『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

回想法

2021-05-31 06:20:00 | ノンジャンル
梅雨入り前の
寒暖差によるものか、
昨日からアレルギー症状がでており、
蕁麻疹の痒みやら
軽い喘息様セキがでている。

そしたら、
今朝方は体痛があったので
風邪気味のようでもある。

幸い、
今日がオフ日であることを
昨晩気が付いたので、
よかったなぁ・・・と、
安堵した。








今朝方、
同僚の先生から
「ピストルを持った男に
追いかけられて逃げる夢」
を見たという
メールがあったので、
簡単な解釈をして
返事した。

***

逃げる夢は、
落ちる夢と同じくらい
よく出てくるモチーフで、
人類共通に見るんです。

なので、
個々の置かれている状況によって、
解釈が違いますが、
ユング心理学的には、
意識の中心である「自我」が
無意識にある「影」から
脅かされている、
と見ることがあります。

影というのは、
個人が抑圧してきたもので、
無意識に追いやったものがあり、
自分的には認めたくない事、
否定してきた事などがあります。

それが追いかけてくる
ということは、
今ここで、そろそろ
「その事」と向き合わねばならない、
という事でもあり、
「発達課題」ともとらえる事ができます。

「殺される恐怖」
「生き延びたい本能」
という情動的に深い事なので、
「自分の死」について考えた事があるか…
という、形而上的な問いかけかもしれません。

「近親者の死」があったりすると、
それを契機に、
「おまえは自分の死をどう考えて、
今の生に位置づけているのか」
という普段は考えもしないような事が、
無意識の深層から
夢というドラマ仕立てで
問われるのです。

40台は
人生の折り返し期でもありますが、
ユングは、
山の頂上からの
「人生後半への下り道」に
さしかかった時期でもある、
と言っています。

その着地点は「死」なので、
よく試験の夢を見るというのも、
「本番」に備えているか、
という模擬試験なんだといいます。

中年期には、
「ミッドエイジ・クライシス(中年の危機)」
というのが訪れるものです。

多くは、我が身に降りかかってくる
「不幸」のたぐいですが、
ただし、それすらも、
「本番」に備えているかという
深層意識の中心である「自己(セルフ)」が
表装意識の「自我(エゴ)」に
備えさせるための恩寵的な
アレンジメント(差し向け)なのです。

中年期は、
思春期の揺れに似た事を
体験するもので、
これを「思秋期」と
呼ぶこともあります。

釈尊の説いた四苦八苦のうちの
四苦である「生病老死」は、
人生後半は誰しも
これと向き合わねばならないものなのです。

しかし、現代人は、
目先の仕事やら家庭やら
スマホやらにかかり切りで、
それらの形而下的なことに
腐心することで、
形而上的な「発達課題」から
目をそらそうとしているのです。

そうすると、ますます、
得たいの知れぬ不安に
とらわれるのですね。

それが、現象界に実体化して
現れたのが「コロナ・ウイルス」なのかもしれません。

まさに、我々に
「生病老死」の課題を
突き付けているわけですから。







昨日、
大学の同級生との
コメントのやり取りで
「回想法」というのが出たので、
それについての論文を
いくつか読んでみた。

心理師の国試でも
出題されたので
受験勉強で
いちおうは内容を
理解はしていた。


英語では「reminiscence/life review」
と言い、1963 年にアメリカの精神科医
バトラーによって
提唱された心理療法である。

現在は、認知症の進行予防や
リハビリのツールとして
介護現場で実践されている。

脳を活性化することで
いくつかの効果が認められる。

•心理的問題の解決
•人生に対する満足度や肯定感の向上
•自尊心の向上
•抑うつ感の改善
•死に対する不安の軽減
•対人交流の促進

ADL(Activities of Daily Living)
という「日常生活動作」である
食事・排せつ・入浴・移動・寝起き
などは、10歳~15歳の記憶が鮮明なら、
その能力が維持できるという。

また、回想量が多く
ネガティブな回想の頻度が
高い人ほど抑うつ傾向が高く、
人生に対する満足度が低い、

そして、効果が認められないケースでは
幼少時のつらい体験を強調することが多い。





レミニッセンス
【reminiscence】の訳語には
追憶、思い出、懐旧談、回想録
というのもある。

また、
心理学では、
「想起改善」
「潜在的記憶」
を意味し、
記憶した事柄が
ある程度時間を経ると
かえって明確に想起される
という現象をさす。

回想法では、
単にレトロスペクティブに
過去を偲ぶだけではなく、
過去視点から
“今”の自分を見直す
という効用もある。

過去に遡ることで
違う“今”を描くことが
できるのである。

そうすると、
“今”抱いているニーズが
変わって見えてくる事もある。

過去を顧みるとは、
“今”を見据えて行っている
作業でもあるのである。










人生は
これまで体験してきた事を
縦糸・横糸として織り上げた
一枚の織物ともいえる。

その織り目には
喜怒哀楽さまざまな思いが
織り込まれている。

そして、この織物は
この世にふたつと
同じ物はない。

加齢と共に
様々な機能低下を見るのは
辛い事でもあるが、
認知症や記憶障害でなければ、
これまで織り上げてきた
世界に一つだけのこの柄を
愛でて、慈しむのも
老人の特権のような気がする。

そこには、
出来事があり、
出会った人々がいて、
懐かしい場所や景色がある。

琴線が鳴った音楽、
忘れがたい味、
輝かしい瞬間・・・
などなど。











親しい知人たちと
テーブルを囲んだ折などに、
よく「昭和あるある」で
盛り上がることがある。

これも回想法なのだろう。

【昭和は遠くになりにけり】
という
感慨を抱く昨今だが、
コロナ禍で出口が見えず
不安に怯える若年層には気の毒だが、
「昭和生まれ」は
「古き良き時代」を生きてきたので
それを回想し味わうことができる。

物がなかった時代から
物に溢れる時代に至るまで
逐一体験してきたのである。

仏語には、
ベル・エポック(Belle Époque)
「良き時代」という言葉がある。

最近、妙に
昭和の子どもの頃が偲ばれるのは、
家の片付をしていて、
懐かしい文具や玩具などが
出てきたことにも
触発されているのかもしれない。

昭和のニュース映像やポスター、
『小学校の文集』
ノート・鉛筆・消しゴム・・・
などなどを手に取ると
どうしても意気軒昂な
少年時代を思い出す。

それらのモノを切っ掛けに、
自分の10代を思い出す
というのは高齢者には
大事な心的作業(サイキック・ワーク)
なのである。

羽釜・おひつ・一升ます・
かつお節削り器などの台所用品が
かつてはどの家庭にもあった。

今はワンタッチ・ボタンで
保温までできる
便利な炊飯器があるが、
でも、そこからは
何の『物語』も立ち上がってはこない。




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