これまで、勢古浩爾さんがまとめた「吉本隆明74語より」という本、という風にご紹介をしてきましたが、「生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語」(二見書房) というのが正式なタイトルです。そして価値ある存在との修飾語は、筆者がブログのために付けたものです。今日は5回目です。青字は、吉本隆明の文章。黒字は筆者の感想。
人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。(「マチウ書試論」)
8月20日の(2)号で、人間の生き方において)自分の意志力が貫きうる範囲は、まあせいぜいいって半分です。あとの半分は外界が決定するのです。(「敗北の構造」)という言葉を紹介しましたが、これを別の言い方をすれば、関係の絶対性ということになります。
勢古さんは、吉本はこの言葉を現実の生活からつかんだのではないか、端的には、自分の三角関係の恋愛体験によって、である。と言っています。この三角関係というのは、筆者も似たようなことを若い頃に体験しましたのでよく分かりますが、自分がこうしたいと思っても、どうにもならないし、またこうしたいと思わなければ突破口が開けないという、株で言うと膠着状態、三角保ち合いのような関係が三角関係と言えます。ベイトソンのいうダブルバインドも、自分の意志だけでは打開できないという意味では、これに近いかも知れません。
同じマチウ書試論に、下記の文章が載っています。
「加担というものは、人間の意志にかかわりなく、人間と人間の関係がそれを強いるものであるということだ。人間の意志はなるほど、選択する自由をもっている。選択の中に、自由の意義がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な選択にかけられた人間の意志も、人間と人間の関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。」
そして、親鸞の弟子の唯円が、親鸞のいうことなら何でも聞くと答えたことに対して、親鸞は「それなら人を千人殺してみろ。そうすれば往生は疑いないだろう」という。当惑した唯円は「一人でさえも私の持っている器量では、人を殺せるとは思えません」と答える。そこで親鸞は「そうだろう。そうなんだ。人間というのは、何か業縁、因縁、あるいは動機があれば、人を殺したいと思わなくとも、百人、千人殺すこともある。しかし動機がなければ、人間というのは、ひとりの人間さえ殺すことはできないものなんだよ」と答えたという、広く知られている話を吉本は引用しています。
この例も、人を殺そうと意志しても殺せるわけでなく、のっぴきならない人との関係の中でしか、人一人殺せないということですね。戦中の特攻隊は、候補者全員、隊長の前で一人ひとり意志を確認されたとのことですが、皆心の中ではまだ死にたくないと思っていても、隊長や他の特攻隊候補者との間の「関係の絶対性」の前で、誰一人辞退者はいなかったそうです。そこで辞退すれば、家族を含めて後で何と世間から言われるかも知れないという暗黙の強制があったとも言えます。先週の「偽りの厳粛さ」に通じるところがあります。
卑近な例では、勢古さんも挙げている、「別れるつもりがなかったのに別れることになった」、「結婚なんかする交際ではなかったのに結婚した」や、「本当は外交官になりたかったのに医者になってしまった」、といったことが関係の絶対性ということでしょうか。誰かにひょんなことで出会って、人生が変わることがよくありますが、それです。株の場合も、「こんな株を買うつもりがなかったのに買ってしまった」、「この値段では売るつもりがなかったのに売ってしまった」いったことがありますが、これも市場との関係の絶対性かも知れません。そして、人は生きていく以上、このような「逸脱」から逃れられないからこそ、ごく自然に生きている人間の価値というものを、吉本はそれに勝るものはないとまで言っているのですね。
人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。(「マチウ書試論」)
8月20日の(2)号で、人間の生き方において)自分の意志力が貫きうる範囲は、まあせいぜいいって半分です。あとの半分は外界が決定するのです。(「敗北の構造」)という言葉を紹介しましたが、これを別の言い方をすれば、関係の絶対性ということになります。
勢古さんは、吉本はこの言葉を現実の生活からつかんだのではないか、端的には、自分の三角関係の恋愛体験によって、である。と言っています。この三角関係というのは、筆者も似たようなことを若い頃に体験しましたのでよく分かりますが、自分がこうしたいと思っても、どうにもならないし、またこうしたいと思わなければ突破口が開けないという、株で言うと膠着状態、三角保ち合いのような関係が三角関係と言えます。ベイトソンのいうダブルバインドも、自分の意志だけでは打開できないという意味では、これに近いかも知れません。
同じマチウ書試論に、下記の文章が載っています。
「加担というものは、人間の意志にかかわりなく、人間と人間の関係がそれを強いるものであるということだ。人間の意志はなるほど、選択する自由をもっている。選択の中に、自由の意義がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な選択にかけられた人間の意志も、人間と人間の関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。」
そして、親鸞の弟子の唯円が、親鸞のいうことなら何でも聞くと答えたことに対して、親鸞は「それなら人を千人殺してみろ。そうすれば往生は疑いないだろう」という。当惑した唯円は「一人でさえも私の持っている器量では、人を殺せるとは思えません」と答える。そこで親鸞は「そうだろう。そうなんだ。人間というのは、何か業縁、因縁、あるいは動機があれば、人を殺したいと思わなくとも、百人、千人殺すこともある。しかし動機がなければ、人間というのは、ひとりの人間さえ殺すことはできないものなんだよ」と答えたという、広く知られている話を吉本は引用しています。
この例も、人を殺そうと意志しても殺せるわけでなく、のっぴきならない人との関係の中でしか、人一人殺せないということですね。戦中の特攻隊は、候補者全員、隊長の前で一人ひとり意志を確認されたとのことですが、皆心の中ではまだ死にたくないと思っていても、隊長や他の特攻隊候補者との間の「関係の絶対性」の前で、誰一人辞退者はいなかったそうです。そこで辞退すれば、家族を含めて後で何と世間から言われるかも知れないという暗黙の強制があったとも言えます。先週の「偽りの厳粛さ」に通じるところがあります。
卑近な例では、勢古さんも挙げている、「別れるつもりがなかったのに別れることになった」、「結婚なんかする交際ではなかったのに結婚した」や、「本当は外交官になりたかったのに医者になってしまった」、といったことが関係の絶対性ということでしょうか。誰かにひょんなことで出会って、人生が変わることがよくありますが、それです。株の場合も、「こんな株を買うつもりがなかったのに買ってしまった」、「この値段では売るつもりがなかったのに売ってしまった」いったことがありますが、これも市場との関係の絶対性かも知れません。そして、人は生きていく以上、このような「逸脱」から逃れられないからこそ、ごく自然に生きている人間の価値というものを、吉本はそれに勝るものはないとまで言っているのですね。