『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

傑作・韓流シネマ

2021-01-11 07:46:00 | 映画
録画してあった
『半地下の家族』を観た。

2019のカンヌでの
パルム・ドール受賞作であり、
アカデミー賞も4部門を受賞した。

2.5時間という
長尺物だったが、
前半の詐欺家族の巧妙な
化けぶりに笑わされ、
一転、後半からエンディングまでは
大ドンデン返し・・・と、
ジェットコースター的な
面白さがあった。

韓流ドラマは
『冬ソナ』を皮切りに
歴史物なども
諸々を観てきたので、
登場人物名や
その演技ぶりには馴染みがあり、
達者な演技も十分に楽しめた。




凄惨な結末ではあったが、
途中の若い二人の
仄かなラブストーリーは
なかなか韓流ならではの
胸キュン演出だった。

それを演じたのが、
『奇皇后』(2013)で
主人公の少女時代を
演じていたのは気付かなかった。

吹き替えの山路和弘は
『刑事フォイル』の声で、
好きな神木隆之介も
声優として主役を演じていたのも
よかった。

***

物語を分析的に見るのは
いささか野暮でもあるが、
この「マーダー・ケース」の
異常性、深層心理は奈辺にあるのか
ついつい探ってみたくなる。

富裕層の象徴としての
豪奢なサイドボードと、
その真ん中にポッカリ空いた
虚空のような地下室への入り口は、
見事に象徴的な配置であった。
そこは、我々の
ダークサイドへの通路でもあり、
そこからは少年が目撃したような
「オバケ」が現われもするのである(笑)。

三家族の「愛」が描かれていたが、
それぞれの家族が有する
真善美聖に反する
偽悪醜邪に拠る「綻び」が、
減衰振動の反対現象の
増幅振動し、やがて共振を起こし、
カタストロフィを招来する。

詐欺家族では
長女が犠牲となり、
富裕層家族では
家長が犠牲になり、
元家政婦と秘密の地下暮らしの夫は
両方とも死んでしまう。

悲劇を招いたケースの
「偽悪醜邪」は、
「嘘」「隠匿」「秘密」
「格差」「蔑み」「憎しみ」
「シンプル」
などがキーワードに上がりそうだ。

そして、
なぜか『サクリファイス』という英語が
「犠牲」と「生贄」という
両方の意味で思い浮かんだ。

そう。

亡くなった者たちは、
偽悪醜邪の果ての犠牲者であり、
それらを司(つかさど)る
「魔物」の生贄のように
見えたのである。

悲劇の直接の発端は、
詐欺家族一家が
主人家の留守をいいことに
酒盛りで乱痴気騒ぎをしていた時に
策略で追い出した元家政婦が
尋ねてくることに始まる。

この時、
大雨でずぶ濡れだったことが
なんともシンボリックで
印象的なシーンであった。

それは、
単に嵐の前兆というだけでなく、
「水」や「雨」に象徴される
「無意識」の恐ろしい力が
「意識」による現実世界を
圧倒し、破壊する、ということである。

これからしばらく後には
詐欺家族たちの半地下の住居が
大洪水で呑み込まれる
というシーンが描かれる。

いくらかの酩酊と
エゴ・インフレーションにより、
元家政婦を家に入れてしまったのは、
「その時」の判断や行動を誤った、
いわゆる、「魔がさした」のである。

それは、
心の「間」「隙」に
文字通り「魔」が
侵入することでもある。

そして、
「命運」「運命」が狂うというように
「命」は濁流に「運ばれ」て、
意識の世界は翻弄され、
「死」へと陥落する
観血的悲劇を迎えるのである。

元家政婦の哀願するセリフの
「同業者じゃないですか・・・。
後生ですから…家に入れて下さい・・・」
というのは、
まるで、瓜子姫をさらう
天邪鬼の甘言のようにも聞こえた。

むかし、狐狸庵先生のテキストで
さんざん悪魔について勉強したが、
その折、『エクソシスト』のような
脅かす悪魔は低級で、
ほんとの悪魔は「いないように振る舞い」
なおかつ「人の心地よさに付けこむ」
とあった。

家の施錠を解き、
「境界」の一線を
超えさせたことが、
すべての悲劇の始まりであった。

これが夢分析ならば、
「家」=「自我」「意識の世界」
「超えて侵入するもの」=「シャドウ」
(不幸をもたらす破壊的な無意識の元型)
とセラピストは解釈する。

なので、
「境界を越えないのが大事」
というセリフが、度々
犠牲者の社長が言っていたのは
後になって了解できる。

しかし、
人間関係の境界は守られても、
「臭い」というものは
致し方なく、その境界を
侵襲的に超えてくる。

この物語では、
「臭い」が「格差」「憎しみ」の
メタファーにもなっていた。

そして、それは、
そのまま衝動的な
殺人の動機にさえなったのである。

原題の『寄生虫/Parasite』と
邦題の『半地下の家族』という言葉から、
我われの意識的な自我を
時に操り翻弄し、破滅へと導くこともある
無意識下の元型である「影(シャドウ)」は
誰もが抱えており、
それに対して無自覚すぎると、
かの物語のような悲劇を体験する
・・・という、
現代の箴言のような作品のようにも
心理臨床家には思えた。

衝動殺人をした父に
「寄生」していた「影」とは、
世の不条理や理不尽に翻弄され
なにを商売しても上手くいかない人生と、
一方で、とんとん拍子で事業を成功させている
富裕層社長に対する、また、運命の神に対する、
筆舌に尽くせない葛藤・不満・憤りが
最後に「鬼化」して刃を向けてしまう。

これは、モヤモヤを言語化できず、
自傷他害の行動化(アクト・アウト)する
典型でもある。

流行りの『鬼滅の刃』に倣えば、
我われは、「鬼化」して
人に刃を向けるのではなく、
こころの「鬼」を滅するための
刃を己れ自身に向けねばならないのである。

トランプが煽って
死者まで出した
議事堂占拠事件なぞを観るにつけても
その思いを強くしている。

映画『パラサイト』では、
4人もの殺戮が行われた
凄惨な物語の結末は、
再度、地下に潜入し
息をひそめて生息する父(殺人犯)と
その父の存在の秘密に気付いた
息子(執行猶予中)との
「希望」の灯かりだった。

それは、まるで、
「パンドラの箱」が開いて、
世界に大いなる悲劇と不幸が
飛び出た後、
最後に残ったのが「希望」である、
という神話的元型に酷似していた。

とすれば、
現コロナ禍も
人類の偽悪醜邪に拠るものが
招来したものとすれば、
塗炭の苦しみを味わった後、
「希望」は失われず
其処に在る、ということを
信ずることが、其れもまた、
"希望"なのであろうか。

自らも
ナチの強制収容所の虜囚で、
終戦解放後に
名著『夜と霧』を著した
ヴィクトール・フランクルは、
独自の「実存分析」を唱え、
「希望」や「生き甲斐」こそが、
人を人たらしめて
生かしているものである、
と言っている。








皆川達夫先生の
古いテキストに基づいて、
そのご推薦のルネッサンス期のCDを
ヤフオクやアマゾンで
こつこつと蒐集している。

ルネッサンス初期の
声楽アンサンブルは、
グレゴリオ聖歌を基にしたものが多く、
女性合唱での清澄で深淵な響きは
修道士たちの斉唱とは違った
天国的なスピリチュアリティが感じられ、
こころの中に暗雲が垂れ込みがちな
コロナ禍の今、
一服の清涼剤や安定剤のような
癒しを与えてくれている。





R先生から頂いたお菓子籠に
「牛さん」マシュマロがあり、
可愛いので、よっぽど、
飾りものにしようか迷ったが、
でも食べ物なので、
エーイ! と、
干支を口中に放り込んだ(笑)。

なぜだか、
子どもたちが
幼い頃に流行った
♩『モウモウ・フラダンス』♩
のメロディーと画面が
脳裏に浮かんだ(笑)。





今朝のアサちんに、
すこしばかり
妖艶な表情を視た(笑)。

彼女は、
創作モチベーションを与えくれる
「美」のモチーフでもあり、
アニマであり、女神であり、
スピリチュアル・マドンナでもある。


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世が世なら「次女」?

2021-01-10 09:06:00 | 頂きもの
コロナ関連記事で、
真冬の寒さと乾燥は
粘膜を刺激し
抵抗力が低下していると
風邪や肺炎の温床になる…と、
iPSの山中先生が
朝刊で言っていた。

たしかに、
ここ数年、毎冬ごとに、
風邪の長患いやら
気管支炎の長患いを
経験している。

今も、
冬休み前から
風邪を患い、
楽しみにしていた
クリスマス・コンサートでの
生徒たちとの筝曲合奏を
ドテキャンし、
以後、体調不良と回復を
今日に至るまで繰り返している。

コロナに罹っていないだけ
幸いなのだろうが…。

この長引く風邪模様や
オシリの鈍痛なぞは、
あるいは、
自分の行動範囲を狭めたり
活動意欲を低下させてくれて、
コロナ罹患の確率を下げるのに
寄与している無意識下の
セルフ・アレンジメントかもしれない、
と思ったりもしている。

心身症的症状には、
そのような
目的論的な発症機構も
あるのである。




きのうは
朝一で鍼治療に出かけたが、
戸外は-5℃で、
車内は-4℃を示していた。

フロントガラスに氷結した
雪を掻き落とすにも
戸外にあったプラ・スコップの柄が
氷の棒のように冷たく
素手で握ってるのは
30秒が限界だった。

きのうは、
岩手でも-24℃を記録した
というので驚いた。

いちど、
教員時代のスキー訓練合宿で、
万座温泉のゲレンデで
-17℃という極寒を経験したが、
あまりの寒さに生徒たちの唇が
紫色になり、動きも緩慢になって
日中の訓練を中止したことがあった。

北海道の極寒地でよくやる
濡れタオルを
ブンブン振り回してみたら
ウソみたいにカッチンカッチンの
棒状になって
驚いたことがある。

この寒さで、
筋肉も縮こまってるのか、
鍼治療でも
いつもより入りにくい
と施術者が言っていた。

冬に神経痛がわるくなり、
温泉療治にいくと善くなる
といったのは、
なるほど、こういうワケか…
と体験者として納得がいった。





新年の初分析に来られた
R先生から
お菓子籠を頂戴した。

いつもなら、
お茶を差し上げる処だが、
風邪気味でダルイと、
茶人と称しながらも、
香を炊く、湯を沸かす、
茶を振るう、茶巾をセットする、
主菓子を拵える…という
一連のルーティンさえ
億劫になってしまう。

「体(たい)の丈夫を願え。
 体を作れ。
 何事も、体が元なり」
という
「祈り」の詞(ことば)が
『食後訓』としてあるが、
勤務中は弁当のあとに
唱えていた。

冬休み中の"ぼっちランチ"では
ダンマリだったので、
今日からまた
「願い」「祈り」「暗示」
として唱えようと思う。

詞/言葉には、
スピリチュアルなパワーがあり、
言霊(ことだま)や呪文が
それを証明している。

それと、
仕事や夢中になることが、
カラダの免疫機能を高めたり、
自律神経の不調を
回復させてくれる事があり、
「安静」か「リハビリ」か…
の見極めと選択も
自己診断のキー・ポイントである。




『落ち目の祈り』(笑)
・・・もとい
『乙女の祈り』を
弾いてみた。

高校時代に買った楽譜が
いまだに楽譜庫に保管してあったから、
いつか弾くかもしれないと
その頃に思ってたのだろう。

それが、まさか、
45年後に取り出して
やってみるとは、
夢にも思っていなかったろう。

日本では、
オルゴールのメロディとして
お馴染みである。

いちおう、
曲としては整っており、
似た音型の繰り返しが多く、
いかにもオルゴール向きの
甘美なメロディである。

調べてみると、
作曲者のバダジェフスカが
1856年の18歳頃の
4番目に書いた作品のようで、
パリの音楽ニュース雑誌に掲載され、
その名が広く知られる処となったらしい。

ただ、当時は、
音楽教育を受けていない少女に対して、
「浅薄な素人くささを超えられなかった」
と、音楽事典等では
酷評されていたようだ。

日本の表記では、
バダジェフスカが一般だが、
ショパンと同じポーランド人で
「ボンダジェフスカ」が
正しい発音に近いようである。

音楽教育は受けていなかったが、
サロンでのピアノ演奏家として活躍し
35曲もの作曲も行っていた。

結婚し5人の子どもがいたが、
1861年に病弱のために
ワルシャワにて27歳で夭折。

本国ポーランドでは
認知度が低く、
「祈り」という言葉が
共産圏の影響下にあった頃は
不適切とみなされ、
また、先人に当たる
ショパンのような偉大な
作曲家に比されると
作品に高い芸術性が認められず
音楽界では相手にされなかったようだ。

『乙女』シリーズは他に、
乙女の感謝/乙女の誓い
乙女の恥じらい/乙女の晩祷
などがある。

日本では、
JRや信号機やゴミ収集車などで
よく聞かれるが、
少女たちのレッスン曲としても
広く愛されているので、
来日したポーランド人により
「再発見」され、
本国でも少しずつ
再評価がなされてきているという。

ショパンの『幻想即興曲』に比べたら
はるかに易しい曲だが、
全音ピースの「難易度」では、
「B」(初級上)になっていた。

ちなみに、
『幻想』は「E」(上級)である。

ついでに、
お稽古している
曲の難易度を俯瞰してみた。

ソナタ『悲愴』 D (中級上)
ソナタ『テンペスト』 E
エリーゼのために B

英雄ポロネーズ F(上級上)
雨だれの前奏曲 E

月の光 C
夢想 C
アラベスク C

亡き王女のためのパヴァーヌ C

・・・たしかに、
妥当なレイティングかもしれない。





近所の『万サイ堂』が
来週で閉店するので、
投げ売りセールしてないか
のぞいて見たが、
それらしき風もなかった。

それでも、
300円と200円のプレートを
"ドレッセ遊び"用に
買ってきた。

白地で
「葉型/波型」の
縁取りのプレートは、
それなりに上品で、
『仔羊のソテー』を
ドレッセしてみたら、
まあまあのキャンバスに
なってくれた。





週末の朝は、
女神容貌の
アサちゃんのイケヴォで
目覚めている。

彼女、
フミより三つ下、
アキより一つ上の
92年生まれの29歳で
すでに人妻である(笑)。

だから、
ダンゴ三兄弟でなく
"三姉妹"だったら、
次女くらいなのである(笑)。

なのに、
毎週末、
「カ~イ~ナ~!!」
と、見惚れている(笑)。






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間の大切さ

2021-01-09 08:06:00 | ノンジャンル
新学期が始まったが、
自分の勤務は
来週の水曜日からである。

それでも、
自宅カウンセリングは
一昨日から始まり、
今日も二件ある。

その前に、
朝一で鍼治療に出かけてくる。





近所のヨークが
改装閉店するので、
飾ってあった
千羽鶴とアマビエちゃんを
「ご自由にお持ちください」
とあったので、
ひと房いただいてきた。

茶室の置き床に
飾ったら新春ぽくなったので、
それに合わせる掛け軸も
換えてみた。

教員時代、
中国への修学旅行の引率で
「龍鳳」書道の書家に
造語の『童心永年春』を
書いてもらった。

いちおう、
意味は通じたらしく、
中国では
「永保童心」
(ユンパオトンシン)
ということも
教えてもらった。

独特のヒゲ文字で、
末端には竜や鳳凰を
あしらってある。

冠には
「福寿」と
入れてくれた。








リッ君の年賀状を
額装したら、
カミさんが
リヴィングの窓辺の
ぬいぐるみコーナーに
飾っていた。

父親のフミが
子どもの頃に、
目が合ったので
買ってもらったというライ坊が
寄り添ってるのが、
なんだか感慨深かった。

去年、大学ギター部後輩の
マドンナたちと
恒例の食事会をした時に、
リッ君へのプレゼントとして
ジャンボ・レゴブロックを頂いたが、
それがリボンがついたまんま
手付かずであるのが
なんだかさみしい。




自分はまだ冬休みなので、
毎日、"ぼっちランチ"を
こさえては気慰みとしている。

いつもは、
縁飾りのあるプレートで、
額縁のなかに素材を置くような
創作作業だが、
たまに真っ白な皿を相手にすると、
そのキャンバスにどう
表現しようかと
プレッシャーがかかる。

お正月のおせちにも
活躍してくれた
レモンの新緑葉を
枯らさずに水に活けてるので、
それを頼りに
まるで箱庭療法をやるような気持ちで
素材を配置した。

ブリの切り身を
バターでポワレし、
ニンジンと大根のピクルスを
菱形に成型して添えてみた。

ソースには、
パインとマンゴーの
コンフィチュールに
塩胡椒で味を付け、
ヴィネガーと
レモンオリーヴ油で
伸ばしてみた。

白地の皿は
誤魔化しが効かないので
やっぱりムズカシイ。

余白を如何にとるか…
というのは、
書や俳画に通ずる
美的バランス感覚を要する。

時間芸術の音楽も
「間」の取り方しだいで、
「間延びしたり」
「間抜け」な表現にもなる。

人間関係も
おしなべて
「間」=「spacing」が
大事であることは
論を待たないことである。





お歳暮に頂いた
アイスがまだあったので、
鮮やかなチョコ・ミントに
プチ・タルトを焼いて
デセールにした。



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雪明り

2021-01-08 08:03:00 | 季節
またまた寒波が
やってきて、
今朝は―6℃で
日中も0℃の
「真冬日」だという。

真冬なんだから、
マチガイはないのだが…。

神経痛持ちのジッチには、
辛い寒の時季である。

それでも、
「冬」にも「雪」にも
罪はないので(笑)、
冬には冬の楽しみ、
趣きを見出して、
それを楽しんで生きるべく
「隠居」「茶人」
としての通人・達人・粋人を
目指したいと心掛けてはいる。

雪国生まれのくせに、
長じては、雪降り日の
通学や出勤がカナワンなぁ…
と忌避する気持ちもあっだが、
ブレイクした『冬のソナタ』に
ハマッて、冬の美しさを
再認識して、爾来、
「冬には冬のよさがある」
と思い替えをするようになった。

これまで、
仙台、大阪、京都と棲んでみて、
福島ほど、四季の違いが
明確な地もないなぁ…
という思いをしている。

冬タイヤの履き替えも
雪国ならではだし、
真夏の暑さも全国レベルである。

梅雨・秋雨の雨季もあるし、
台風も時たまくるし…(笑)。

おまけに、自然環境では、
吾妻山は活火山で、
毎日、噴煙が見えるし、
そのおかげで温泉は数知れず、
スキー場もたくさんあり、
裏磐梯国立公園や
相馬の海浜までも
小一時間でいける。

風光明媚な一等地と
行ってもいい。

原発事故以前は、
都会からの移住先としては
最も注目度が高かったのも
首肯できよう。

しかし、放射能汚染で
すっかりミソが付き、
海外でも、被爆地の
「ヒロシマ」と並び
「フクシマ」は
歴史的に「不名誉」な
ノトーリアス(有名)地に
なってしまった。




ゆんべは
久しぶりに
真夜中まで、
雪明りの外景色が望めた。

そして、
夜明けとともに
寒中のゴミ出しに
雪を踏みしめながら
震えながら
ブーツで慎重に歩いた。




極寒の戸外から戻ると、
玄関の蝋梅が
温かげな黄色い花で
迎えてくれた。

きのうの
感染者数の7.000越えも
魂消たが、
心が委縮して
目に見えない重圧感に
圧し潰されないよう、
なんとか「自助」活動をせねば、
と心を振るい立たせている。

こういう時は、
早く、学校勤務が
始まってほしいものだ。

生命力輝く
子どもたちの姿は
目の薬にもなり、
職場環境に身を置くと
プロ意識スイッチがオンになり
シャンとするものである。




2台のピアノ前の壁には
ショパン/モーツァルト/
ベートーヴェンの肖像画が
かざってあり、

まるで、
学校の音楽室然としている。

久しぶりに、
『トルコ行進曲』を
楽譜庫から出して
さらってみた。

そしたら、
以前はもたついていた
中間部の息の長い旋律部分が
スラリと弾けて、
思わずモッツンの肖像を見たら
「そうそう。それでよし…」
と楽聖から褒められたような
気分がした。




ゆんべは夕食後に、
ショパンの『幻想即興曲』を
エチュード代わりに
指慣らししていたら、
カミさんが珍しく
「指速くなったねぇ…」
と感心していた。

思えば、
京都のマンション時代に
冬のボーナスでピアノを買って、
その時から弾き始めた曲なので、
途中の中断はあるが、
かれこれ三十年もさらっている。

ショパン像を前に
中間部のカンタービレを
奏でていると、
まさしく
『ピアノの詩人』と謳われるのも
むべなるかな、だなぁ…と、
感慨無量にもなった。

この中間部を
"ベタ"で俗っぽいと
評した音楽評論家がいたが、
うっとりするような
「甘い旋律」の何処がいけないんだ、
とケチをつけられたようで
不愉快になったことがある。

この手の偏向した評論家は、
チャイコフスキーなどの
甘美なメロディーをも
腐す族(やから)で、
「甘々のジェリービーンズのよう…」
とワケ解からん比喩で
独りよがりの文章を見て
辟易したこともある。

「甘美な曲」に酔うのは、
あたかも、オコチャマ同様の
精神性とでも言いたげであったので、
ムッとした。

この手の
高尚ぶった評論家の
駄言に左右されてる自分も
情けないが、
いつか弾いてみたい
と思ってた
バダジェフスカの
『乙女の祈り』を
未だにやれずにいる(笑)。

このまま弾かずに死ぬのは、
いかにも人生に
悔いを残しそうなので、
オシリ痛ジジイの
『落ち目の祈り』として、
やってみたろかしらん(笑)。

楽譜庫にピースはある(笑)。

消音ペダルで
やろうかしらん(笑)。

なんか、
やっぱ、ちっとハズイなぁ…。

でも、馬鹿評論家の
「甘々音楽」=「駄菓子」
と思いたくないしなぁ…。

マリーの『金婚式』なんて
いい曲だものね。





国内パンデミックの現況下で、
心理的にやはり
不要不急の外出は
憚られるような感じがする。

でも、食材の買い出しだけは
行かないわけにもいかない。

ヨシケイみたいな
出来合い物の配達は
一度もしたことないし、
今後もそのつもりもない。

やっぱり、
家庭人・料理人として、
市場から素材を調達し、
自らの手で、
煮炊き、焼き、切り、盛る、
という作業をしないと
気が済まない。

第一、そのプロセス自体が
楽しいのだから、
それを放棄する手はない。

コロナ禍になって、
12年間、毎日連載してた
グルメ・サイトを閉鎖し、
ぱったりと外食の習慣が
なくなった。

超一流店を除いて、
自分で創った方が、
美味しいし、安いし、楽しい…
ので、外食がバカらしくなった。

新規の店にも、
さほどに食指が
動かされなくなった。

どーせ、…でしょ、
と、行かずとも判る
ようにもなったからである。

年100回以上の外食を
20年以上続けたので、
地方の店にあっては、
似たり寄ったりで
ドングリの背ぇ比べで、
志しとセンスと技量の
低い店ばっかりで、
よくもまあ、これまで飽きずに
あちこち行ったもんだと
我ながら呆れも感心もしている。













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順位戦19連勝

2021-01-07 06:15:00 | 藤井 聡太
きのうは
久しぶりに
ソーちゃんの棋戦を
一日ゆっくりと堪能した。

風邪気味の体調なので、
午前中に一度だけ
ベッドで寝落ちしたが、
今回は、決着のつく
夜十時過ぎまで見届けられた。

今回も
AIのみが見出せるような
遠大な構想の手を指し
解説者を驚かせた。

新年になっての
初対局を白星でスタートし、
通算成績は37勝1敗、
19連勝の自己記録を更新した。

これで、
4月からの来季昇級は確実である。

一緒に同クラスに昇級した
杉本師匠は負けが込み、
今季で降級の位置にある。

弟子に負けまいと、
八段に先に昇段するも
すぐに追いつかれ、
タイトルを二つも取られ、
昇級もされる…
という「出藍の誉れ」ではあるが、
プロ棋士としては
いくらか忸怩たる思いも
あろうかとは思う。

弟子が出世し過ぎて、
もう、三度めの師弟対局のチャンスは
当分巡ってきそうにもなさそうである。




今朝の朝刊には
雑誌広告の表紙にも
ソーちゃんが
採り上げられていた。

コロナ・パンデミックの今、
気象も大寒波だ、大雪だ…で、
あっちもこっちも「警戒」せよ、
「不要不急の外出自粛」せよ、
という。

きのうは、
そんな中での、
明るい「一勝」であった。



昨晩のニュースで、
感染者数が5.000を超えた、
と聞いてカミさんと
慄(おのの)いていたが、
今朝の朝刊の見出しには
「6.000」の数字を見て、
オッ魂消た。

感染爆発・パンデミック
そのものである。

一都三県では、
今日、「緊急事態宣言」が
発せられるという。

一方で、
「Go To」を煽っていながら、
今度は「火消し」に追われてる
"ガースー政権"も
腰が据わっていず、
後手後手で、遅きに失した感がある。

医療先進国・
ノーベル賞最多国の
アメリカが
35万人もの死者数を出している。

計算では、
33秒に1人が
亡くなっているという。

なのに、
トランプ支持者の中には、
今でも「選挙無効」デモで
マスクもせずに
奇声を上げている馬鹿もいる。

英語で
「ファナティック」というのを
高校時代習った記憶があるが、
「熱狂者/狂信者」である。

中世・ルネッサンス期を背景にした
漫画や音楽史を読んでると、
たびたび、宗教的対立で
殺戮や戦争が絶え間なかった
「暗黒時代」という
言葉が出てくる。

そこには、
「狂信」という
キーワードがある。

「Dark Ages」とは、
「歴史上のある一定期間、
戦乱、疫病、政情不安定などにより、
社会が乱れ文化の発展が
著しく停滞したような時代を指す」
と定義される。

コロナ禍の今、
まさに、それに
匹敵するのではなかろうか。








近所にある
スーパーの「ヨーク」が、
今週いっぱいで
改装のため3月まで閉店する。

買い出しのメイン・スーパーなので
不便すること必至だが、
しばらくは、もう一軒の
「いちい」頼りになりそうだ。

きのうもヨークにいったら、
ありとあらゆる物が
「半値」札で
駐車場が満杯になるほどの
人込みで「3密」逸脱状態だった。

先日、バス内で
起こったクラスターの
感染シュミレーションで、
「マイクロ・エアゾル」
と言われる
感染者の呼気が浮遊して
マスクしていた人たちが
数人もそれを吸引して
感染拡大したというので、
爾来、マスクを二枚重ねにした。

複数基礎疾患+高齢の
ハイリスク者なので、
「感染=重症化・致死」
の可能性大ゆえ、
本来は、外出も自粛したほうが
いいのだろうが…。

ワクチン接種までは、
初心に返って
「正しく恐れる」
ような心掛けでいようと思う。





半額セールで
3本300円だったので、
『ソテ・ダニョー』
の"ぼっちランチ"にした。

都会の星付きフレンチなら
アラカルトで5.000円は
ふんだくられそうだ(笑)。

チリのカベルネ・ソーヴィニヨンの
「2019」を合わせてみたが、
やはり、ボルドーより
ボディが弱く、
ブーケもいまいちだった。

ま、300円ランチには
相応の「赤」だったかもしれない(笑)。









「いちい」が
毎年、ボルドーの
アキテーヌ品評会で
「メダイユ・ドール」(金メダル)を
仕入れているので、
毎年、購入している。

今年は、
コロナ禍で値崩れしてるのか、
なんと、半額セールで
どれもワンコインだったので、
夕餉の買い出しにいくたびに
1本ずつ買っている。


コメント
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