『3.11』から
14年目の朝である。
忘れもしない…。
あの日。
お昼過ぎの2時46分。
大地は揺れ、海は荒れ狂った。
2万2千もの方々が犠牲になられた。
*
あの日。
自分は、たしか、馴染みのフレンチで
お昼を頂いた後、フミに借りた
中古の『シーマ』を駆って
意気揚々と家に引き上げた。
途中、近所の大型文具店に寄って
品定めをしていた時だった。
急に、カタカタ言い出して、
その後、突然にガタガタ鳴り出し、
これは、尋常ではないと他客もろ共
外に飛び出した。
まだ、ケータイを
所有してなかった頃なので、
それを開いていた青年に
「震度6くらい?」
と尋ねたら、コクンと頷いた。
そうしてる間にも
足元はぐらついている。
かなり長い…。
大きな波のような揺れが
またグワンとぶり返してくると、
恐怖感がジワリと湧いてきた。
目の前の国道4号線では
車が全部路上に停車し、
中には、車から降りて抱き合って
悲鳴をあげている女性たちもいた。
目の前の電柱が
まるで、メトロノームのように
左右にブンブン触れている。
まだ、収まらない…。
長いこと、揺れたまんまである。
そして、またまた、
グオーンと大きな揺れがきた。
「死」を予感した。
こうやって、人類が滅亡するのか…
とも、脳裏に浮かんだ。
思わず、合掌して
「天地金乃神様。
どうぞ、この揺れを収めてください」
と、必死に、
金光教の主神に祈った。
み教えの中核にある、
【死んでもままよ】
なぞとはならなかった…。
3分ほどで、揺れは
小康状態になってくれた。
それでも、数分ごとに
震度4、5クラスの余震が
頻繁に襲ってくるから、
地球がぶっ壊れたのか…と、
思うほどだった。
事実、
地殻の三連動「崩落」だった。
どうにか、家に戻ると、
倒壊もせずに建っていたので
安心するも、施錠していなかった
二階の窓が全部開いていたのが
衝撃的だった。
書棚のある書斎は
壊滅的な有様だった。
机上のパソコン、モニターともに
数メートル先の床まで
吹っ飛ばされており、
小型テレビも落下していた。
床の上は一面の本で埋められ、
階段の踊り場の書棚からは
本が滝のように流れて
階下まで埋め尽くされていた。
部屋という部屋が
壊滅的な状態だった。
箪笥も倒れ、
家中で立っていたものは
すべてがひっくり返っていた。
家には、たまたま、
春休みで帰っていた大学生のフミと
やや認知症気味の老母が
二人とも無事で幸いだった。
からくも、地区的には
停電を免れたので、
すぐにテレビの中継を見た。
そしたら、真っ先に
眼に飛び込んできたのが、
ヘリからの津波映像だった。
そっか…。
中通り地方は内陸だから、
考えもしていなかったが、
浜通りの臨海部は
津波が直撃したんだ…と、
はじめて気づいた。
宮城上空から
ライヴ中継をしている映像には、
黒々としたビロードのような水の塊が
ありとあらゆるものを呑み込み、
諸々の粉砕物と共に
田地田畑を舐めていた。
思わず、テレビの前で
立ち尽くしていたフミに向かって
「これは、リアルなんだぞ…
映画じゃないんだ…」
と、呟いていた。
津波に追われて
逃げ惑う車もあり、
その運転者の恐怖が伝わってきて
こちらの動悸も激しくなった。
後日、津波は
海岸から2㎞ある国道6号まで
到達したという。
その巨大さは、
『松川浦』の海をまたいで陸と陸をつなぐ
松川大橋のおなかスレスレの高さがあり、
15m以上はゆうに超えていたろう。
三陸のリアス式海岸で
最高到達点を記録したのは、
山火事になった
岩手県大船渡市綾里(りょうり)地区
の最大遡上高 約40.1メートルである。
これは、ビルの13階に相当し、
電柱4本分の高さである。
波には、
干渉や合成という性質があるので、
波どうしが合わさる事により、
単一の波の倍の高さになることもある。
**
3月11日の外は、
まだ、風花が舞うような
寒さだったので、
室内には暖房が要ったが、
ファンヒーターは転倒の危険があるから
消していた。
すると、老母が寒がって
すぐさま、スイッチを入れるから、
余震の事を言い含めても
認知できてなさそうなので、
「入れる/切る」の攻防戦が
しばらくあった。
フミも自分も、
ジャンパーを着て、
巨大余震には
すぐさま家から出れるような
臨戦態勢が続いた。
その日だけでも、
余震が二百回以上あったと
後で知ることになる。
幸いにして、電気は来ていたが、
水はパッタリ出なくなった。
すると、水洗トイレは
困ってしまう。
風呂の残り湯をバケツに汲んでは
一々、流すようにしたが、
それも、限度があり、
数日後には、近所の用水路から
自家製手押し車を作って運搬した。
飲料水は、すぐに、
近所の公民館に給水車が来てくれたが、
並んで配給を受けるのも楽ではない。
その晩、何を食べたか、
定かではないが、
スーパーもコンビニも
店内が壊滅状態で
クローズしているので
冷蔵庫の残り物とツナ缶くらいを
食したように思う。
ただし、水が出ないので、
カミさんが、全ての皿に
ラップを被せていた。
幸いにも、停電がなかったから、
テレビも見れ、エアコンも使え、
パソコンのネットも見る事ができた。
メールやブログのコメント欄には
教え子たちからの心配と
お見舞いが沢山寄せられ、
勇気づけられた。
*
その晩は、何十回もの大きな余震で
朝方までまんじりともせず過ごした。
翌朝は、揺れる中でも
いくらか冷静さを取り戻しつつ、
何かしらの朝食を摂り
遅配の朝刊に目をやると
一面に「M9.0の巨大地震」とあった。
赤々と火の手のあがる街、
津波で壊滅した街…
この世の地獄のような風景が
戦時下でもない平時下に起こった事を
痛感せしめた。
上空には自衛隊機のヘリが
バラバラと飛び交い、
道路にも国防職や
迷彩色の自衛隊車が
続々と入ってきた。
まるで、戒厳令でも
発せられたような…
まるで、ゴジラが
上陸でもしてきたような…。
それは、非日常的な
光景であった。
*
3月12日15時36分、
テレビ画面で、原発1号機が
水素爆発を起こして
煙をあげたのを視た。
その光景は、
まるで、原爆が落ちたのを
目撃したような衝撃で、
背筋がゾッとした。
浜から離れているとはいえ、
直線距離で60㎞ほどである。
放射能が拡散される…。
建設時の想定では、
海側に向かって4風が吹くだろう
という楽観視があったと聞いた。
本来、高台に作るはずだったのが、
何処かの誰かの横槍で
15m以上の津波なぞ来ないだろうから…
と臨海の平地に建設された。
どちらも、その想定が外れて、
陸側に向かって風は吹き、
放射性物質は浜通り、仲通りを
縦断して東京の貯水所を汚染し、
それは静岡の茶畑まで汚染した。
13日には、
戸外の放射線量が
25μ㏜/h
(マイクロシーベルト毎時)
になった。
レントゲン撮影の1回が
50μ㏜なので、二時間外にいると
同量を被爆することになる。
というので、
政府からの屋内退避「命令」が出た。
外に出るに出られない
状態なのである。
もし、それが続けば、
餓死に陥る危惧もあった。
その後…立て続けに…
14日11時1分、3号機爆発。
15日6時14分頃、4号機爆発。
当時、中3だったナッちゃんは
「あぁ…。もう、終わった…」
と、嘆息し、なかば、
狂ったように笑い出した…。
さも、ありなん。
笑いたくもなるし…。
狂ったほうがマシだった…。
その時の
リアルタイムのブログは、
『goo』の過去ログに未だある。
https://blog.goo.ne.jp/liqbeau2020/e/e2b8be5c08e3870f09af86343c6578b3
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