(先に暗殺されたレバノンのイスラエル抵抗組織ヒズボラの最高指導者ナスララ師に代わり、No.2のナイム・カセムが新指導者に指名された。以下はエジプトのAhram Online紙が伝えるナイム・カセムのプロフィールである。)
原題:Who is Naim Qassem? Lebanon's Hezbollah new chief after Nasrallah
2024/10/29 Ahram Online
レバノンのシーア派組織ヒズボラは、先月イスラエルの空爆で殺害された指導者ハッサン・ナスララの後任にナイム・カセムを選んだと発表した。長年ナスララの副官を務めてきたカセムは、9月中旬にイスラエルがベイルート南部を狙った空爆でナスララが暗殺されて以来、ヒズボラの暫定指導者を務めてきた。レバノンでは多くの人がカセムをヒズボラの「公の顔であり声」とみなしている。
ヒズボラ統治評議会は、シェイク・ナイム・カセムをヒズボラの最高指導者に選出することに合意した、との声明を発表した。
シェイク・ナイム・カセムとして知られるナイム・ムハンマド・ナイム・カセムは、1953年ベイルートのバスタ・アル・タフタ地区で生まれた。両親はレバノン南部クファル・フィラ村出身のシーア派イスラム教徒である。
彼は1970年にレバノン大学の教育学部に入学、フランス語で化学を学び、学士号を取得した。1970年代初頭に設立されたレバノン・イスラム教徒学生連合の創設者の1人でもある。その後6年間(1974年~1980年)公立学校で教鞭をとり、1977年には以前学んだ同じ大学から修士号を取得した。
1972年、カセムは地元のモスクで若い学生にコーランとイスラムを教え始めた。その間、彼はレバノンで最も著名なシーア派学者、特にアッバス・アル・ムサウィ、ハッサン・タラッド、アリ・アル・アミンの指導の下で学び、さらに最も有名なシーア派指導者の一人、アヤトラ・ムハンマド・フセイン・ファドラッラーの下で法学と原理を学んだ。
シェイク・カセムは1974年から1988年までイスラム宗教教育協会を率いた。政治的には、1974年にエマーム・ムサ・サドルが率いるレバノン初のシーア派抵抗グループであるアマル・シーア運動の最初のメンバーの1人となった。アマル運動では、中央文化担当副官、運動指導評議会メンバー、文化教義担当官を務めた。1980年、シェイク・カセムはアマル運動での役割を辞任し、ベイルートのさまざまなモスクで教えながら宗教教育を続けることを決意した。
1982年のイスラエルによるレバノンへの苛酷な侵攻で約2万人のパレスチナ人とレバノン人が殺害された後、シェイク・ナイム・カセムは独立したシーア派イスラム委員会で積極的な役割を果たした。彼はまた、1982年にヒズボラを創設したメンバーの一人でもあり、1985年に始まったイスラエルによる南レバノン占領に対する抵抗運動に積極的に参加した。
シェイク・カセムはヒズボラの諮問評議会のメンバーを務めた後、組織内で昇進、1991年にヒズボラのNo.2に任命された。当時の最高指導者はサイド・アッバス・アル・ムサウィであったが翌年暗殺され、サイド・ハッサン・ナスララがその後任となった。
ナスララの死後、新最高指導者シェイク・カセムは場所を明かさずに2回テレビ演説を行っている。最初の演説は20分弱で、ヒズボラは依然として有能な戦闘部隊であり、指導部が相当な打撃を受けたにもかかわらず戦い続けると語り隊員を安心させた。2回目の30分間の演説では、彼はより自信に満ちた口調で話している。
彼は、イスラエルによる度重なる暗殺によって空席となった指導的地位はすべて埋められたと主張している。カセムは、アマル運動の指導者で国会議長のナビフ・ベリが行っている外交活動に対する支持を表明したが、ヒズボラはガザを放棄せず、むしろ攻撃と防衛の軍事作戦をエスカレートさせるのみだと主張している。
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