先週の横浜での
「百回茶事」に
正客としての
お招きに対する礼状を
出そうと思っていたら、
先に、庵主から礼状が届いてしまった。
茶事に招かれた場合は、
正式には前礼として
前日に訪問し礼を述べ、
後礼として、また
茶事後に訪問して礼をするのを
正式としているが、
忙しい現代では、
しだいにそれは簡略化されている
ようである。
でも、礼状は怠るべからず
礼式ではある。

「百回茶事」の〆に相応しく、
古風にも巻紙に毛筆で
季節の歌から始まり、
実直な礼文が認められていた。

楷書体で打ち出した
「茶会記」は細々と
懐石の献立から
香の銘に至るまで
記されている。
かつては、
自分も茶事を催すたびに、
こういう会記を作っていたが、
彼がそれをきちんと
引き継いでくれて
百回も続けたということに
感服するばかりである。
さっそく、
返礼を認め
投函した。
年末に学会で
青森に来るというので、
また、再会の機会があるやもしれぬ。
その時は、
前回同様に、
多可橋の懐石と茶で
持て成そうと思う。

未だ長旅の疲れが残っているのか、
寒気のせいで布団が冷えているせいか、
どうも、熟睡感がなく
夢ばかり見ている。
ユンギャンで
夢分析の専門家なので、
時折は、夢を記録して、
現状の問題点への打開案を
無意識からのメッセージに探ろうと
自らも分析している。
京都で教育分析を受けていた
4年間には、毎日、夢日記を付けて
分析家の先生と一緒に
それを心理分析の素材としていた。
この教育分析を全く受けていない
心理カウンセラーが沢山いるが、
自分の無意識や心理構造に
メスを入れずして、
どうして人の心が解るだろうかと
危なかしく感じている。
医師の基礎学習に解剖学があるのは、
実際に人間の体と向き合ってみて、
それを腑分けし、切り刻んでいくことで、
はじめて教科書では得られない
3D的な構造を知覚・体得できるのである。
然すれば、
目の前に老若男女、
または外人異人の類が座れども、
その体の構造が手に取るように
解るというものである。
これと同様のことが、
心理臨床家に於ける、
自己分析の必要性なのである。
人には人種差、文化差、生育歴差に
依存しない基礎的な気質、心性がある。
それを自分の心を
いわば解剖体の心臓と同じく見て、
メスを入れて、どこがどうなっているのか
痛みを伴いながらも
自己了解しながら腑分けし
切り刻んでいくのである。
この表層意識の陰、奥には、
こんな欲動や自己保存欲が
潜んでいるとか、
誰かを殺して亡き者にしたい、
という謀殺願望があるとか・・・
「シャドウ」と言われる部位にも
無影灯で照らし出しメスを入れるのである。
そうすると、
脳溢血で倒れ歩行障害が出て
リハビリさせられている病老母なぞ、
世間的にはお気の毒な「お年寄り」で、
ご身内は、さぞかし大変でしょうね、
と世間的な同情をしてくれるのだが、
カミさんやオバさんらには
「ほんまに、あん時、
死んどいてくれたら・・・と思ったわ」
とか、
「我がままで、介護していて
イライラして、首締めたろか、って思ったわ」
と笑いもって話せるのである。
そういうシャドウや「心の鬼」を
言語化できない真面目な家族が
熱心に介護しているうちに過労で
精神的な視野狭窄に陥って
身内に手をかけるということが
頻出している。
「百回茶事」に
正客としての
お招きに対する礼状を
出そうと思っていたら、
先に、庵主から礼状が届いてしまった。
茶事に招かれた場合は、
正式には前礼として
前日に訪問し礼を述べ、
後礼として、また
茶事後に訪問して礼をするのを
正式としているが、
忙しい現代では、
しだいにそれは簡略化されている
ようである。
でも、礼状は怠るべからず
礼式ではある。

「百回茶事」の〆に相応しく、
古風にも巻紙に毛筆で
季節の歌から始まり、
実直な礼文が認められていた。

楷書体で打ち出した
「茶会記」は細々と
懐石の献立から
香の銘に至るまで
記されている。
かつては、
自分も茶事を催すたびに、
こういう会記を作っていたが、
彼がそれをきちんと
引き継いでくれて
百回も続けたということに
感服するばかりである。
さっそく、
返礼を認め
投函した。
年末に学会で
青森に来るというので、
また、再会の機会があるやもしれぬ。
その時は、
前回同様に、
多可橋の懐石と茶で
持て成そうと思う。

未だ長旅の疲れが残っているのか、
寒気のせいで布団が冷えているせいか、
どうも、熟睡感がなく
夢ばかり見ている。
ユンギャンで
夢分析の専門家なので、
時折は、夢を記録して、
現状の問題点への打開案を
無意識からのメッセージに探ろうと
自らも分析している。
京都で教育分析を受けていた
4年間には、毎日、夢日記を付けて
分析家の先生と一緒に
それを心理分析の素材としていた。
この教育分析を全く受けていない
心理カウンセラーが沢山いるが、
自分の無意識や心理構造に
メスを入れずして、
どうして人の心が解るだろうかと
危なかしく感じている。
医師の基礎学習に解剖学があるのは、
実際に人間の体と向き合ってみて、
それを腑分けし、切り刻んでいくことで、
はじめて教科書では得られない
3D的な構造を知覚・体得できるのである。
然すれば、
目の前に老若男女、
または外人異人の類が座れども、
その体の構造が手に取るように
解るというものである。
これと同様のことが、
心理臨床家に於ける、
自己分析の必要性なのである。
人には人種差、文化差、生育歴差に
依存しない基礎的な気質、心性がある。
それを自分の心を
いわば解剖体の心臓と同じく見て、
メスを入れて、どこがどうなっているのか
痛みを伴いながらも
自己了解しながら腑分けし
切り刻んでいくのである。
この表層意識の陰、奥には、
こんな欲動や自己保存欲が
潜んでいるとか、
誰かを殺して亡き者にしたい、
という謀殺願望があるとか・・・
「シャドウ」と言われる部位にも
無影灯で照らし出しメスを入れるのである。
そうすると、
脳溢血で倒れ歩行障害が出て
リハビリさせられている病老母なぞ、
世間的にはお気の毒な「お年寄り」で、
ご身内は、さぞかし大変でしょうね、
と世間的な同情をしてくれるのだが、
カミさんやオバさんらには
「ほんまに、あん時、
死んどいてくれたら・・・と思ったわ」
とか、
「我がままで、介護していて
イライラして、首締めたろか、って思ったわ」
と笑いもって話せるのである。
そういうシャドウや「心の鬼」を
言語化できない真面目な家族が
熱心に介護しているうちに過労で
精神的な視野狭窄に陥って
身内に手をかけるということが
頻出している。