リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

感謝祭、何よりも感謝したいのは

2019年10月15日 | 日々の風の吹くまま
10月14日(月曜日)。☁☀。三連休の最終日は感謝祭。ヨーロッパ人によるカナダでの感謝祭の起源は本家アメリカのよりも古くて、探険家フロビシャーが1578年に現在のヌナヴートに無事に到着したことを船員たちと共に祝ったのが最初だそうな。ヨーロッパに古くからあった収穫を祝う習慣を踏襲したものだと言われていて、アメリカに渡った清教徒がアメリカで最初の「ヨーロッパ人による」感謝祭を祝ったのも同じ流れらしいけど、先住民たちはそれよりもずっと前から収穫を祝う宴会をやっていたわけで、近づく冬を生き延びるための食糧を確保したことを日ごろ感じていた「目に見えない大きな力」の恩恵として感謝する習慣は、形こそ違え地球上どこにでも昔からあったということだね。原始時代を生き延びた古代人は現代人よりもずっと濃い感謝の心を持っていたということかもしれない。

現代人の暮らしは便利になりすぎて、不便がないのが当たり前のようになっているせいか、感謝の気持が薄れているような感じがする。でも、それは何だかちょっとねえという気がするけど、もしかしたら、長い人生に良くも悪くもいろんな経験をしながら年を取ることで、辛かったこと、悲しかったことと対比して楽しかったこと、うれしかったことのありがたさが今さらながらわかって来るからかな。そして遠い古代の人たちはそこに「目に見えない大きな力」の導きを感じて、人智を超越したパワーへの畏怖と同時にそのパワーが与えてくれるものへの感謝の気持が芽生えたのかもしれない。たぶんその辺りから壮大な神話が生まれて来たんだろうと思うけど、古代の人たちの無限とも言える想像力と感性の豊かさがちょっと羨ましくもあるかな。

じゃあ、当たり前の便利を極めて来た現代をその恩恵に浴しながら生きているワタシにはどれだけ感謝すべきことがあるのか。71年も生きて来たら数え切れないくらいあるはずだけど、何よりもまずは「生きていること」。よく冗談半分に「半分死んで生まれたの」と言う通り、難産の末に仮死状態で生まれたワタシ。言うなれば人生の初っ端で「生きるか死ぬか」の岐路に立っていたワタシを「生きる」道に押し出して、後遺症と思われる障害も(たぶん)なくこの年まで生かしてくれた「目に見えない手」に感謝。人並みにいろんな紆余曲折があったけど、それぞれの岐路で選んだ道を後悔したことがないのは、「目に見えない手」が導く潮の流れに乗って来たからじゃないかと思う。

何だか運命論みたいだけど、人生が船のようなものだとすれば、潮風に吹かれて、潮路、潮合、潮目、潮時、満ち潮、引き潮、潮騒・・・。