第4章:中東の戦争と平和
5.アフガン戦争勃発:呉越同舟の米国とアラブ
70年代前半の束の間の平和と繁栄の時代が過ぎると、後半には中東は俄然きな臭くなる。アラブから少し離れイランとパキスタンに挟まれたアフガニスタンに、1978年、ソ連肝いりの共産主義政権が誕生した。アフガニスタンは古くから交易の要衝であり、19世紀には中央アジアからインド洋を目指すロシアの南下政策に対し、インド洋沿岸沿いにオマーンからインドに至る交易路を確保しようとする大英帝国の東インド会社が激突、そこは「グレート・ゲーム」と呼ばれる紛争多発地帯であった。1970年代初頭に王制が倒れると、ソ連は好機到来とばかりに共産主義政権を支援した。
しかし伝統的な部族社会であり、また強固なイスラーム信仰の国であるアフガニスタンは安定するどころか反政府武装勢力が勢いを増した。劣勢に立たされた中央政府はソ連に援軍を要請、ソ連は国際社会の反対を押し切って1979年に軍事介入に踏み切る。この後、ソ連軍が撤退するまでの10年の間、アフガニスタンは泥沼の内戦を繰り広げるのである。
この内戦で反政府勢力の中心となったのが「ムジャヒディン」である。「ムジャヒディン」とはイスラームのジハード(聖戦)戦士を意味する現地語である。イスラーム・ジハードを掲げるムジャヒディンにとって無神論を唱える共産主義は「悪の権化」とも言える存在である。ムスリム(イスラム教徒)にとって共産主義はキリスト教やユダヤ教よりも認めがたい。
ムスリムたちは「キリスト教のGodもユダヤ教のエホヴァも自分たちが信ずるアッラーと同じ唯一の存在(神)である」と信じている。三大一神教最後発のイスラームにとって「唯一神のアッラーはGodやエホヴァと同じ。なぜなら神は唯一の存在だから」である。ついでに言うならムスリムは旧約聖書に出てくる預言者が最初の預言者であり、キリストは最後から二番目の預言者、そしてムハンマドが最後の預言者であると考える。キリスト教ではキリストは神の子であるが、イスラームでは神が子供を生むことは無く、キリストはあくまでも預言者の一人ということになる。そして一神教徒すべてがそうであるように彼らは複数の神は認めない。従って彼らにとって古代ギリシャの多神教は邪教であり、日本古来の「八百万の神」などは野蛮人の信仰と映る。それでも少なくとも「神」の存在を前提としている点で彼ら一神教徒はかろうじて多神教徒を理解或いは容認できるのである。
しかしムスリムたちにとって共産主義の無神論は理解に苦しむどころか悪魔の思想である。唯一神アッラーのためにアフガニスタンのムジャヒディン(ジハード戦士)は共産主義政府に立ち向かった。その闘争に共鳴したのがアラブ諸国のムスリムたちであった。豊かな湾岸産油国のムスリムたちはモスクで礼拝を済ませた後、遠いアフガニスタンのジハード戦士たちのために出口に置かれた義援箱にお金を入れた。ザカート(喜捨)はムスリムの宗教的義務であり、彼らは喜んで寄付したのであった。その性格上戦争を支援するための寄付金は公にすることができず、いくつかの銀行を経てマネーロンダリング(資金洗浄)された。モスクを通じた戦費の調達とその送金方法は後々イスラーム過激派に対する資金ルートに変貌して中東各国政府や欧米諸国を悩ませるのであるが、この当時はむしろ黙認或いは奨励されていた。
さらに米国がこの戦争で反政府ゲリラを支えた。米国は彼らにミサイルなどの武器弾薬或いは軍事衛星で得られたソ連駐留軍の動きなどの機密情報をパキスタンを通じて反政府側に与えたのである。このようにアフガニスタン戦争ではアラブ諸国がヒト(義勇兵)とカネ(戦費)を与え、米国がモノ(近代兵器)とインテリジェンス(情報)を与え、共同してソビエト社会主義政権に対抗したのである。イスラームとキリスト教という真っ向から対立する陣営の共闘体制はまさに「呉越同舟」であった。
両陣営がソビエト社会主義打倒を目指した思想の背景は全く異なる。アラブ陣営には共産主義の無神論に対する強烈なアレルギーがあった。彼らはソ連が「悪魔」の国でありこれを打倒することはジハード(聖戦)であった。そもそもアラブ民族の「血」とイスラームの「信仰」が体にしみこんでいる彼らにはイデオロギーという「智」が入り込む余地はないのである。これに対して米国は自由主義対社会主義、資本主義対共産主義という明確なイデオロギー思考に立ってソ連を打倒し世界の覇権を握ることが目的であった。1975年に泥沼のベトナム戦争を終結し、同じ年に先進国サミット(G7)で世界経済の覇権を確かなものにした米国にとってソ連は最後の敵であり、アフガニスタン戦争はその最前線というわけである。
この戦争でアラブ諸国から多数の義勇兵が参加したが、その最大の人物こそサウジアラビアのオサマ・ビン・ラーデンである。世界中で彼の名を知らない者はほとんどいないであろう。また彼の素性と死に至るまでの経緯も良く知られているが、ここではアフガン義勇兵になるまでの経歴を簡単に紹介する。
ビン・ラーデンは1957年、サウジアラビアのジェッダで生まれた。彼の父親はイエメン出身で若くして聖都マッカの門前町ジェッダに移住、路上の行商から身を起こし、サウジアラビアの初代国王となるアブドルアジズに取り入り、オサマ・ビン・ラーデンが生まれたころはサウジ国内最大の建設財閥になっていた。父親は多数の妻を娶り、ビン・ラーデンは17番目の息子であるが、11歳の時に父親が飛行機事故で死亡、当時の金で3億ドルの遺産を受けたと言われる。彼はその後イスラーム神学校(マドラサ)に入学、過激なイスラーム原理主義に傾倒した。そして22歳の時に義勇兵としてアフガニスタンに入った。アフガニスタンにはサウジアラビアの援助によるマドラサが多数建設され、ムジャヒディン(ジハード戦士)たちはイスラーム原理主義思想に洗脳されていた。そこに3億ドルを抱えてビン・ラーデンが乗り込んだのであるから彼がすぐに頭角を現し、外国人義勇兵のトップに立ったのは当然の成り行きであった。
ソ連駐留軍は次第に追い詰められ1988年に遂に撤退した。アラブ・イスラム諸国はソ連の無神論との宗教戦争に勝利し、米国はソ連社会主義とのイデオロギー戦争に勝利したのである。アフガニスタン戦争はソ連の崩壊をもたらし米国では宗教社会学者のフランシス・フクヤマが「歴史の終わり」なる論文を発表、米国一強時代が出現し、永遠の世界平和が訪れるかのごとき幻想がふりまかれた。
しかしアフガニスタン戦争はそれまで歴史の陰に隠れていた多くの問題が表面化する負の側面も併せ持っていた。米国はソ連の次の目標として中東アラブ諸国に政治の自由化と民主化を強要した。それは自由化、民主化の衣を着た西欧イデオロギーの押し付けであったが、その背後に宗教面のキリスト教福音思想と軍事面のネオコン思想があった。
一方、イスラーム諸国ではイラン革命が勃発、シーア派指導者ホメイニによる宗教政治が出現、これはスンニ派アラブ諸国との対立を生みだし、イラン・イラク戦争につながる。さらに同じスンニ派アラブ諸国の内部で世俗主義と原理主義が衝突、原理主義の内部では更に過激なテロリズム思想が蔓延し手の付けられない混乱を引き起こすのである。
(続く)
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荒葉一也
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