熊本熊的日常

日常生活についての雑記

そういうもの

2012年03月16日 | Weblog
明日から天気が崩れるという予報なので、朝起きてまず洗濯をする。洗濯機が回っている間に部屋の中にクリーナーをかけ、こざっぱりとしてから朝食をいただく。明日は子供と会うことになっているので、林望訳の「源氏物語」第二巻を急いで読む。以前に源氏物語を読み始めたというようなことを言ったら、子供が読みたいというので、先月は第一巻を手渡した。毎回会うときに何がしかの本を手渡している。自分が読んで面白いと思ったものだけ渡すようにしているので、本の選択に困るときもある。「源氏物語」のように要望があると、その点が気楽である。ただ、渡す前に自分が読まなくてはいけない。

「源氏物語」は現在のような印刷技術の無い時代に書かれたものであり、しかも写本によって伝えられているので、オリジナルの姿は誰にもわからない。平安時代においては文学といえば漢詩や漢語によるものが格上とされ、「ものがたり」というのは和歌よりも格下とされていたらしい。とはいえ、文字を解する層というのは限られていたはずなので、その読者は一般庶民ではなく宮中に使える女房たちが圧倒的に多かったと推測される。「ものがたり」は女房たちの暇つぶしのネタであったということらしい。そうした位置付けが「源氏物語」の登場で一変したというのである。一条天皇はじめやんごとなき人々も注目し、その後には和歌詠作に際して当然知っていなければいけない必読書のひとつとなる。つまり日本人としての教養の基盤を構成するに至るということだ。

それで林望訳の第一巻と第二巻だが、そこに収められているのは以下の帖である。
第一巻:桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫
第二巻:末摘花、紅葉賀、花宴、葵、賢木、花散里
ここまで読んでみて思うのは、「しょーもない話」ということだけだ。しかし、「しょーもない」話がこれほどの評価を受けて後代に残るはずはない。そこに描かれた普遍性を感じさせるものがあるということなのである。おそらく、それは所謂「人間の業」なのではなかろうか。人の愛憎であるとか心情といった明確には定義できないけれども人の生活のなかでそういうものを知らずして過ごすことのできない、人の人たるための不定形で実体のない構成要素とその運動のようなものが「源氏物語」という形をとって曼荼羅のように描かれている、ということではないだろうか。だから、主人公は光源氏一人の生涯だけでは完結できず、その生誕前の状況から死後に遺された人々の様子に至る連続性のなかで源氏に生涯に焦点を当てるという形式になっているのだろう。そう思って読んでみれば、なるほど興味深い話ではある。

午後は自分が卒業した大学へ就職先に提出する卒業証明書を取りに出かける。国公立大学ではそうした証明書の類は無料で発行してもらえるらしいのだが、私の卒業大学では一部400円。別にだからどうこうというわけではないのだが。

大学の後、再就職支援会社へ登録の抹消に行く。必要な書類を作成して提出し、30分ほど担当カウンセラーと世間話に興じる。所謂リストラの動きは一段落だが、求人のほうは相変わらず少ないという。それでも多少は明るさが見えてきたらしい。今回の私のような事例は「宝くじに当たったようなもの」だそうだ。話を始めたあたりでは「いやぁ、熊本さんのお人柄でしょう。」などといかにも世辞のようなことを言っていたが、そのうちに打ち解けてくると「強運の持ち主」だの「宝くじ」だのと本音がこぼれ出てくるのが面白い。私も自分で不思議な運のようなものを持っていると思うことがある。2001年11月に当時の勤務先で解雇通告を受けたときも、翌日に街中で以前の勤務先の同僚と出くわして、彼の当時の勤務先の社長に紹介されてそのままそこに就職することになった。今回はさすがに解雇の翌日というわけにはいかなかったが、解雇通告を受けた月のうちに今回決まった就職先の案件の話が入り、即入社というわけにはいかなかったが、結局こうして就職することになった。事細かに挙げると際限がないのだが、現状を構成しているひとつひとつの些細な要素がそれぞれにつながっている。人の生活というのは面白いものだと思う。

「運」と書いたが、単純に運が「良い」とか「悪い」ということではない。良し悪しという二元論で割り切れるほど世の中は単純ではない、というようなことはこのブログで何度も書いている気がする。2月22日付のこのブログで山田風太郎の「あと千回の晩飯」について触れているが、この本で山田が書いていることが面白い。
「吉凶はあざなえる縄の如し、というが、吉の次に凶がくる、というように吉凶が交互に訪れるというのではなく、吉そのものが凶となり、凶そのものが吉となるという例を私はいくつも見ている。」(山田風太郎「あと千回の晩飯」朝日文庫 222頁 「わが意外事」より)
解雇されたから悪い、就職できたから良い、という単純なことではないのである。例えば昨年の震災の瞬間、得意の絶頂から失意のどん底へと暗転した人もいるだろうし、あのことがきっかけで予想だにしていなかった幸運を手にした人だっているだろうし、これといった変化の無い人もいただろう。しかし、1年を経てみれば、どん底だと思ったところがそれを機に新たな可能性を見出した人もいるだろうし、幸運だと思ったらトンデモナイことだったというようなこともあっただろうし、変化が無いと感じていたがそうではなかったということもあるだろう。これがさらに時間を経てみると、また違った様相を呈することだって当然あるだろう。

要するに目先のことで一喜一憂するというのは滑稽だと思うのである。「雨ニモマケズ」という宮沢賢治の詩がある。長くなるが引用する。
(以下引用)
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
(以上引用、青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html より)
たいへん有名な詩だが、こういう考えというのは自然なことだと思うのである。「マケズ」と言っているがそれは表現上の便宜として、人は上下であるとか良し悪しというような二元論に囚われることなく平らな心情というものを恒常的に持つことができれば、これほど心安らかなことはないだろう。

夜は某ブリテッシュパブで開催された留学先の同窓会に出席。終わる気配が無かったので22時頃に勝手に退散する。

あたふたと

2012年03月15日 | Weblog
30年近くもサラリーマンとして生きてきて今回初めて知ったのだが、入社時に健康診断を受けるのは労使双方の義務らしい。労働安全衛生法というもののなかで、そういうことが規定されているのだそうだ。そんなわけで、健康診断を受けることになった。ここ数年に亘って毎年人間ドックを受診している診療所に予約を入れようと昨日電話したところ、予約を入れるよりも外来で順番待ちをしたほうが、健診結果が早く出ると言われた。それで今日はその診療所の受付開始時間に合わせて住処を出て健診を受けてきた。

受付開始時間より少し早めに着いたら、入口の前に既に列ができていた。私の前には5人か6人いたが、ざっと半分が予約済みの人で残りが私同様の飛び込みだ。私の受付番号は0102番。01というのは受診科の符丁で内科のことらしい。で、私はその2番目ということだ。予約していた人が優先なので9時に診療が始まってから私の前に予約の人が3人受診することになった。私の場合は健診なので、医師の診断を仰ぐのは、問診と聴診器による診断や触診などである。ここで何か引っ掛かるということはこれまでには無かったのだが、胸に微かな雑音があると言われる。担当医師によれば単なる加齢にともなう一時的なことの場合もあるけれど、弁膜症のような大きな病気の予兆ということも無いわけではないという。「加齢で云々」というのは40代後半になると毎年の人間ドックや健診での恒例の文句なので、殊更にどうということもないのだが、「弁膜症」となると、名前からして大病という感じがする。それで無意識のうちに緊張したのだろう。その後の諸々の検査のとき、「はい、力抜いてください」と言われ通しだった。

人間ドックとちがって入社時健診の検査項目は少ないので、すぐに終わる。それでも順番待ちで待ったり、会計で領収書を新勤務先宛に誂えてもらったりしていたので、診療所を出たのが11時近くになった。尤も、想定では午前中いっぱいかかる予定だったので、日比谷へ出て伊勢廣でやきとり重をいただいて、出光美術館で古筆を眺めてから住処へ戻る。天気が良かったので、普段ならふらふらと歩き回るのだが、まだ雇用契約書に署名捺印が済んでいないので、それが送られてくるのを待たないといけない。健診の報告を新勤務先の人事部にする際に「契約書のほうはお送り頂けましたでしょうか」と書き添えておいたところ、「昨日配達記録にてお送りしております」という返信が来たので、急いで実家へ向かう。果たして郵便受けにその封筒が入っていた。住処に取って返し、同封されていた諸々の書類に目を通しながら、記入や署名や捺印をして、取り寄せる必要のあるものを書き出し、親には保証人になってもらうので、その旨のメールを送って印鑑証明の準備を依頼、近所の写真屋にでかけて証明写真を撮影してもらう。

その昔、写真を当たり前にフィルムに撮影していた頃には街中に証明写真を撮るところはいくらもあったが、いまはずいぶん少なくなった印象がある。いつも利用している写真館に電話したところ休業日らしく誰も出ないので、ネットで検索して別のところに出かける。そんな必要も無いのかもしれないが、一応スーツに着替えて住処から徒歩10分ほどのその店にでかけてきた。そこは昔ながらのDPEショップで、15分ほどで写真ができあがった。

書類に写真を貼付け、とりあえず今日返送できるものは完成させて、そのリストを作成して、封筒に入れる。もちろん、自分のプリンタを使ってコピーも取り、準備を整えたら午後8時を回っていた。何も考えずに東京中央郵便局へ出かけたら営業していなかった。すぐに東京駅へ取って返して中央線に飛び乗って新宿へ向かう。新宿郵便局に着いてみると長蛇の列があった。午後9時過ぎに列の最後尾に立ち、自分の順番になるまでに40分近く並んでいた。並んでいる間、他の人たちを眺めていた。ざっと半分くらいの人は携帯電話や携帯ゲームをいじっている。不思議なもので、そうやってどうでもよさそうなことをしていながら、自分の番が近づいてきてから慌てて何かの用紙に記入を始める人が必ずいる。結局順番までに書き終わらずに、窓口でぐでぐでと時間をかけることになる。そういう人はこれまた不思議と女性なのである。これはどう解釈したらよいだろうか。私の前に並んでいた人は20代後半から30代前半くらいの女性で、会社の用件で郵便の発送に来たらしい。彼女がかかえている大きな封筒の宛名は中野税務署で、「確定申告在中」と書いてある。これは確かに今日の消印が必要だ。封筒の左上隅にはアジア某国の電機メーカーの名前と東京での住所が印刷されていた。

契約書を無事に簡易書留で発送し、ようやく夕食にありつく。新宿郵便局界隈には飲食店が密集しているが、ラーメン屋は繁盛しているところが多いようだ。これまた不思議に思うのだが、店のなかを覗いてみると比較的若い男女のふたり連れが多い。デートでラーメンかぁ、と思うのだが、今はそういう時代なのかもしれない。そうやってうろうろした挙げ句、老辺餃子店に入った。ここの餃子というのは焼き餃子ではなくて、中国本場の餃子、つまり蒸したものだ。でもひとりだとその餃子のメニューは帯に短し襷に長しという感じがして、刀削麺の焼きそばを頂いた。以前は刀削麺というのはあまり見かけなかったが、この10年ほどの間にずいぶん増えたように思う。いままでに頂いたことのない焼きそばで、たいへんけっこうだった。この店の中は店員さんたちが日本語を解すること以外はまるで中国で、たまにこういう新鮮な環境も楽しいと思う。

不良少年

2012年03月14日 | Weblog
このところ窯の回転が早く、焼きに出すとこれまでに比べて短時間で焼き上がってくる印象がある。今週は壷が4つ本焼きを完了していた。写真の壷はそのなかの2つで、こうして横から見れば特に変哲の無い伊羅保の壷だが、どちらも底に直径いっぱいのヒビが走っている。ヒビは貫通していてこのままでは器としての用を成さないので、昨夜このヒビをエポキシ樹脂で埋め、今日は樹脂が乾燥したところで整形して漆を塗った。漆は飯粒を潰して糊状にしたものに混ぜてペースト状にして細い筆で塗る。漆は乾燥が難しいのだが、とりあえず浴室に置いておく。次の作業は漆が乾いてから。漆を扱った後の片付けにはテレピン油を使うので狭い住処の中はシンナーを吸う不良少年の部屋のような臭いに染まる。漆製品は使うほどに風合いに深みが出て気持ちよいのだが、作る方はたいへんだ。扱うときは使い捨てのメディカルグローブを着用するので、今の時期は良いのだが、夏場は手が自分の汗でふやけてしまう。陶磁器の破損を扱う機材を備えようかどうしようかと今日のようなことがあるたびに思うのだが、ヒビが入るというようなことは滅多にあることではないし、現に手元の漆なども買ったのはずいぶん前のことだ。ただ、道具というのは持っているだけで嬉しいということもある。

そんなわけで、今日は天気が良いというのに終日住処に籠って壷のヒビを埋めたり、壷の高台の裏にヤスリをかけたりして過ごしていた。4の付く日は地蔵通りの縁日で、殊に今日のように天気に恵まれると住処の前の通りがたいへん混雑するので出かけたくないということもある。混雑をやり過ごすのは雑作の無いことなのだが、たとえ短い時間であっても、嫌なものは嫌なのだ。時々ここにも書いているのだが、それほど残りの長い人生ではもはやないので、嫌なことはしない、という自分の中の基本方針はできるだけ守りたいのである。

天気晴朗なれど雲多し

2012年03月13日 | Weblog
昨年12月初頭に失業して以来、就職活動を続けてきたが、今日2社から正式なオファーを頂くことができた。どちらも名誉職のようなものというのなら両方に応諾することもできるのだろうが、そのような結構な身分とはほど遠いので、どちらか片方を選ばないといけない。どちらの会社も採用に関わった人たちが私をそれなりに評価して頂いたということなので、たいへん有り難いことだと心底感謝している。それにもかかわらず、片方をお断りしなければならないというのはたいへん心苦しいことでもある。今のご時世で人生末期でありながら仕事を頂けるというのは嬉しいことには違いないのだが、せっかくのオファーをお断りしなければならない心苦しさも殊の外大きく、また、定年までの時間の少なさも雇用契約についての説明を聴きながら改めて意識させられ、就職先が決まったということを素直には喜ぶことができない。

何かの参考になるかもしれないので、失業から今日までの就職活動について以下に備忘録的にまとめておく。

2011年12月1日木曜日
上司から2日午前10時に参加必須の会議があるので出頭せよとのメールを受け取る。

2011年12月2日金曜日
前日指定を受けた会議室に行くと上司2名と人事部事務担当者1名が着席しており、ニューヨークの上司がコンファレンスコール用機材を通じ待機していた。その場でニューヨークの上司から解雇通告を受ける。解雇通告後、人事部事務担当者から退職にまつわる事務手続きについて説明を受ける。オフィスへの入館に必要なカードキーをこの場で返還。パソコンのアカウントにはロックがかけられる。

帰宅後、このブログに解雇通告を受けたことを書く。

2011年12月6日火曜日
事前に人事部事務担当者へ連絡の上、職場へ私物回収に出向く。
その際、人事の担当者に再就職支援の申込書を提出。

2011年12月7日水曜日
自分でネット上で見つけた人材斡旋会社A社で面談および登録。

2011年12月9日金曜日
人事部から斡旋された再就職支援会社で面談および登録。
再就職支援会社の担当者から人材斡旋会社のリストを渡され、そのなかからいくつかの会社に連絡を取るよう勧められる。
帰宅後、勧められた人材斡旋会社へ問い合わせのメールを送る。

2011年12月12日月曜日
知り合いの人材斡旋業者を訪ね、就職市場の現況について話を聴く。
「今は熊本さんの業界は仕事なんかありませんよ」とはっきり言われる。

2011年12月14日水曜日
上司の紹介で外資系X社の某氏を訪問。

2011年12月16日金曜日
再就職支援会社の紹介で、人材斡旋会社B社に面談に行く。
B社は再就職支援会社から紹介された斡旋業者のなかで唯一面談をして頂いた会社。他の業者は求人案件がないとのメールの返信のみで、その返信すら無い業者も複数あり。

2011年12月20日火曜日
再就職支援会社のセミナー(英文の職務経歴書の効果的な書き方について)に出席。

2011年12月22日木曜日
再就職支援会社のセミナー(英文のカバーレターの効果的な書き方について)に出席。

2011年12月28日水曜日
人材斡旋会社B社から国内企業Y社の求人について案内のメールを頂く。
応募の旨、返信。

2012年1月4日水曜日
Y社への応募のため、B社に職務経歴書を送りチェックして頂く。

2012年1月5日木曜日
再就職支援会社のセミナー(起業セミナー)に出席。

2012年1月10日火曜日
再就職支援会社のセミナー(履歴書の効果的な書き方について)に出席。

2012年1月20日金曜日
アントレフェア訪問

2012年1月25日水曜日
Y社1回目の面接。

2012年2月6日月曜日
Y社2回目の面接

2012年2月10日金曜日
上司の紹介で外資系Z社の在ニューヨークの部門長と電話

2012年2月14日火曜日
Z社の在香港の副部門長と電話

2012年2月17日金曜日
Y社3回目の面接。実技試験。

2012年2月20日月曜日
Z社1回目の面接。東京にて。

2012年2月22日水曜日
Z社2回目の面接。東京にて。

2012年2月27日月曜日
Z社 在ニューヨークの部門長と2回目の電話。 前職の報酬確認など。

2012年2月29日水曜日
Z社 東京オフィスでこれまで面接をして頂いた方から電話で雇用契約作成中との連絡。

2012年3月7日水曜日
Y社4回目の面接。面接の後、エレベーター前まで歩きながら、
「熊本さんて、ひょっとして学生時代は落研ですか?」
と言われる。

2012年3月9日金曜日
Y社5回目の面接。

2012年3月12日月曜日
Z社 東京オフィスでこれまで面接をして頂いた方から電話で雇用契約書(オファーレター)完成との連絡。
人材斡旋会社B社経由でY社から雇用契約書(オファーレター)完成との連絡

今日
Z社 東京オフィスで人事部採用事務担当者からオファーレターを頂き、契約内容について説明を受ける。入社予定日は3月21日水曜日。
Y社 人事部採用事務担当者からオファーレター草稿を頂き、契約内容について説明を受ける。最終稿は応諾の際に退職金を前払いで毎月支給を受けるのか退職時に一時金として受給するのかを決定し、その決定を反映させたものにするとのこと。入社予定日は4月16日月曜日。

市ヶ谷台にて

2012年03月12日 | Weblog
午前中、防衛省見学ツアーに参加する。午前9時10分から30分の間に市ヶ谷の防衛省正門で受付を済ませて、9時半から11時45分にかけて記念館を中心に見学するというものだ。場所は知っていたが中に入るのは初めてであり、朝の通勤時間帯に巣鴨から市ヶ谷まで出かけるのも初めてのことなので、早めに住処を出て市ヶ谷八幡下のタリーズで時間を潰す。防衛省を訪れるのは初めてだが、市ヶ谷には仕事で何度も来ている。かつての職務で大手印刷会社と大手家電メーカーを定期的に訪問していたので、今日は久しぶりという感じを受けた。

今回の見学は「市ヶ谷台ツアー」という名称であって、どこにも「防衛省見学」とは書いていない。そんなところに一般人がうろうろしていたら、防衛省でなくとも邪魔でしょうがない。見学は敷地内を歩くだけの時間が主で、説明を受けるのは現在の防衛省についてではなく、かつてこの地にあって今は記念館として保存されている講堂とそれに付随する施設についてである。

市ヶ谷台は都区内で2番目に海抜の高い場所である。正門はその高台の麓であり、正門を抜けるとまず11メートルの高さを階段かエスカレーターでのぼる。エスカレーターを上り詰めた場所は庁舎D棟前の儀仗広場だが、このD棟に装備施設本部や技術研究本部がある関係で、外部からの来客が多く、広場は駐車場のような状態だった。隣の庁舎A棟前の儀仗広場は主たる広場でこちらはきれいになっている。A棟は官公庁の建物としては最大規模であり、内部には大臣をはじめ内部局、統合幕僚監部、陸・海・空各幕僚監部等の防衛の中枢機関がある。屋上にあるヘリポートは都内最大規模だそうだ。海外からの来賓がある場合の屋外での式典はこのA棟前の広場で行われる。もとはこのA棟のある場所に旧陸軍士官学校本部、後に旧大本営陸軍部、さらに後に極東国際軍事裁判法定、さらに後に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地1号館として使われた建物があった。その象徴的な部分だけを集めて市ヶ谷記念館として敷地の西の端に移築・復元されている。

記念館のなかでは大講堂の見学に重きが置かれており、動画による説明が約20分間ある。この土地がそもそもどのような場所だったのかというところから始まって、極東国際軍事裁判、三島事件、移設まで場所としての歴史を俯瞰することができる。大講堂の照明は竣工当時と同じものになっているのだそうで、空間の大きさに比して暗い。極東軍事裁判の際にはGHQの指示により、法廷内において影ができないように照明が増設されたのだそうだ。講堂内には様々な展示品があるが、個人的に興味を覚えたのは栗林中将の私信類と極東裁判に使われた地図である。「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」も読んだし「硫黄島からの手紙」も観たのだが、栗林の遺族から提供を受けて現物の写真撮影を行った手紙やあの最終電報の文字を追っていると胸に迫るものを感じないわけにはいかない。地図のほうは、素朴に地図を眺めるのが好きという私の性向に拠る興味だ。モノを蒐集するという趣味はないのだが、気がついた地図は捨てずに取っておくようにしている。いつか自分のギャラリーを持つことができたら、それらの地図を商品として並べてみようと思っている。それで軍事裁判の地図だが、3点制作され、うち1点が裁判期間中ずっと法廷内に掲げられていたそうだ。ところがその法廷内にあったものが裁判終了後に紛失したという。しばらくは地図のことが忘れ去られていたのだが、ふとしたことでゼンリンという地図のメーカーの倉庫から残りの2点が発見され、1点はこうして市ヶ谷記念館に展示され、もう1点は靖国神社に保管されているとのこと。今日の説明では「同じものが3点」という表現をしていたが、リンクした地図の説明にあるように、手書きなので「同じ」ではありえない。正確には「同様」あるいは「同仕様」の地図ということになる。

記念館見学の後、隊舎の前を通って厚生棟へ行き、そこで15分ほど自由時間。厚生棟のなかには売店や食堂があり、スターバックスも出店している。自衛隊関連施設のなかにあって部外者を対象にしていると思われる売店の商品はどこも同じものらしい。先月、呉で見かけたものがここにもあったし、商品の「製造者」が全国に及んでいる。規制があることは承知しているが、自衛隊ブランドというものをもっと自由に活用すれば、ちょっとした収入源になって財政負担の軽減につながるのではないかと思う。

見学コースの最後は屋外に展示されているヘリコプターの見学と殉職者を祀ったメモリアルゾーンの見学。慰霊碑を正面に見て立つと、慰霊碑に向かって左側後方に官舎が見える。そのペントハウスの上に「自衛官募集」という広告があって、なんとなくその風景が気になった。都心なので土地に余裕がないのは承知しているし、この敷地も可能な限り建物とオープンスペースとのバランスを考えていることは歩いていて想像がつく。しかし、どうしても頼りない感じを拭い去ることができないのである。その「頼りない」感じは、防衛省固有のものなのか、日本人というもの総体についてのものなのか、もっと敷衍して人間というものが本来的に頼りないのか、それは自分でもわからない。

あれから◯年

2012年03月11日 | Weblog
3月10日は東京大空襲の日でもある。太平洋戦争で東京が空襲を受けたのはこの日だけではないのだが、1945年3月10日の空襲が規模において最大であったので、一般に「東京大空襲」と言えば1945年3月10日午前0時7分から午前2時37分にかけて実施された空襲を指す。爆撃に参加したのは米軍第73、第313、第314の三個航空団のB-29爆撃機325機。なかには気象観測や着弾観測専任機のような爆撃には直接関わらなかった機もあったはずなので、実際の爆撃は300機ほどによるのだろう。爆撃用の機には通常の倍に相当する6トンの高性能焼夷弾が搭載されていた。この爆弾は東京を爆撃するためにカスタマイズされたものである。従来の焼夷弾は瞬発あるいはそれに近い遅発信管が装着され、爆発のエネルギーで目標物を破壊する。木造家屋が密集している東京市街地の爆撃には爆発よりも燃焼によって目標物を破壊するものが使われた。木造とは言え、関東大震災の教訓で東京の家屋は燃えにくい素材で補強されており、例えば陶器の屋根瓦などがそれにあたる。そこで、核爆弾には空中での姿勢を制御することで、屋根瓦を突破しやすいようにして、建物内部で着火剤を飛散させて火災を発生させる工夫を凝らした。つまり、米軍は関東大震災の被害状況を徹底的に検証し、その成果を東京爆撃の目標選定から爆弾開発にまで活用しているのである。東京大空襲の被害地域の中核部分が関東大震災の延焼地域とほぼ重なっているのはそのためだそうだ。爆弾の搭載量を通常の倍にするということは、その分既存装備の軽量化が必要になる。東京大空襲参加機はほぼ全ての機銃とその弾薬を降ろしたという。これは迎撃を受けることは想定しておらず、受けたとしても無視しうる程度という評価をしていたことを示している。実際、作戦参加325機のうち撃墜されたのはわずかに12機であり、撃破された機体も42機にとどまった。既に日本に防空能力は無かったのである。防空能力が無いということは戦争継続能力も無いということだ。この後、日本が連合国に対し降伏するまでに5ヶ月を要したということは何を意味するのだろうか。しかも、この5ヶ月の間には引き続いての本土爆撃と広島・長崎への原爆投下が行われる一方、日本軍も大和が参加した海上特攻や菊水作戦のような捨て身の戦いを続ける。確かに特攻によって連合軍側にもそれなりの被害が出ているが、結果としては日本の無条件降伏に終わった事実を見れば、1945年当時の日本の統治者たちの能力というものについて疑念を抱かないわけにはいかず、今の時代に当時の教訓がどれほど活きているのかということについても、一年前の東北の震災とそれに伴う原発事故への対応を見れば、不安を抱かないわけにはいかない。統治者の能力というのは国民全体のそれでもある。他人事ではなく、自分がどうなのかということをやはり反省しないわけにはいかない。

大絶滅時代

2012年03月10日 | Weblog
午前中は「生き物モニタリング調査まとめ報告会」というものに出席した。東京大学大学院農学生命科学研究科保全生態学研究室がボランティアの協力を得て都内で蝶の生態をベンチマークにして生物多様性モニタリングを行っているそうだ。今日の報告会のプレゼンは2部構成で、一部が鷲谷いづみ先生による生物多様性の意味についての説明、二部は須田真一先生による2011年度調査のまとめにつてであった。この「調査」というのは都内で募集したボランティアによる蝶の観察調査のことだ。生活のなかで発見した蝶について、いつどのような場所でどのような状況で発見したのかを報告するのだという。どちらも大変興味深いものだった。

地球に生命が誕生してから約40億年が経過しているということは、おそらく誰でも知っているだろう。この40億年の間に種が極端に減少した時期が6回あるのだそうだ。しかも今が6回目の真最中だというのである。種の減少というのは絶滅率という指標によって計られるのだそうだ。これは「1,000年につき1,000種類の生物のうち何種が絶滅したか」というものだ。一番目の大絶滅時代がいつで直前のものがいつだったのか、というようなことはプレゼンでは触れられていなかったのだが、以前のものが地殻変動や隕石の衝突のようなイベントドリブンであったのに対し、現在のものは人間の活動に伴う生態系の破壊が原因になっているという点でこれまでに例のないものだという。話を聴いていると、自分も生態系破壊に一役買っているようだ。今、世界人口の約半分が都市で生活をしているという。この比率は今後10年以内に6割に上昇するらしい。都市化による緑地の減少と都市自体のヒートアイランド化で温暖化が加速すると見られている。これにより生態系の破壊がますます進行するのである。そうしたなかで生物多様性を確保すべく、対処療法的に絶滅危惧種の保護を図っているわけだが、それが生態系保全に対して気休め程度の意味しか成さないのは明らかだろう。勿論、現状把握と的確な現状認識はそれに対する効果的な対応をする上で必須のことではあるのだが、人間が増えすぎたとか、人間活動が生態系のなかで過剰に活発であるというようなことに対する根本的な対応というのは小手先の環境対策ではなく、人間を大胆に減らすこと以外にないのではないか。それができないなら、遅かれ早かれ絶滅するよりほかにどうしようもないのではないだろうか。個人的な経験として、学生時代にエコロジー研究会というサークルに籍を置いたこともあり、多少はそういうことを考えたこともあるのだが、今いろいろな分野で行われている環境保全の試みはどれも温暖化阻止あるいは生態系保全という目的に対してあまりに枝葉末節な部分への対処でしかないという印象しか持つことができない。

午後は先週末に引き続いて今日も東京都現代美術館を訪れ、秋山祐徳太子、赤瀬川原平、山下裕二による鼎談を聴いてきた。タイトルは「現代泡沫論」。ここでの「泡沫」は、選挙で使われる「泡沫候補」に由来するもので、秋山が70年代に都知事選に2回立候補してそのように呼ばれたことから、彼等が「泡沫」というものに注目するようになったというのである。鼎談のほうは個別具体的な事例を挙げながら「泡沫」か否かというような話に終始していたが、面白くて笑ってばかりいた。そのなかで3人ともに妙に納得している様子だったのは独文学者の種村季弘氏が言っていたという「本気で一生を棒に振る人」との定義だった。ふと、私も泡沫かもしれないと思った。なんて。

浪花節だよ人生は

2012年03月09日 | Weblog
広沢瓢右衛門は13歳から浪曲師を始め、売れ始めたのは80歳頃からだという。途中、半引退状態になっていたが3代目米朝、小沢昭一、永六輔らの勧めで復帰、80歳近くなって米朝の推薦で朝日放送の和朗亭に出演して人気を博したそうだ。自分が好きなことを真面目に続けていれば、それをちゃんと評価する人に巡り会うということもあるのだろう。自分が高齢になると、高齢になってから活躍した人のことが妙に気になるようになるものだ。

朝の世間一般の通勤時間帯の電車に久しぶりに乗った。今日の面接は午前9時からなので、混雑を避けるために早めに家を出るつもりだったのだが、いつものように出がけにぐずぐずしていたら午前8時になってしまった。某社5回目の面接で、首尾よく行けば次回に条件提示となるそうだ。2005年4月から夜勤になり、途中1年半ほどロンドンで朝夕のラッシュを経験した他は、そういう混雑とは無縁の生活を送ってきたので、今朝は面接よりも混雑に緊張して出かけた。ところが、自分も高齢になっていろいろしょうもない経験を積み重ねてきた所為か、驚くほどの混雑とは感じなかった。もちろん、高齢の所為ばかりではないはずだ。首都圏の鉄道網の密度が濃くなり、線区あたりの混雑が緩和されたという要因が大きいだろう。古い話だが、私が高校生の頃は当時の首都圏で最高の混雑率を誇った国鉄赤羽線(現 JR埼京線)を利用していた、私の記憶なのであてにはならないのだが当時の同線の乗車率はピーク時で230%というような数字だったと思う。しかも冷房なしの車両だった。当時、バスで京浜東北線の西川口駅へ出て、赤羽駅で赤羽線に乗り換え、池袋で山手線に乗り換えて新大久保駅で下車するのだが、池袋から新大久保までも半端な混雑ではなかった。ただ、山手線のほうは当時既に冷房がついていたので、赤羽線に比べればましだった。そういう経験に比べれば今朝の混雑など混雑のうちにも入らない。

面接の後、静脈瘤の手術後の定期検診のためにクリニックへ行く。経過は順調で今日を以て弾性ストッキングから解放された。ストッキングの装着自体に問題は無いのだが、歩いたりしているうちに大腿部のところがずれ落ちてきてしまう。それを直すにはズボンを半分くらいおろさないといけないので、そういう手間が鬱陶しいのである。多少小さい瘤が残っているが、これらは放置しても問題が無いものらしい。2ヶ月後に次回の定期検診があり、もしこれらを消す必要があれば硬化療法によって対応するとのことだった。

クリニックの後、銀座のアップルストアでワークショプを受講する。以前にも書いたがアップルは購入後の面倒見が良い。iPhoneとかiPadといった製品力も勿論重要だが、自分たちが扱っている商品の性質というものを十分に把握して、それに応じた販売をしているということがこの企業の今日の好業績の鍵になっているのではないだろうか。ただ、今日のワークショップを聴いていて思ったのだが、近頃のITガジェットは便利には違いないのだが「それで?」と思うような機能ばかりのような印象だ。技術の進歩は結構なことなのだろうが、使う人間の身の丈と噛み合ないような気がしてならない。IT商品のライフサイクルが短期化して、すぐにコモディティになってしまうのは、各部門の技術ばかりに注目が向き、人の生活をどのようにするのかという視点がおざなりにされている、あるいはそういうことを考える余裕がないほど部門毎の競争が激しいということなのだろう。企業としては、既に大規模化して高い固定費を抱えてしまったために、否応無く競争を続けなければならないのだろうが、結果として不採算部門が肥大化して企業の存続が危うくなるという事態に陥ってしまった事例がいくらもある。生き残るには競争の土俵を取り替えるしかないように思うのだが、それにはある種の革命的転換よりほかに方法はないだろう。ま、そんな話をここに書いてもしょうがない。

せっかく銀座に出てきたので久しぶりに明月庵田中屋で蕎麦を頂く。この蕎麦屋は昔、練馬にも店を出していて、私が鷺宮で生活していた頃には家族でたまに出かけていた。蕎麦も旨いが、私はこの店の卵焼が好きだった。今日はランチセットでセイロとミニ天丼を頂いたのだが、天ぷらが上品で少し控えめなところがいかにもちゃんとした蕎麦屋の天ぷらだと思う。天ぷらというのは、ただ具材を衣に包んで揚げたものではない。具材の旨味を最大に引き出す火の入り具合というものがあり、そのためには具材を揚げる順番も重要になる。天ぷら屋ならば、客の予約時間をやり繰りして、天ぷらの調理と客の入りとをなんとか合わせることもできるが、蕎麦屋となるとそういうわけにはいかないし、蕎麦が主役なのだから、蕎麦と天ぷらとの兼ね合いというものも考えないといけない。次善の策として、所謂「名店」とされる蕎麦屋の場合は天ぷらを控えめにしておくことが多いように思う。出前をするような街中の蕎麦屋とか立ち食いとなると話は別で、出前蕎麦なら天ぷらというよりも天かすに身も付いているというようなものが一般的で、立ち食いなら活性酸素大反応というようなぐったりしたものを「天ぷら」と称している。味覚というのは不思議なもので、限りなくタヌキに近い天ぷら蕎麦が食べたくなったり、ぐったりした天ぷらにかぶりつきたくなったりすることもあるのである。

ついでに書き添えておくと、蕎麦で満腹にするのは江戸の食い方ではない。腹が減っているときは飯を食ってから蕎麦を食うのである。だから古くから東京にある店はセイロの蕎麦の量があれっぽちしかないのである。落語にあるように確かに蕎麦好きが無闇に蕎麦を食うというのもあった。好きな人は自分の背の高さほどもセイロを積み上げた(身長という意味ではなく、テーブルの上の身の丈だ)と言われるが、それはある種の遊びであって食事としてそういうことをするのではない。あと、外で食事をしていて気になるのは、蕎麦であろうと饂飩であろうとラーメンであろうと、人によってはスパゲティも、麺とあれば無造作に啜る奴がいるが、これはベルの音を聞くと条件反射で涎を垂れるパブロフの犬のようなものだ。麺の種類が違うのだから食べる作法も当然に違う。なんでもかんでも麺なら啜るというのは不作法以前に単なる馬鹿だ。そういうのとは深く付き合うべきではない。

田中屋を出て、伊東屋に寄って店内を一巡りしてから家路につく。途中、ハニービーンズに寄ってコーヒー豆を買いながら20分ほどおしゃべりをする。今日の豆はボリビアのCOEの農場のもの。

そうだ京都、行こう。のはずだったが

2012年03月08日 | Weblog
昨夜は3人で飲んで食べて、午前0時半頃ひとりが明日の仕事に差し障りが出るからと抜け、さらに2人で午前2時まで飲んでいた。帰宅後パソコンを開くと、現在進行中の案件を扱っている職業斡旋会社の担当者から、就職活動に関連して必要書類を一件提出するよう求めるメールが入っていたので、その書類を作成して送信を完了すると時刻は午前4時半をまわっていた。当然、それから就寝したところで朝起きられるはずもなく、なんとなく予定をしていた京都行きは中止した。その代わり、昨日予定していて、急遽面接が入ったので取りやめたなんとなくの別の予定があったので、今日はそちらへ出かけてきた。

昨日行くはずだったほうの用件は、別に敢えてでかけるほどのことでもなかった。たまたま今日も電話があって急遽明日朝に面接の予定が入ったのだが、その電話を潮に今日出かけた用件は切り上げてしまった。帰りに恵比寿に寄る。

女3人寄れば姦しいと言うのだが、昨夜のfucaでは女2人でも十分過ぎるくらいの様子だった。よほど日頃から職場で鬱憤が溜まっているらしく、酒が入っているということもあり、小さな店なのに周囲の迷惑も顧みずテンションが爆発的に上昇していた。ちょっといかがなものかという状況だったので、今日は例の黒砂糖を持ってfucaに出かけ、「昨夜はお騒がせしました」と言ってきた。

この店では月代わりで手仕事の展示をしている。今月は「Exhibition “MIZUTAMARI” by Tatsuo Ebina」と題してシルクスクリーンによるグラフィックアートの展示が行われている。来月は陶芸作品の展示だそうだ。その陶芸作家の作品はこの店でも使われており、なんとなくどのような作品が並ぶのか想像できないわけでもない。それでも勿論どのような作品が並ぶのかということには興味を持っているが、それよりも壁をどのように使って展示をするのかという展示方法がとても気になる。

さて、京都にはいつ出かけようか。

人に会う

2012年03月07日 | Weblog
昨日電話があって、今日某社の4回目の面接を受ける。1月から丸2ヶ月かけて選考過程が継続している。意思決定に時間がかかるというのもこの組織の競争力の限界を語っていると思うのだが、それは先方も意識しているらしく、開口一番に時間がかかっている理由を説明していた。企業組織というのは、規模の大小に関わらず存在目的というのはひとつしかない。それは継続的に利益を獲得すること。そのための事業に応じて必要な人員を手当し、必要な組織体制を構築して機能させているのである。組織を構成する各部門は全体の目的を共有しつつそれぞれの機能を果たすという小目的を持つ。大規模な設備や仕組みを有する組織は巨大になり、それを構成する部門も多岐に亘ることになる。当然に各部門の小目的間で対立するものが出てくることもあれば大目的に反対するようなことも現れかねない。そうした複雑系を管理統御して組織を一体的に運用するのが経営陣の役割だ。「法人」という言葉があるが、大規模組織といえども社会の構成要素としては個人と同等の存在に過ぎないという側面もある。不確実性の世界を生きているという点においては個人も法人も同様であり、個人に時々刻々小さな判断と決断が要求されているように法人にも常時迅速な意思決定が求められている。それを怠ると、例えば原子力発電所が爆発するというようなトンデモナイ事態に陥るのである。なにはともあれ、今日の面接でようやく重たい車輪が少し回転したような感触を得た。

今日は珍しく夜に人と会う予定が入っていたので、面接の後、あちこち彷徨して時間を潰した。まずは茅場町に行く。もともと何に使われていた建物なのか知らないのだが、霊巌橋の近くに古いオフィスビルがある。1階にWall Streetという飲み屋があって、この店が開店した頃はこの名前もこの土地に似合っていたような気がしたものだ。今は株式市場が電子化されている上に失われたン年とかで株式市場そのものの活気が無くなってしまったのでこの界隈もすっかり寂しくなり、その名前がなんとなく苦笑を誘う。このビルにいくつかギャラリーがある。そのひとつ、RECTO VERSO GALLERYで知人の飯田さんが作品展を開催しているというので拝見に上がった。

イベントのタイトルは「Art Wave Exhibition vol.3」。小さな窓の無い白壁の部屋があり、その一面に飯田さんの作品が2点、それに向かい合う壁に望月麻里の作品が2点、ふたりの壁面の間に真池宏之の作品が展示されている。個々の作品よりもそれらが構成する空間がひとつの作品になっていて、その空間に立つことで自分なりの新しい体験をする。そのギャラリースペースだけでなく、建物全体も味わい深く、建物も含めて作品を構成していると見えなくもない。入口の戸を開けて中に入ると、かつて受付か守衛がいたと思しき机があり、人の気配が全く無いわけではないけれど薄暗くて静かな奥へと進む。そこにある自然光に照らされた石の古い階段を上っていく。ざわざわと不安な気持ちが起こる頃、4階の会場の前に立つ。部屋の中の様子がわからないのっぺりとした戸にギャラリーの名前が小さく示されている。ほんとうにやっているのかと訝しがりながらドアノブに手をかけて戸を開くと中に真っ白な空間が広がる。なるほどね、と思うのである。

茅場町から日比谷線で恵比寿に移動する。東京都写真美術館で堀野正雄展とベアト展を観る。

写美から駅の反対側へ出てSMLという瀬戸物屋を覗いてみる。以前、この近くのヨガ教室に通っていたことがあり、教室の時間の前後にこの恵比寿と代官山に挟まれた地域をぶらぶらと歩いたりしていたので、少しは土地勘があるつもりだったが、この店の存在には気がついていなかった。店の人に尋ねてみると、開店は3年前だがそれ以前は雑貨店だったという。それならその雑貨店を知っていてもよさそうなものなのだが、やはり記憶には見当たらない。記憶の話はともかくとして、小さな店だが、瀬戸物系では近頃流行のものが並んでおり、経営者の商売気が感じられる。それでもこの場所で瀬戸物だけで商売するというのは容易なことではないだろうが、もしこれが自分の住まいの近所なら散歩がてらしょっちゅう立ち寄ってみたいような店だ。瀬戸物のほうは自分で作っていることもあって余程のことが無いと買おうという気にはならないのだが、安くて気の利いた壷があり、これは正直なところ真剣に迷った。同じ作家の作品が倉庫のほうにもあるというので出してもらったが、一番気に入ったのは店に並んでいたものだ。この後予定が無ければ買って帰りたかったが、酔って帰ることがわかっているので、せっかくのものを買ったその日に壊してしまうという愚かなことにもなりかねず、作家の名前を手帳に書いて、スウェーデン陸軍の携帯用カトラリーと吉田守孝の栓抜き(Type B)を買う。

再び恵比寿駅へ戻る。アトレで今日の相手のひとりと待ち合わせてfucaへ行く。二人でできあがった頃にもう一人が合流し、時折店の人も交えながら果てしないおしゃべりが続く。

プロのおしごと

2012年03月06日 | Weblog
昨日送った退職関係の書類のなかに「確定給付企業年金 脱退一時金取扱方法選択届」というものがあった。退職に際し、企業年金をどうするかというのである。これは四択だ。
1 一時金で受給する
2 通算企業年金の原資として企業年金連合会に移換する
3 確定拠出年金(個人型)に移換する
4 確定拠出年金(企業型)に移換する
四番目は次の就職先が決定してないと選択できないので、私の場合は実質三択になる。いずれにしても複数の選択肢があるように見えるが、一時金以外の選択をする人があるのだろうかと素朴に疑問に思う。

年金というものは加入者から集めた掛け金を資産運用の「プロ」が運用して受給者に対して提供するということになっているらしい。そういう説明で安心する人がいるのかいないのか知らないが、「プロが運用」というのは、要するにどのようにしているのかわからないということだ。たまたま最近、国から許認可を得て投資顧問業を営んでいた会社が運用の委託を受けて預かった年金資金を擂ってしまったことが明るみになったが、その投資顧問業者もその業者に運用の委託をした年金基金も、対外的に自分たちのことを説明するときには「運用のプロ」と謳っていたのではないだろうか。国というこれ以上はない権威から許認可を受け、社会保険庁という年金に直接かかわる役所の出身者が複数絡み、年金基金という年金の運用と管理を生業にする組織が関与していながら、2,000億円という運用資金を「消失」させてしまったのは事実らしい。それが「プロ」の仕事だ。さて、「プロ」とは何者だろうか。

プロ、専門家、評論家、…きちんと調べたわけではないけれど、カタカナの肩書きとか「家」がつく肩書きを振りかざす人というのは胡散臭いのが多いような気がする。こういうことを言い出すと、陶芸家とか陶芸作家というようなものも出てくる。以前にも書いた気がするが、「家」に続くことばに「気取る」というのがある。「専門家気取り」「評論家気取り」「陶芸家気取り」「作家気取り」「芸術家気取り」…気取るような奴に碌なのはいないということだと思う。岩波新書に「職人」という永六輔が書いたものがある。このなかにこんなことを語る職人がいる。
「職人気質という言葉はありますが、芸術家気質というのはありません。あるとすれば、芸術家気取りです」
(永六輔「職人」岩波新書 65頁)
週に一度3時間弱だけだが、私も道楽で陶芸をやっていて憧れるのは、職人倫理のようなものに対してだ。幻想と言われればそれまでなのだが、腕を上げて使う人に喜んでもらえるようなものをたくさん作ることができるようになりたいと素朴に思う。それで生活を立てるとなるときれいごとばかりでは済まないので、いくつか並行して仕事を持ちながら、ただ素朴に自分の好きなこと、人に喜んでもらえることを積み重ねていけたらどんなに嬉しいことだろうと思う。

啓蟄

2012年03月05日 | Weblog
ほぼ終日雨。特に用も無いので、午前中に退職関係の書類を送りに郵便局へ出かけた以外は住処で過ごす。雨でも洗濯物がたまってしまえば洗濯をしないという選択は無いわけで、ついでにトイレを掃除したり部屋の中でクリーナーをかけたりと、やることはいろいろある。たいしたものではないが、食事の支度や後片付けもあるし、生活をするというのはつくづく細々としたことが付いて回るものだと呆れるやら感心するやら。家事が一段落すると、子供にメールを書く。原則として日曜の夜に書いていたのだが、このところ遅れ気味で、今回も昨日ではなく今日にずれ込んでしまった。篠原有司男だの坂田和實だのと話の大ネタがあると、ついついメールの文書が長くなる。

午後に香港から電話。就活も含め、仕事を取ることに関する実務は詰めの段階に入ると進捗がゆっくりになる。正式な退職日が迫るなか、住処の賃借を勤務先名義から個人名義に変更するとか、給与から天引きになっていた生命保険の保険料の支払いを銀行引き落としに変更するというような手続きは既に完了しているが、健康保険を勤務先の健保組合から国民健康保険に切り替える準備をするというような、退職後なるべく時間をおかずに済ませてしまいたい手続きをそろそろ考えておかないといけない。また、これまでは夜間勤務だったが、昼間の勤務になる可能性が高いので、生協の宅配も止めてしまわないといけないかもしれない。これまでは自分が住処に居るときに配達が来ていたので問題がなかったが、食料品を長い時間家の外に置いておくというのは何かと厄介事を引き起こすリスクが高いだろう。生協を止めて近所のスーパーで買い物をすれば、おそらく費用負担は軽くなる。生協の商品は、産地支援とか食の安全というような理屈っぽいものなので、その理屈の分だけどうしても割高になる。それでも産地と直結しているので、昨年の震災後に世間一般では買い溜め騒ぎで物不足になったときでも、比較的安定した調達ができた。そうしたプラスマイナスがあるのだが、特に夏場に長時間食料品を外に置いておくというわけにはいかない。

今日は寒いが啓蟄だ。このところ雨が多いのも、季節の変わり目である証左だろう。寒い日が続いていると、このまま春は来ないのではないかと思うのだが、寒いなかでも次に続く変化が確実に広がっていて、時期が来れば花が芽吹き、新しい季節の香りが漂い始める。毎日同じことが繰り返されているように見えるが、同じことなど何一つないものだ。

或る妄想

2012年03月04日 | Weblog
バイトの登録に出かける。年末に登録した先からは、単発の口が無いらしく、このところ音沙汰がないので、別の斡旋業者にも登録することにした。首尾よく事が運べば、こちらでの初仕事は今月中にあるはず。今日の登録会には私を含め8人の出席者があったが、私の隣の席にいた青年は東京大学の学生さんだ。私が学生の頃はもう少し割の良い仕事をしていたものだが、東大の学生でもこういうところに登録するほど世間の景気が悪いということなのか、彼が東大のなかでは例外の部類に入るのか、そのあたりのところはわからない。

学生といえば、就活の人たちは今時分がエントリーの時期なのだそうだ。新卒の採用というのは訳の分からないものどうしのやり取りなのだから、下手に時間や労力をかけるよりもくじ引きのようなものにしてしまったほうがわかりやすくてよいのではないだろうかと思う。常々不思議に思っているのだが、日本の企業では人事部が採用を担当しているところが圧倒的に多い。これが欧米企業となると、採用権限は各部門にあり、人事部というのは人事に纏わる事務作業を担当するだけだ。要はそれぞれの企業の事情に合わせた採用のやり方というものがあって然るべきだろう。なにがなんでもヨーイドン、というのはどこか間抜けで不合理だ。人事部の担当者が各現場の状況を的確に把握しているのなら、人事部一元管理ということのほうが効率的なのかもしれないが、巨大企業となれば、それはあり得ないだろう。となると、人事部の採用担当者とは何者なのか、ということが問われなければならない。

また、学生の側も人事部の面接を通過するためにあれこれ策を練るらしいが、これも人生の時間の使い方としてどうなのだろう。心にも無い志望動機を雄弁に語る技術は確かに有益かもしれない。しかし、嘘で固めた人生を生きていて楽しいのだろうか。他人のことなので、私がとやかく言うことではないのだが、社会をあげて小物たることを奨励するような仕組みというのは国民としての自殺行為なのではないか。もし私が晴れて自分の商売を立ち上げることができた暁には、人を何人か雇うくらいの会社にして、何かとんでもないことをやらかすような若い人を使って仕事をしてみたい。路地裏の、地図があってもなかなかたどり着くことのできないような場所にギャラリーだか店だかを構えて、近所の人には知られていないけれど、その道の人ならば世界中の人が知っている、なんていうようなものを商っていたら楽しいだろうなと思うのである。

鬼に微笑み返し

2012年03月03日 | Weblog
昨年11月8日付のこのブログ「鬼の嘲笑」に書いた坂田和實氏の講演会に出かけてきた。坂田氏の著作「ひとりよがりのものさし」については何度もこのブログで触れているが、目白の店のほうにはまだ一度もお邪魔したことはない。ギャラリーであるas it isのほうは何度かレンタカーを利用して出かけている。私は骨董にはあまり興味がないので、ひやかしで商売の邪魔をしては申し訳ないと思い、店には足を向けないのである。それでも坂田氏の眼には興味があるので、展示スペースであるas it isのほうには足を運ぶということだ。今日の講演によると、店のほうは坂田氏お一人で切り盛りされているそうなので、やはりお邪魔をしなくて正解だったと思う。

さて、今日の講演だが、タイトルは「私の好きなもの 美しいもの 私のものさし」。「ひとりよがりのものさし」は何度も目を通しているのだが、それでもこうして改めて坂田氏の話をうかがうと、なるほどと思うことがいくらもある。店の運営とか値付けについては、私がギャラリーを経営したいと目論んでいるので実際的な興味としてたいへん参考になった。また、いまごろになって自分の誤解に気付いたこともある。具体的には朝鮮陶磁のことだ。朝鮮陶磁については茶道具の名物と呼ばれるようなもののなかにもあるし、民藝館のような場所にもたくさんある。しかし、そのどれもがどこか緩さを感じるものだ。王朝が交代しても中国のものは完成度の高いものだけが博物館や美術館の展示を通して代々伝えられているのに対し、そこから陸続きで、時に中国王朝の一部であった時代もある朝鮮半島のものが中国の歴代のものと一線を画するのは何故だろうと素朴に疑問を抱いていたのだが、今日の講演によれば朝鮮半島でも高い評価を受けているのは中国同様に技術的完成度の高いものだそうだ。日本に伝わっている朝鮮陶磁は柳宗悦らの影響がやはり大きいのだそうだ。私は民藝館だけでなく上野の国立博物館に並んでいるものもどこか弛緩したところのあるものが多いので、それが朝鮮陶磁の特徴だとばかり思い込んでいた。これまで韓国には仕事では出かけたことがあるが、遊びに行ったことはなかったので、土地の空気のようなものを知らない。やはり、興味を持ったところには出かけてみないといけないと改めて思うのであった。

他に今日の講演で勉強になったのは、道具とそれを使う空間の取り合わせのことだ。つまり、モノというのはそれが単独で存在するのではなく、どのような場所で使われるのかという取り合わせのなかで存在するということなのである。たびたびこのブログのなかで、私は人間の在り様について関係性のなかでのみ存在すると書いている。モノは人が使うのだから、なるほど関係性のなかに存在するものだ。聞いてみれば当然のことなのだが、人とモノを無意識のうちに別扱いしていたので、今日のこの話で目から鱗が落ちる思いがした。さらになるほどと思ったのは、取り合わせという点から考えると茶道具は茶室の在り様が定着しているので、この先もその在り様に大きな変化はないだろうが、民藝は民家の姿が大きく変化しているので、この先が危惧される、ということだ。民家との取り合わせ以前に、普段使いであるはずの民藝品が普段使うのが憚られるような価格になっていることがそもそも存在の限界を示していると思うのだが、値段を克服したとしても、例えばマンションや規格化された住宅メーカーの建物のなかでしっくりと馴染むことができるだろうか、という問いかけは正鵠を射ていると思う。モノと空間の取り合わせ、というのは単にものだけのことではなく、人間同士の関係にも敷衍して考えることができる。

最後にモノを見るときのものさしについてだが、坂田氏はモノを人に置き換えて考えてみるということをおっしゃった。ようするに自分と合っているのか、長く付き合うことができるのか、とう観点で見たらよいのではないかというのである。単に美しいということだけで見ると、身近に置いておくと息苦しさを感じるほどの繊細さや完成度の高さのものあれば、愛おしくていつも傍に置いておきたいものもある。自分のものとして、自分の一部としてモノを考えるならば、自分の日常性との親和性というものが不可欠になるだろう。それは人も同じことで、誰とでも仲良くできるものではない。先ほどの取り合わせの問題と重なるが、数ある選択肢のなかから自分の生活のパートナーを選ぶのは容易なことではないのである。単に完成度の高さや学界や骨董界での評価だけで選ぶほうがどれほど簡単なことか。人間だって履歴書や釣書だけで選べば悩むことなど何もない。モノや人を選ぶというのは、つまりは自分自身の感受性が問われているということなのである。では、感受性を高めるにはどうしたらよいのか、ということになるが、それは場数を踏む、多くの刺激を受ける、というよりほかに方法はないのである。

私にとっては今日の講演もそうした刺激のひとつだ。本を読んだり人の話を聴いたり誰かとメールや会話を交わすことの喜びというのは、波が寄せたり引いたりするなかで不意にザブンと波頭が弾けるような、それこそ目から鱗が落ちるような爽快な衝撃を味わうことにあるように思う。尤も、そういう体験ができる相手というのは滅多にあるものではない。たいがいは何かの受け売りのような評論家風の能書きに終始してうんざりさせられるだけの奴が多い。類は友を呼ぶ、とも言うから、私の側に責任があることは承知している。だからこそ、そういう相手に捕まると心底がっかりする。相手に対して、ではなく、そういう奴と関係がある自分に対してだ。逆に今日のように、出かけてきた甲斐があったと思えるようなものに巡り会うと、自分の直観や選択眼もなかなかのものだという気分になる。人生もいよいよ終盤を迎えているので、少し奮起して人やモノとの付き合いを積極的にして有終の美を飾りたいものだ。

伝説

2012年03月02日 | Weblog
「ほぼ日手帳」というのを使っている。毎日の頁にちょっとした小咄が載っていて、今日は赤瀬川原平のこんな話だ。
(以下引用)
ようするに、勝手につくっちゃいけないわけです、
「お金」っていうのは。
ぼくは、それでも「やってみたい」と思って
模写とか印刷とかしちゃったんだけど、
その感じがね、性の話と似ていると思うなぁ。
―――赤瀬川原平さんが『貧乏と芸術の間の千円札。』の中で
(以上引用)
当然と言えば当然なのだが、紙幣を模造することは違法行為だ。紙幣だけでなく紙幣に関わる技法を公に試みることも違法行為だ。具体的には黒透かしは日本では御法度だ。もちろん紙幣の印刷には高度な技術が使われているのは確かだろうが、模造しようと思ってできないようなこともあるまい。技術以外のところで模造を思いとどまらせることがいくらもあるということなのではないだろうか。性的なことも、やってしまえばどうというほどのことなどない、ということばかりのような気がする。別にどうというほどのことはないのだけれど、世の中の了解事項として自己規制が働いているという点では、なるほど紙幣も性も似ている。なぜそういうことになるのか、ということに関しては経済史専攻の学生であった頃に何かで読んだり聞いたりしたことがあるが、今日はこの話題にはこれ以上触れない。ジンメルとかモースとかエリアーデといったあたりのことだ。

そんなことはどうでもよいのだが、赤瀬川原平といえば自分のなかでは路上観察のおじさんとして有名なのだが、実はもっと多才でスゴイ人で殆ど伝説的なゲージュツカの域に達している人らしいということを後になって知った。ネオ・ダダ運動などの前衛芸術活動で篠原有司男らと活躍、「原平」という名前も篠原の母親による姓名判断がきっかけで本名の「克彦」で活動していたのを変えたものだという。

それで篠原有司男だが、先日の東京都現代美術館での講演に続いて、今日は埼玉県立近代美術館で開催されたトークショーを聴いてきた。篠原の相手となる出席者は榎忠と同館館長の建畠哲だ。同館地下では篠原と榎の作品の展示もあり、作品鑑賞とトークショー聴講がどちらも無料という大盤振る舞いである。愉快であるだけでなく、たいへん有益な内容でこれだけでも今日は生きた甲斐があるというものだ。何がどのように有益であったかということについては、誰にも教えない。

夜7時から川口で喬太郎・三三の二人会を聴くことになっていたので、トークショーの後、鉄道博物館で時間をつぶす。以前にも書いたかもしれないが、個人的には交通博物館時代のほうが見応えがあったという印象がある。確かに今のほうが音声ガイドがあり、至る所に動画による説明が用意され、バーコードで携帯電話を利用して説明文を読むということもできる。実機も交通博物館時代より増え、至れり尽くせりと言ってもよいほどの展示だと思う。しかし、何か物足りなくなったように感じるのである。ひとつは匂いだ。鉄の匂いというのか、油の匂いというのか、交通博物館時代はそういうものがあったように記憶している。カットモデルも少なくなった。動画のほうがより具体的かもしれないが、断片や模型から全体や過去の現実を想像するということに楽しさを感じるということがあるような気がする。そういう想像の余地が展示を充実させることで狭められてしまっているのではないかと思うのだが、どうなのだろうか。

落語会のほうは殊更に書くこともない。ただ、気になるのは古典がいつまでできるものなのかということだ。風俗も習俗も違う時代の噺を聴いてあれこれ想像するというようなことは誰にでもできることではない。自分の子供と話をすると、知識としては古い時代のこともわかるようだが、噺となるとそこに人情の機微のようなものを絡ませるというようなことも必要になるので、生活のなかにそうした想像力を発揮させなければならない場面というものもないとわからないことも多い。時代は変化を続けるので、やがて古典落語というものもなくなってしまうときが来るのだろう。今は落語家を志す人が多いらしく、東西合わせて700名ほどの落語家が存在しているらしい。そういうデータとして見れば安泰なのかもしれないが、そもそも落語とは何かということを考えたときに、それを支える顧客がなければ芸自体が成立しない。落語家のほうは商売だからあれこれ精進するが、客のほうはただ聴くだけというのが圧倒的で、噺を理解するためにあれこれ勉強しようなどと考える人は少数だろう。落語に限らず、どのような芸事も演るほうと聴くほう観るほうの息が合うということが不可欠なのだが、時代の流れのようなものとしてぼんやりしたものに向かっているような気がしてならない。しかも、人口という総枠が縮小方向に転じている。人の感性や知性に訴えるようなもので生活を立てていこうと思えば、宝探しをするような根気と集中力が以前にも増して強く要求されるようになっているのではないだろうか。既に伝説と化してしまった古典芸能はいくらもある。「古典」と呼ばれるようになることが伝説化の前兆であるということは確かだろう。

本日の演目
柳家花どん 「金明竹」
柳家喬太郎 「幇間腹」
柳家三三  「妾馬」
仲入り
柳家三三  「釜どろ」
柳家喬太郎 「錦の袈裟」

開演:19時
終演:21時15分
会場:川口総合文化センター 音楽ホール

今日の写真は「石炭あられ」だ。これは「さいたま推奨土産品」の金賞にも輝いたもので、今のところ鉄道博物館の売店でしか買うことができない。なかなかおいしい煎餅で、生地に竹炭を練り込むことで仕上がりが石炭のような外観になっている。味も上等だ。所謂ブランド煎餅のおかきのような味、といえば想像できるだろうか。

ブランド煎餅で思い出したのだが、以前の勤務先でよくある「伝説のトレーダー」のひとりと一緒に仕事をしていたことがある。「伝説」というくらいなのでたいへんな金持ちなのだが、この人はたいへんなケチでもある。当時の職場の近くに播磨屋本店という煎餅屋の東京本店があった。そこではほぼ全商品を試食することができるのだが、この人は時々そこの試食を昼飯代わりにしていたのである。煎餅を昼飯にするというのもすごいことだが、試食品で腹一杯にするというのもすごいではないか。たまにこの人と一緒に昼飯を食べに出ると、必ず割り勘になる。そんなことは当たり前だろうと思われるかもしれないが、私が長年働いている業界では先輩が後輩に奢るというのが当然なのである。事実、私は社会人になって最初の3年間は先輩社員と一緒に食事をして自分で払ったことは一度もない。逆に自分が30くらいになって以降は若い同僚と一緒に食事をするときは当たり前に彼等の分を払っていた。ただ、後になって知ったのだが、そういう習慣は特定の部門に限られていたようだ。しかし、その「伝説」氏はその部門の人である。先ほど「ケチ」と書いたが、正確を期すならば、生活の論理が常人とは少し違っているのであって世間一般の所謂「ケチ」とは違う。一緒に働いていた頃、氏はスピート違反で免許停止となった。このとき捕まった場所は第三京浜で、制限速度を120キロ超過していたそうだ。よくパトカーが追いついたと思ったが、前方で通せんぼのような形で待ち受けていたそうだ。私もたまに速度超過で捕まるが、ふと気がつくと後ろに付けられていて「前の車止まりなさい!」とマイクでやられる、というパターンだ。こういう捕まり方では「伝説」は作れないということなのだろう。尤も、「伝説」を作ろうとも思っていないが。