より)
たいへん有名な詩だが、こういう考えというのは自然なことだと思うのである。「マケズ」と言っているがそれは表現上の便宜として、人は上下であるとか良し悪しというような二元論に囚われることなく平らな心情というものを恒常的に持つことができれば、これほど心安らかなことはないだろう。
夜は某ブリテッシュパブで開催された留学先の同窓会に出席。終わる気配が無かったので22時頃に勝手に退散する。