新年度が始まったが、
新学期の業務はまだ
2週間後ぐらいなので、
自宅でまったり暮らしている。
勉強や執筆の合間には、
映画と読書と料理を
楽しんでいる。

これは男ばかりの
不思議なテイストであった。
瑛太は、どうしても
『のだめ』の竜ちゃんの
イメージが強い。
『おひさま』で善良な夫役の
高良健吾が悪役で出てきたのが
意外性があった。
松田優作の息子は
親父ほどカリスマ性がない。

ゲオの新作WWⅡものを
借りてきたが、
地味な作りでいささか
物足りなかった。
それでも、
『シン・レッドライン』のような
火線の描写は
なかなか見せてくれた。

これもWWⅡの収容所ものだが、
監督の作為が出すぎて、
啓蒙映画だと自ら出演しているものの、
陳腐でお粗末な作品だった。
********
人生随談
先生 良寛の辞世の歌がいいんですよ。
うらをみせ
おもてをみせて
ちるもみじ
かたみとて
なにかのこさむ
はるははな
やまほととぎす
あきはもみじは
ちるさくら
のこるさくらも
ちるさくら
奈保子 「裏を見せ、表を見せて」というのは、全人的に生きる、ということでしょうか。
先生 うん。聖も俗も生きるということかな。さらに敷衍して、ユング的に言えば、意識も無意識もひっくるめて自己実現の道を歩む、個性化の過程を歩む、ということでしょうね。
奈保子 女性でも、劣等機能である男性性を生かしていく、ということですね。
先生 そうだね。それに、子どもの心も老人の心も生かしていく。
奈保子 児童元型や老賢者を体現するということですね。
先生 そう。まさに、全人的に生きるということです。狐狸庵先生は、人生と生活は違って、それは車の両輪の如しだ、と言いましたね。
奈保子 はい。以前、講義で伺いました。「いかに生きていくか」という側面と「実際に生きていく」という側面のバランスが大切なんですね。
先生 そう。換言すれば、形而上的なものと形而下的なものとも言えるね。
学問や芸術や宗教、哲学ということだけ追い求めても所詮、車の方輪でしかなくて、この世にはもう片側もあるということです。
奈保子 「裏を見せ、表を見せて、散るもみじ」には、それと「もののあはれ」のような美意識が感じられますね。
先生 動的な自然描写にもなっているでしょ。まさしく、秀句ですよね。
奈保子 良寛様の生き様が句に現れています。
先生 「形見とて…」は、清貧の僧らしく、形而下的な財や物質は何もない「本来無一物」そのものでしたから、残せるのは「春は花、夏はホトトギス、秋はもみじ葉」といった我が愛する自然を遺していきます、といういたってスケールが大きい句なんですね。
奈保子 そうですね。我と自然が一体化していたからこそ、自分の分身ですよ、ということなのかもしれませんね。
先生 そうだね。この辞世の句は、恋していた貞心へ遺すことを意識していたんですよ。事実、彼女が後世に伝えていますからね。
私が死んでも、悲しまなくともいいよ。春には花に、夏にはホトトギスに、秋には紅葉に、私は姿を変えて、あなたの前にいるのだから、と言いたかったのかもしれませんね。
奈保子 それは、残される女性にとっては、すごくロマンティックな別れの言葉ですね。
先生 なんだか、『千の風になって』みたいですけどね(笑)。
奈保子 ここにも、本来の日本人の心性としての、自然に抱かれ溶け込むことによる安心立命の境地というのが現れていますね。
先生 その通りですね。良寛は、そんなことは一言も言っていないけど、なんだか、現代の文明批判にもなっているし、豊かなものに囲まれていながら不安や殺伐たる気分にまとわり憑かれている現代人への処方箋をも示しているようじゃないですか。
奈保子 そう思います。
先生 夏目漱石もロンドンに留学したときに、当時の文明の発達と人心の孤独感を察知して、帰国後の小説を通して、日本の行く末を暗示していましたが、『門』とかで宗教性に触れながらも、結局は具体的な処方箋を見出せずに、自身も神経衰弱と胃病を患って早死にするでしょ。
奈保子 そうですね。良寛さんの老成して達観した自然死とは違う、壮年期の途中死のようでもありますね。
先生 そう。まさしく、インテリの死、という感じですね。
新学期の業務はまだ
2週間後ぐらいなので、
自宅でまったり暮らしている。
勉強や執筆の合間には、
映画と読書と料理を
楽しんでいる。

これは男ばかりの
不思議なテイストであった。
瑛太は、どうしても
『のだめ』の竜ちゃんの
イメージが強い。
『おひさま』で善良な夫役の
高良健吾が悪役で出てきたのが
意外性があった。
松田優作の息子は
親父ほどカリスマ性がない。

ゲオの新作WWⅡものを
借りてきたが、
地味な作りでいささか
物足りなかった。
それでも、
『シン・レッドライン』のような
火線の描写は
なかなか見せてくれた。

これもWWⅡの収容所ものだが、
監督の作為が出すぎて、
啓蒙映画だと自ら出演しているものの、
陳腐でお粗末な作品だった。
********
人生随談
先生 良寛の辞世の歌がいいんですよ。
うらをみせ
おもてをみせて
ちるもみじ
かたみとて
なにかのこさむ
はるははな
やまほととぎす
あきはもみじは
ちるさくら
のこるさくらも
ちるさくら
奈保子 「裏を見せ、表を見せて」というのは、全人的に生きる、ということでしょうか。
先生 うん。聖も俗も生きるということかな。さらに敷衍して、ユング的に言えば、意識も無意識もひっくるめて自己実現の道を歩む、個性化の過程を歩む、ということでしょうね。
奈保子 女性でも、劣等機能である男性性を生かしていく、ということですね。
先生 そうだね。それに、子どもの心も老人の心も生かしていく。
奈保子 児童元型や老賢者を体現するということですね。
先生 そう。まさに、全人的に生きるということです。狐狸庵先生は、人生と生活は違って、それは車の両輪の如しだ、と言いましたね。
奈保子 はい。以前、講義で伺いました。「いかに生きていくか」という側面と「実際に生きていく」という側面のバランスが大切なんですね。
先生 そう。換言すれば、形而上的なものと形而下的なものとも言えるね。
学問や芸術や宗教、哲学ということだけ追い求めても所詮、車の方輪でしかなくて、この世にはもう片側もあるということです。
奈保子 「裏を見せ、表を見せて、散るもみじ」には、それと「もののあはれ」のような美意識が感じられますね。
先生 動的な自然描写にもなっているでしょ。まさしく、秀句ですよね。
奈保子 良寛様の生き様が句に現れています。
先生 「形見とて…」は、清貧の僧らしく、形而下的な財や物質は何もない「本来無一物」そのものでしたから、残せるのは「春は花、夏はホトトギス、秋はもみじ葉」といった我が愛する自然を遺していきます、といういたってスケールが大きい句なんですね。
奈保子 そうですね。我と自然が一体化していたからこそ、自分の分身ですよ、ということなのかもしれませんね。
先生 そうだね。この辞世の句は、恋していた貞心へ遺すことを意識していたんですよ。事実、彼女が後世に伝えていますからね。
私が死んでも、悲しまなくともいいよ。春には花に、夏にはホトトギスに、秋には紅葉に、私は姿を変えて、あなたの前にいるのだから、と言いたかったのかもしれませんね。
奈保子 それは、残される女性にとっては、すごくロマンティックな別れの言葉ですね。
先生 なんだか、『千の風になって』みたいですけどね(笑)。
奈保子 ここにも、本来の日本人の心性としての、自然に抱かれ溶け込むことによる安心立命の境地というのが現れていますね。
先生 その通りですね。良寛は、そんなことは一言も言っていないけど、なんだか、現代の文明批判にもなっているし、豊かなものに囲まれていながら不安や殺伐たる気分にまとわり憑かれている現代人への処方箋をも示しているようじゃないですか。
奈保子 そう思います。
先生 夏目漱石もロンドンに留学したときに、当時の文明の発達と人心の孤独感を察知して、帰国後の小説を通して、日本の行く末を暗示していましたが、『門』とかで宗教性に触れながらも、結局は具体的な処方箋を見出せずに、自身も神経衰弱と胃病を患って早死にするでしょ。
奈保子 そうですね。良寛さんの老成して達観した自然死とは違う、壮年期の途中死のようでもありますね。
先生 そう。まさしく、インテリの死、という感じですね。