(英語版)
(アラビア語版)
(目次)
第4章:中東の戦争と平和(28)
114 ナクバの東(3/3)
彼らは子供たちに大学教育をつけてやることにも熱心であった。流浪の難民が他国で生きていくためには人並み優れた知識や専門技術が必要だったからである。クウェイトで働くシャティーラ家とアル・ヤーシン家はそれぞれ教師と医師であったため、人一倍教育熱心であり、シャティーラ家では苦しい家計をやりくりして次男を米国に留学させた、サウジアラビアの石油会社で働く長男のシャティーラも給料の何がしかを弟の学費の足しにと父親に渡した。彼らは弟が米国の大学を卒業し市民権を取ってくれることを期待した。そこには万一、中東での生活が危うくなったとき、米国に移住しようという思惑もあったのである。
ただ父親自身はトゥルカムに戻る希望を失っていなかった。彼には故郷の町で私塾を開き子供たちに学問を教えて余生を過ごしたいという夢があった。彼はクウェイトでの教師として定年を迎えた1970年代末にクウェイトを離れ、ヨルダンに戻った。シャティーラ家と前後してアル・ヤーシン家も娘のラニアをカイロのアメリカン大学に留学させると、それを機にヨルダンに戻った。こちらは医師の免許があるのでヨルダンに永住する覚悟を決め、パレスチナ国籍からヨルダン国籍に変更した。1970年の「黒い9月」事件以後、パレスチナの政治組織PLOはレバノンに移り、ヨルダンはフセイン国王の下で平穏な情勢であった。湾岸諸国に移住したパレスチナ人たちはいろいろな思惑を胸にヨルダンに戻ったのである。「ナクバ」の地パレスチナから東へ東へと移動したパレスチナ人は再び西へ移動し、ヨルダンでパレスチナに帰還できる日を待ちわびたのであった。
(続く)
荒葉 一也
E-mail: Arehakazuya1@gmail.com