写真は四川方面から禄豊・広通鎮へと向かい昆明ー大理間の鉄道線に入るまでの支線の列車内の様子。楚雄イ族自治州内に引かれた列車なのだが、イ族の人というよりも漢族、苗族、白族などさまざまな民族の人が列車で席を同じくしている。明らかに民族衣装の人もいれば、若者はジーンズ、お年寄りはくすんだペラペラの背広の人が多かった。髪型にじゃっかん、各民族間の差異が感じられることも。(2004年2月撮影)
【落人の里】
通海県の中でもう一つ、特色のある街として紹介される興蒙郷は、「蒙」とつくことから分かるように蒙古、つまりモンゴル族の村。元代にモンゴル高原から支配者層としてモンゴル軍の貴族・兵士とその家族が移住しました。その後裔が暮らしているところです。
元末明初、モンゴル軍の拠点の一つであった現在、「甘酒街道」で知られる曲陀関に明軍が襲いかかり、壮麗な寺院や行政機関が破壊されました。
この時、この地のモンゴル軍は蒙古高原に戻るタイミングに間に合わず、曲陀関から山一つ越えた湖・杞麓湖畔で慣れない漁業に従事することになりました。そして今日まで風習を守りつつ生き抜いたのです。日本でいうところの平家落人の里のようですね。
ちなみにモンゴル軍の大半は遊牧民という民族性もあるのか明軍に勝てないとなると、さっさと大半は蒙古高原に戻っていきました。
もちろん、通海県以外の地域にもモンゴル高原に戻りそびれたモンゴル軍は当然、ありました。しかし彼らは長い年月の間に周辺の各民族と融合していき、モンゴル族と名乗ることもなくなっていったのです。
たとえば、麗江の納西族の「元」姓だった人、「元」からのちに「和」姓となった人は元モンゴル族で後に納西族に同化(清の時代の調査による)、曲靖市、昭通市威信県、貴州省華節地区の「余」姓はかつて「テムジン」つまりチンギス・ハーンの子孫と言われている人ですが、モンゴル族と名乗る人はほとんどなく、モンゴル語も話さず、服も地元の人と同じものを着ている調査があります。
そんな中で、興蒙蒙古族郷にはモンゴル族と自覚を持つ人々が集中的に移り住み、現在では雲南唯一のモンゴル族の村となっています。興蒙郷各村あわせて数千人のモンゴル族が住む、雲南では珍しい場所なのです。よほどモンゴル族としての誇りが高く、と堅固な思想の持ち主(頑固者?)の人々だったのか、と感嘆しないわけにはいきません。
(参考文献:楊徳華『雲南民族関係簡史』雲南人民出版社、2011年) (つづく)
【落人の里】
通海県の中でもう一つ、特色のある街として紹介される興蒙郷は、「蒙」とつくことから分かるように蒙古、つまりモンゴル族の村。元代にモンゴル高原から支配者層としてモンゴル軍の貴族・兵士とその家族が移住しました。その後裔が暮らしているところです。
元末明初、モンゴル軍の拠点の一つであった現在、「甘酒街道」で知られる曲陀関に明軍が襲いかかり、壮麗な寺院や行政機関が破壊されました。
この時、この地のモンゴル軍は蒙古高原に戻るタイミングに間に合わず、曲陀関から山一つ越えた湖・杞麓湖畔で慣れない漁業に従事することになりました。そして今日まで風習を守りつつ生き抜いたのです。日本でいうところの平家落人の里のようですね。
ちなみにモンゴル軍の大半は遊牧民という民族性もあるのか明軍に勝てないとなると、さっさと大半は蒙古高原に戻っていきました。
もちろん、通海県以外の地域にもモンゴル高原に戻りそびれたモンゴル軍は当然、ありました。しかし彼らは長い年月の間に周辺の各民族と融合していき、モンゴル族と名乗ることもなくなっていったのです。
たとえば、麗江の納西族の「元」姓だった人、「元」からのちに「和」姓となった人は元モンゴル族で後に納西族に同化(清の時代の調査による)、曲靖市、昭通市威信県、貴州省華節地区の「余」姓はかつて「テムジン」つまりチンギス・ハーンの子孫と言われている人ですが、モンゴル族と名乗る人はほとんどなく、モンゴル語も話さず、服も地元の人と同じものを着ている調査があります。
そんな中で、興蒙蒙古族郷にはモンゴル族と自覚を持つ人々が集中的に移り住み、現在では雲南唯一のモンゴル族の村となっています。興蒙郷各村あわせて数千人のモンゴル族が住む、雲南では珍しい場所なのです。よほどモンゴル族としての誇りが高く、と堅固な思想の持ち主(頑固者?)の人々だったのか、と感嘆しないわけにはいきません。
(参考文献:楊徳華『雲南民族関係簡史』雲南人民出版社、2011年) (つづく)