『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

赤い食べ物

2021-05-16 07:20:00 | 食物・飲物
郊外にある
「ささき牧場」で
トマトソフトが始まったので
カミさんに誘われて
出かけてきた。

アイス屋さんは
不況知らずなのか
何処へ行っても混んでいる。

もっとも、
平日の様子は
わからないが…。





去年、
初めてトマトソフトを
試食したときには、
その豊かな香りと適度な酸味が
まるでフレンチの名品
『ムース・ド・ポワヴロン・ルージュ』
(赤ピーマンのムース)
を彷彿させるものだった。

ただ、
今年は若干、
酸味が足りなかったような
気がしないでもなかった。








苦労して袋掛けした
庭のサクランボを
ほぼ収穫し終えた。

粒こそ小さ目だが、
味は間違いなく
サクランボであった(笑)。

浜口庫之助の
『黄色いサクランボ』じゃないが、
やっぱ赤味の足りないものは
かなり酸っぱい味がした。









夜は
カミさんがテニスだったので、
久しぶりに"ぼっちフレンチ"にした。

仔羊に初めて
コーングリッツをかけて
ソテーしてみた。

特に風味が好くなったようにも
感じられなかったが、
食感がすこし違っていた。

ソースも初めて
100%のマンゴージュースに
フォンを合わせて
創ってみたが、
これはなかなかに佳かった。








サラダは
オードヴル感覚で
「ドルチェ(甘口)」
「ピカンテ(辛口)」
「クレマ(クリーム)」
の三種のゴルゴンゾーラを
合わせてみた。








昭和の人間なので、
「あんこ」に偏愛があり、
時折、むしょうに食べたくなり
スーパーで買ってくることがある。

缶詰やパックのものは
味が画一化されているが、
地元店で朝炊きのものは
どっしりとした重みと
味の個性があって
なかなかに魅力的である。

ひとすくい小皿にとって
熱々にレンチンしてやると、
まるで鯛焼きの中身だけ
食べてるような錯覚をするので
不思議で面白かった。








初めて100%の
『メロンジュース』を
買ってきて、
メロン風味のする
『ペルノー』に合わせて
カクテルを創ってみた。

かなりの
メロン、メロンした味になった(笑)。

今日は
ソーダ割りを
試してみようと思う。

料理やら
カクテル創りやら
をしてると、
ステイ・ホームでの長い時間を
退屈せずに過ごせるものである。





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鬼才! 伊藤 潤二

2021-05-15 09:03:00 | マンガ
久しぶりに
Y中に出勤したら、
朝方の地震のせいで、
キャスター付きキャビネットが
壁から離れていて、
飾りのスタンド類も倒れていた。

県内独自の
『緊急宣言』のお達しにより、
狭いカウンセリング室から
隣の広い視聴覚ルームに
場所替えを管理職から
命じられた。

カウンセリング室は
エアコンがないので、
真夏日になると冷房が効く
この部屋を
臨時の避暑地としていた。





校舎は新しくなったが、
古くからある伝統校なので、
昭和24年の着物姿の
PTA会長遺影から
現在までずらりと
厳めしい顔で見降ろされて
居心地はあまりよくない(笑)。







それでも、
視聴覚機器は
最新のものなので、
カウンセリング室に
常備してるCD類を
天上スピーカーで鳴らせて
空き時間には
快適感もないではない。




きのうは
図書館から借りてきた
哲学の平易な本を
流し読みして
新しい概念なぞを
いくつか勉強した。

最近、
古代インド哲学や
中世イスラム神秘主義を
勉強して、
大分と「存在と意識」の関係について
自分なりに腑に落ちるような
解釈が得られた。

哲学書のなかは、
それこそ哲人たちの
さまざまな思考実験の
オンパレードであった。

古代、中世の哲学や仏教学が
最新の量子力学の知見と
シンクロしているのは
まことに不思議で面白い。

談志家元が
かつて
【学問なんて貧乏人の暇つぶし】
という
色紙を書いてくだすった。

ほんに、その通りで、
アタマん中で
あれこれ考え、
100円のノートに
ごちゃごちゃ書き散らしてる分には
まったく金がかからず、
尚且つ、エキサイティングな
宇宙や現象界の理解ができる。

それは、
根本問題でもある
自らと神も含めた
万物の「存在の意味」を
知る事であり、
自らを根源からアイデンティファイし
セルフ・オリエンテッド
(自己定位)して
安心立命を得ることにもなる。

また、
時折、カウンセリング室で
お目にかかる
「哲学病」の子どもたちとの
対論や心理教育にも
役立つのである。

「自分とは何か?」
「生きる意味とは何か?」
「在るとは、どういうことか?」
なぞという
根源的な疑問に捕らわれたら、
学校なんぞ行ってる場合じゃないし、
無意味に思える
五教科なんぞやれるわけもない(笑)。

世の大多数の
マジョリティは
形而上的な問題を忌避して
形而下的な現実問題に固執して
「苦労」し「悩み」し「病んで」、
そして、はしゃいで、浪費し、
酔ったような状態で
生涯を終えていく。

なので、
「悟り」とは
「目覚め」「覚醒」と
同義なのである。







やっと
体育館内が
適温になり、
ピアノの練習が捗った。

半時ほどの
集中練習で、
汗ばむほどだった。

当たり前だが、
真冬の7℃くらいだった館内では
回らなかった指も
解き放たれたように
よく動いてくれた。

笑い話で、
楽器を全く弾けない人から
「指の動きがすごいですね」
と、ギターでも
ピアノでも言われるが、
指が動かなきゃ
楽器弾けないじゃん…て、
当たり前のことを
どーして訊くんかしらん…
と可笑しくなる事がある(笑)。








庭の袋掛けしたサクランボが
いっせいに色づいたので、
いっせいに収穫した。

今回は、
はじめて袋を
ステプラーでとめてみたが、
これが案外楽だった。

ただ、今度は
袋から取り出すのが大変そうで、
おけつん処を
ハサミでチョキチョキやるのが
いちばん手っ取り早そうだ。

年ごとに
少しずつ実が肥大してきて、
裏庭のユスラウメよりも
ようやくひと回り大きくなったが、
まだまだ市販の大きさには
及ばない。

でも、
我が庭から
真っ赤なチェリーが
もいでとれるのは
夢があって
なんかいい・・・(笑)。








仕事から帰宅したら、
郵便受けに
2冊小包みが入っており、
なんと、同じ巻を
勘違いして注文してしまい、
愕然とした。

_| ̄|○ ガックシ・・・


(▼ε▼メ)…凹ンダァー!

本屋や古書店でも、
たまーに、
同じのを買うのをやらかすが、
ネットでポチッて
やらかしたのは
初めてである。

これも
「中高年あるある」
だったら
いいのだが…(笑)。

以前には、
ヨークの衣料品コーナーで
同んなじ柄の
クレリック・シャツを
二度買いしてしまい、
サービスカウンターにいた
中学の同級生・片平さんに、
別物と交換してもらった(笑)。

そん時は
「わたしもよくやるから、
気にしないほうがいいよ」
と笑って慰められた(笑)。

「ほんでも、
自分の趣味は
一貫してて、安心したよ」
と照れ隠しに
アタマをかいた。

(^▽^)>テヘヘ…♪  

ブログにしても、
同じ事をなんべんも書いてるが、
最近では
「落語家だって、
歌手だって、同じネタや
持ち歌をなんべんも
やってんじゃん」
と居直っている(笑)。

***


ホラー漫画家・
伊藤 潤二の代表作
『うずまき』を読了して、
衝撃を受けた。

そのシュールなタッチと
グロテスクな表現は
キモチワルイ限界の
ギリギリのエンタメである。

『憂国のラスプーチン』の
原作者・佐藤 優は
『あとがき』で、
この傑作をもって
伊藤は天才である、
と大絶賛しており、
作品に秘められた象徴性を
「資本主義」に置き換えて
さすがの解釈を示していた。

『人間失格』も
面白く読了したので、
今、アマゾンに
『地獄星レミナ』という
一巻物を注文した。











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コロナ自由連想

2021-05-14 05:53:00 | ノンジャンル
Go where nobody has gone.

Do what nobody has done.

・・・という
英箴言を今朝、
聞いた。

なるほどな…とも
思った。

 誰も行ってない処へ行け
 誰もしてない事をせよ

無論、
どっかへ行って
何かしろ、
という意味ではない。

誰もが到達できない
境地へたどり着け。

誰もが為し得なかった
何かをせよ。

・・・というのが
本意であろう。

でも、
養老先生に言わせれば、
今ここで「自分」で在るだけで、
もう、それは立派な
個性的存在であり、
それ以上に
殊更「個性的」であろう
とする必要もないような気もするが…。

ここまで
生きてきた事績のすべてが、
自分以外の誰もが
トレースできない
まさに
「個性化の過程」だったのである。




きのうは
珍しく、カミさんが
胃腸炎で病休したので、
仕事帰りに
パティスリーに寄って
ロールケーキを
お見舞いに買って帰った(笑)。

軽い夕飯の後、
胃薬を呑みながらも、
デザートは嬉々として
食べていた(笑)。







今週は、
自分も胃腸炎を
一日だけ患い、
そして、今朝方は
頭痛で目が覚めたので、
どうも風邪モードのようである。

きょうは
高原の僻地にある学校まで
遠出するので、
早くから頭痛薬をのんで
安静にしていた。

風邪の全身症状はないから
なんとか勤務できそうだが、
土日も自宅カウンセリングがあり、
月・火と学校勤務なので、
五日間はなんとか
頑張りたい。

そしたら、
その後、
四連休になり、
23日にはギター部後輩の
三美女、もとい、
三オババたち(笑)との
懐石料理の会食会がある。

我が家集合なので、
久しぶりに
茶室での
お点前もせねば
である。

***

『コロナ禍を生きる』
という
題名だけ決まっていて、
なかなか、
中身の執筆が進まない。

もうすぐ、
『夢十夜の深層分析』
という冊子が完成するので、
その次の仕事なのだが、
どっから手を付けていいのか
まずその切っ掛けが
決まらないでいる。

となれば、
やっぱし、
ブログを利用して
ダラダラと雑感を綴っていくのが
いちばん楽なのかもしれない(笑)。

・・・てなわけで、
『コロナ禍を生きる』
その1…(笑)。

自由連想・・・

コロナ・ウィルス・ワクチン・
摂取格差・失政・システム不備・
民主国家・強権国家・中国・
人口・経済力・覇権・蹂躙・
闘争・戦争・核使用・滅亡

・・・終わってまった(笑)。

コロナ・ステイホーム・自粛・
拘束・息苦しさ・喘息・
再発・吸入剤・気管拡張・
楽になる・老化・寿命・
持病・老衰・死

また、悲惨で
終わってもうた(笑)。

コロナ・克服・平穏な日常・
無反省・不用意・油断・
新たなパンデミック・
更なる脅威・人類不和・
破滅…(笑)。

┐(´Д`|||)┌ ダメダコリャ





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サクランボ

2021-05-13 06:26:00 | 食物・飲物
県内のコロナ感染者が
連日、過去最高を記録し、
きのうは、93人までになった。

このままだと、
100人の大台を突破しそうな
勢いがある。

第四波は
これまでにない
ビッグウェーブである。

だのに、
高齢者へのワクチン接種も
手続きの面倒さや何やらで
遅々として進まない。

先が片付かないから、
いつまでたっても、
その下の年齢層まで
お鉢が回ってこない。

さらなる
パンデミックの勢いが
加速すれば、
国民に「座して死ね」という
悲惨な失政となるだろう。

*

コロナ禍の最中でも
イスラエルとハマスの
ロケット弾と空爆の
局地戦がエスカレートしており、
国連安保理も全く機能していない。

先日の朝刊で、
現世界情勢は
民主国家と強権国家の割合が
46対54くらいで
「民主主義の危機」
と警句をあげていた。

民主国家とはいえ、
トランプやボルソナロのような
狂信的指導者を選んだり、
貧富の格差が圧倒的になったり、
と危うい状況になっている。

日本のワクチン行政なぞも
危ういレベルである。

*

最近、
この現実は、
自分が見ている
「リアルな夢」なんだ
という、明晰夢の視点で
観察している。

夜見る夢とて、
いつもいつも
幸せの夢ばかりとは
限らないので、
この「現実の夢」も
今のフェーズは悪夢に近い。

でも、
「自ずから然る」
「為るように為る」
「予定調和」
という安易な
楽観気分も何処かにある。

「英雄の生涯」に付き物の
「夜の航海」の
フェーズかもしれないし、
夢は醒めるものだし、
「魂は生き遠し」で
「本質的な実在は脅かされない」
ということも知った。

金光教では、
「死んでもままよと思え」
「生きても死にても
天地は永久(とわ)に我が住処」
という。





買い出し散歩で
空地で
またアスパラを6本ほど
採集してきた。

森に置かれた
葉っぱのように、
他の人には目に留まらないのか、
灯台下暗しで
空地に野菜が生えるはずない
という先入観・固定観念が
見えなくしているのか、
と思いながらも、まるで、
自分の畑みたいである(笑)。

自分ちの庭のアスパラは
いまだに穂は出るが
食用になるほどの太さには
至らない。

根茎が十分に
育っていないのだろう。







庭のサクランボも
いくつか色づき始めたので、
採りたてのアスパラの小穂と
『ソテ・ド・ポール』
(豚肉のソテー)
の付け合せにしてみた。

一口分だけ残ってた
貴腐ワインを合わせてみた。






スーパーで
バレンタインの売れ残りの
賞味期限がきたのか(笑)、
高級な洋酒チョコが
半額になってたので
買ってきた。

一先に
「シャンパン」を
やってみたが、
シュワシュワ
くるものではなかった(笑)。

…ったりまえか(笑)。

ついでに、
ルジェ社の
フレーズ(苺)と
パンプルケース(グレープフルーツ)
のリキュールと
「柚子マンダリン」という
小瓶を買ってきた。

食後酒として
ストレートでやるもよし、
ソーダ割の
カクテルベースにもよし、
である。







連休中に
ラーメン、チャーハン、
餃子などを
カミさんと出かけるたびに
やっていたので、
1㎏ほどリバウンドし、
ここ数日、また
プチ糖質制限食餌療法を始めて
その1㎏を解消した。






今朝方、
珍しくカミさんが
ブログを書いてる書斎まで来て、
「具合悪いから休む…」
と言ってきた。

健康だけが取り柄なので、
「コロナじゃ
ねーだろーな…」
と心配したが、
胃腸炎のようだった。

自分も一昨日から
胃腸炎っぽかったので、
プチ感染性か…と、
懸念された。

自分は、
昨日一日、
服薬養生していて
今朝には軽快した。

あるいは、
同んなじものを喰ってるから
何か良くない食材が
あったのか…とも、
考えたが、
それには思い当たる節もなかった。



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釣り鐘水仙

2021-05-12 07:40:00 | 風景
今朝も爽やかな
五月晴れである。

週の中日の
オフ日なので、
何をしようかと
前の晩から考えていたが、
朝からパラグアイ(腹具合)が
良くないので
トリメブチンと整腸剤を呑んだ。

日中の陽気で
寝室が23℃くらいになるので、
掛け布団を一枚減らしたのだが、
朝方は外気が7℃くらいまで下がり、
寝室も19℃くらいになるので、
寒暖差でお腹をこわしたのかもしれない。

なにせHSPなので、
環境の物理的刺激に
敏感に反応するのである。

そーいや、
ここ数日、
プチ・プチ喘息気味で
二日ほど頓服的に
吸入剤も使っていた。




今週は、
週四日の勤務日で、
土日も
自宅カウンセリングがあるので、
今日は体調を整えるため
出歩かないで
大人しく静養してようと思う。







仕事から帰って来るたびに、
庭のサクランボに
5袋ずつ袋掛けして
20袋くらいでやめにした。

かなりの大木になったので、
それでも全体の1割くらいにしか
及ばない。

高い所は脚立が必要になり、
腕を上げながらの作業は
辛いし、危ないので、
残りは全部トリにくれてやろうと
思っている。

毎日のように
大型のトリが喰いにくるのはいいが、
フンを落とされるのには
閉口する。

その下に、
食用にしている
山椒の木や
ハーブ類があるからである。







先日、
民家園で撮ってきた
花の名前が判らず、
カミさんに訊いたら、
知らなかったようで
図鑑で調べてくれた。

ホタルブクロ属(Campanula)
かと思っていたら、
『ツリガネズイセン』
(釣り鐘水仙)
というスイセン属だった。

英名は「Spanish bluebell」
学名は「Scilla hispanica」
(シッラ・ヒスパニカ)
なので、
スペイン原産のようである。









Eテレの『浦沢直樹の漫勉』で
ホラー漫画家の伊藤潤二を知り、
『人間失格』と代表作の
『うずまき』をアマゾンに
注文した。

そしたら、
既読した
『憂国のラスプーチン』の
作画・漫画家だった。

『人間失格』は
太宰の原作を
忠実に再現したものではなく、
大筋をなぞりながらも、
独特のホラー表現で
ファンタジックに描いている。





昨日は、
予約生徒が二人も
ドテキャンされたので、
空き時間ができて
ネット検索で
「スーフィズム」
(イスラム神秘主義)
の勉強をした。

13世紀・中世の思想家
イブン・アラビーの
『存在一性論』を
井筒 俊彦先生が
解説されていた。

『存在一性論』とは、
万物は見かけ上は
全く違うように見えるが、
実は全て唯一の『存在』の
一形態に過ぎず、
本質的には
同一次元のものである、
ということである。

「神」と呼ぶべきものを、
アラビーは
哲学用語の次元で
「存在」と呼ぶ。

これは
現実にこの世に存在している
「現実存在」とは
全く異なる
「原理存在」である。

「存在」は
無名・無相であり、
一切の「…である」という
述語を受け付けない。

「神である」
とも言えない。

なぜなら
神以前の神は、
普通の意味の
神ではないからである。

「存在」には、
「自己顕現」に向かう志向性が
本源的に備わっており、
「隠れた神」は
「顕れた神」に
ならずにはいられないのである。

「存在」が
「神の名前」を
持つに至る段階は、
言語で意味分節する以前の
全体存在である「空」から
言語で意味分節して表現する
経験的世界である「色」へと
移り変わる段階にあたる。

これは
『般若心経』と
同じことを言っている。

ーーーー

『存在一性論』は
「造物主」と「被造物」を
区別しない。

「存在」は創造者であり、
「超越的絶対者」の異名である。

万物は、
「存在」が
自己展開的に
分節したものである。

真に存在するのは
「存在」のみ
なのである。

井筒先生は
『存在一性論』を
「観想によって開けてくる
意識の形而上学的次元において、
存在を〈究極的一者〉として捉えた上で、
経験的世界のあらゆる存在者を
一者の自己限定として
確立する立場である」
と解説している。

《存在》=〈究極的一者〉
ということで、
この《存在》とは、
我われの身の周りに存在している
《もの》
すなわち具体的な
「存在者」ではない。

井筒先生は
《存在》とは、
「すべての存在者を
存在者たらしめている
存在そのもの」
と言う。

そして、それは、
「存在的活力」
「宇宙に遍在し
十方に貫流する
形而上学的生命的エネルギー」
とも述べられている。

《存在》とは
仏教における、
「全ての存在の
ありのままの真実の姿」
を意味する
「仏性」
「実相」
「真如」
と同次元のもの
と思われる。

「存在を〈究極的一者〉として捉える」
の「捉える」とは、
「観想によって開けてくる
意識の形而上学的次元において」
である。

つまり、
日常的経験の次元
すなわち
表層意識においてではなく、
深層意識によって
「捉える」ことなのである。

ここで注目すべきことは、
意識次元の浅深は
存在次元のそれに相応する
ということである。

「表層」意識によって捉えられる外部世界と
「深層」意識によって捉えられる外部世界は
おのずと別次元に
属しているわけである。

さらに
捉えられた外部世界を表現する言語も
おのずと異なるものになる。

「個々の存在者」が
言語によって有意味的に分節され、
概念によって認識されるのであれば、
経験世界においては
個々の存在者を「ありのまま」に
認識することは不可能である。

それでは、
世界を「ありのまま」に認識するには
どうすればよいのか。

この問いに対して
『存在一性論』は、
主観・客観という
二項対立で表される
「対象的認識」から
脱却することだ
と答える。

そもそも
『存在一性論』は、
「究極的実在」の認識は
経験の土台となる
「表層」意識を超越した
意識の形而上学的次元において
可能になることを説いている。

その次元に
到達するためには、
「表」層意識の担い手である
「自我」が消滅されなければならない。

意識には、表層意識と深層意識があり、
事物にも、表層構造と深層構造があり、
両者は
密接に関係している。

表層意識には
事物の表層構造しか観られず、
深層意識によって
事物の深層構造が観られる。

魂は、
「人間の実存を
神の自己顕現の場、
神が自己を現す場所として
自覚させるもの」
であるという。

この魂は
五段階構造をなしており、
逆三角形の
上から下の順に
表層⇒深層となり

 ナフス・アンマーラ
 ナフス・ラウワ
 ナフス・ムトマインナ
 ルーフ
 シッル

と呼ばれる。

ナフス・アンマーラは
欲望と欲情の場であり、
感性的な自我を構成する。

ナフス・ラウワーマは
知性的機能の次元、
意識の理性的領域に該当する。

ナフス・ムトマインナは
観想に集中し、
完全な静謐の状態に入った意識
を意味する。

ルーフは
いわば「聖霊」を意味し、
スーフィの体験では
宇宙的な光の世界である。

シッルとは
字義的には「秘密」を意味し、
絶対に表に現れてこない
いわば絶対の無であり、
ここにおいて
「自我の消滅」が体験される。

意識が
表層から深層に下るにつれて、
経験世界の言語的な分節の枠組みが
取り除かれてくる。

個々の存在者の独自性
(自我同一性/アイデンティティ)
が喪失していくにつれ、
存在者相互の区別もつかなくなる。

存在者 A は
《A》でありながら、
もはや《A》とは
言われなくなる。

存在者 B も
《B》でありながら
《B》ではなくなる。

存在者 A、B は
もはや名前を付けて
呼ぶことはできず
(主語性を失う)、
《これ》とか《あれ》といった
指示代名詞で呼ぶことも
できなくなる。

「自我の消滅」に達すると
「絶対の無」
《存在》
〈究極的一者〉
となるのである。

我われは、
《何か》を見て、
《何か》を知るのだが、
その《何か》がなくなると
見るものも、知るものも、
なくなる。

認識主体が
もはやここでは
存在していない。

井筒はこれを
「意識のゼロ・ポイント」
と呼び、
それは、すなわち
「実在のゼロ・ポイント」
でもある。

ここへきて、
世界はまったくの
「無分別」の《絶対無》となり、
《存在》そのものとなる。

ただ、
アラビーによれば、
《存在》とは
「絶対的な真実在」ではなく、
あらゆる言語を超えており、
したがって本来において
命名することはできない。

道教でいう
「言語道断」とは、
このことを指し、
言葉は分節・分別するので
道(タオ/物事の本質)を
断ってしまう、
ということなのである。

《神》という名称でさえも
本来においては
真実在を表示しているわけではない。

したがって、
「真の神」というのが在るとすれば、
《神》と名づけられる以前にあって、
それは《無》としかいえない。

この《無》は
「絶対的に無分節なるもの」
であって、
「何も存在しない」
という意味ではない。

井筒先生によれば、
「存在の形而上的根源としての
絶対一者、すなわち
「有」的充実の極限」
なのである。

つまり
《無》=《存在》
なのである。

しかし
《存在》は
そのままで留まっているわけではなく
《存在》は
それ自体においては
実在のゼロ・ポイントであり、
すべての存在者が発出してくる
第一の始原でもある。

井筒先生は
《存在》を
「存在的活力」
あるいは
「形而上学的生命的エネルギー」
と解した。

《存在》が
自己分節することによって、
《無》から自己を現わすことを
アラビーは
「自己顕現」と言った。

神の創造行為とは、
神の自己顕現にほかならない。

つまり
本来において
無名である《存在》が
存在次元に降りてくるに従って、
名称が付けられることになる。

イスラムでは、
その降下の第一段階が
「アッラー」としての
自己顕現の段階であり、
その意味で
「アッラー」は
神の第一の神名である。

ーーーーー

それでは
この世界は
いかに描写できるのか。

ここでは
「個々の存在者」は
「本質なきもの」となっているから、
これらを命題の主語にはできない。

実在しているのは
《存在》のみである。

したがって、
《存在》を主語とする
哲学的なメタ言語が
必要となる。

経験世界では、
「Aが存在している」
と言われるが、
絶対無の世界では、
「存在がAしている」
と表現されることになる。

「私が存在している」
のではなく
「存在が私している」
のである(笑)。

意識の構造は
表層から深層に向けて
逆三角形をなしており、
実在の構造は
ゼロ・ポイントを頂点とした
三角形をなしている。

意識が深層に下降するにつれ、
≪存在≫に近づき、
実在の度合いは上がっていく。

その頂点においては
自我意識は消滅し、
意識は無化状態となる。

しかし
井筒先生によれば、
そこには
無化された自我意識そのものが
いまだ残存しているというのである(笑)。

そこで
遺棄されている無でさえも
いまだ他者として存在している
ということである。

したがって、
自我意識の消滅が
完成するためには、
消滅した意識それ自体も
無化されなくてはならない。

これを井筒先生は
《消滅の消滅》
《純粋な無》
《絶対的な無》
と表現している。

「無それ自体が
無化されることは、
意識の無が
無の自覚として
甦ることを意味する」
・・・というのだが
 
ε= (+_+) ムムムムッ

・・・で、
さっぱり理解できない(笑)。

「ここに、
無化された意識が
あらためて有化されたところに
成立する超越的主体が
明らかとなる」
・・・のだそうだ。

モゥ…ヾ(_ _。) ノ ㇻメ~♡ ガクッ

「実在の領域に即して言えば、
いったん否定された
個々の存在者の本質が
絶対無としての
究極的実在の自己顕現として
甦ってくるということになる。

「空」の観点からいえば、
経験世界において
《実》とされていた
個々の存在者の存在が
「空」によって否定され
《仮》となり、
「空」が「空ぜられる」ことによって、
個々の存在者は
《実相》として存在している
ということになる」

・・・のだそうだ(笑)。

(/^_^)/ チュド~ン! 

アタマが
爆発した~い!!(笑)。

難解ホークスや~!!!

ヒ~ッ ! ε=ε=ε=ヾ(*。>◇<)ノ










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