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価値ある存在-吉本隆明74語より(5)

2005-09-10 08:03:13 | 価値ある存在
これまで、勢古浩爾さんがまとめた「吉本隆明74語より」という本、という風にご紹介をしてきましたが、「生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語」(二見書房) というのが正式なタイトルです。そして価値ある存在との修飾語は、筆者がブログのために付けたものです。今日は5回目です。青字は、吉本隆明の文章。黒字は筆者の感想。

人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。(「マチウ書試論」)

8月20日の(2)号で、人間の生き方において)自分の意志力が貫きうる範囲は、まあせいぜいいって半分です。あとの半分は外界が決定するのです。(「敗北の構造」)という言葉を紹介しましたが、これを別の言い方をすれば、関係の絶対性ということになります。

勢古さんは、吉本はこの言葉を現実の生活からつかんだのではないか、端的には、自分の三角関係の恋愛体験によって、である。と言っています。この三角関係というのは、筆者も似たようなことを若い頃に体験しましたのでよく分かりますが、自分がこうしたいと思っても、どうにもならないし、またこうしたいと思わなければ突破口が開けないという、株で言うと膠着状態、三角保ち合いのような関係が三角関係と言えます。ベイトソンのいうダブルバインドも、自分の意志だけでは打開できないという意味では、これに近いかも知れません。

同じマチウ書試論に、下記の文章が載っています。

「加担というものは、人間の意志にかかわりなく、人間と人間の関係がそれを強いるものであるということだ。人間の意志はなるほど、選択する自由をもっている。選択の中に、自由の意義がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な選択にかけられた人間の意志も、人間と人間の関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。」

そして、親鸞の弟子の唯円が、親鸞のいうことなら何でも聞くと答えたことに対して、親鸞は「それなら人を千人殺してみろ。そうすれば往生は疑いないだろう」という。当惑した唯円は「一人でさえも私の持っている器量では、人を殺せるとは思えません」と答える。そこで親鸞は「そうだろう。そうなんだ。人間というのは、何か業縁、因縁、あるいは動機があれば、人を殺したいと思わなくとも、百人、千人殺すこともある。しかし動機がなければ、人間というのは、ひとりの人間さえ殺すことはできないものなんだよ」と答えたという、広く知られている話を吉本は引用しています。

この例も、人を殺そうと意志しても殺せるわけでなく、のっぴきならない人との関係の中でしか、人一人殺せないということですね。戦中の特攻隊は、候補者全員、隊長の前で一人ひとり意志を確認されたとのことですが、皆心の中ではまだ死にたくないと思っていても、隊長や他の特攻隊候補者との間の「関係の絶対性」の前で、誰一人辞退者はいなかったそうです。そこで辞退すれば、家族を含めて後で何と世間から言われるかも知れないという暗黙の強制があったとも言えます。先週の「偽りの厳粛さ」に通じるところがあります。

卑近な例では、勢古さんも挙げている、「別れるつもりがなかったのに別れることになった」、「結婚なんかする交際ではなかったのに結婚した」や、「本当は外交官になりたかったのに医者になってしまった」、といったことが関係の絶対性ということでしょうか。誰かにひょんなことで出会って、人生が変わることがよくありますが、それです。株の場合も、「こんな株を買うつもりがなかったのに買ってしまった」、「この値段では売るつもりがなかったのに売ってしまった」いったことがありますが、これも市場との関係の絶対性かも知れません。そして、人は生きていく以上、このような「逸脱」から逃れられないからこそ、ごく自然に生きている人間の価値というものを、吉本はそれに勝るものはないとまで言っているのですね。
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価値ある存在-吉本隆明74語より(4)

2005-09-03 07:41:52 | 価値ある存在
今日は、勢古浩爾さんがまとめた「吉本隆明74語より」という本からの感想の抜粋、4回目です。青字は、吉本隆明の文章。黒字は筆者の感想。今回、赤字は勢古さんの文章。


不登校について考えるときにぼくがいつも思い出すのは、子どもの頃、教室に流れていた嘘っぱちの空気です。偽りの真面目さ、偽りの優等生、偽りの品行方正-先生が求めているのは、しょせんそういったもので、見かけ上だけ、建前だけ申し分ない生徒でいればそれでいいのです。(略)ぼくはそれを、「偽りの厳粛さ」と呼んでいますが、とにかく先生と生徒の両方で嘘をつきあって、それで表面上は何事もなくうまくいっているような顔をしているという、そういう空気がたまらなく嫌でした。(「ひきこもれ」)


この箇所だけは、勢古浩爾の文章が的を射ている例を多く出されているので、引用させていただきます。

その「偽りの厳粛さ」をもっと一般的に、形式主義、といいかえていいか。たとえば、定時になっても帰りにくい社内の雰囲気。みんながまだ仕事をしているのにお前は帰るのか、という有言・無言の圧力。これは仕事だ、つまらぬ自尊心なんか捨てちまえ、という聖仕事主義者。成果主義を標榜しながら、表面だけそつがなければそれだけで評価されてしまうという形式的査定。親睦というウソで固めた社内イベントへの参加強要。何の実もないのに延々と続く前例踏襲と、責任を負いたくないばかりに新規の行為を回避しようとする前例主義。腹の底を隠しながらの、上辺だけもっともらしいだけの業界の会合。報道番組司会者のまじめくさった表情、ずらりと並んだコメンテイターたちのもっともらしいコメント。(略)(勢古浩爾)

◇コメント

先週ご紹介したたまらない魅力を持つ珠玉の人たちも、このような偽りの厳粛さを何よりも嫌っているに違いありません。私も大嫌いです。自分の心情をねじ曲げてまで偽りの厳粛さに寄り添うことはしたくありませんでした。そのために、会社の中で不利益を被っても仕方がないと、新入社員の時から腹をくくっていました。幸い私が入社できたのは外資でかなりひらけた会社であったので、飛び出すこともなくこれました。その代わり、仕事そのものにおいては、人並み以上の結果が出るようにしようと心がけるようになっていました。もっとも、要領が悪かったためどの職場に代わっても結構遅くまで働きました。1ヶ月休みなく働いた時は、人と1対1で話をしていても眠気が襲ってくるほどでした。学校に行っていた時の記憶は定かではありませんが、吉本が言うように、何よりも先生に気に入られる答えを無意識のうちにさせられていたのかも知れませんね。世の中は、答えのないことが一杯あるのに、お手本のような答えを考える、そして良い点をとる、そうした偽りの優等生、真面目さ、品行方正は、社会に出たときに役立つかと言えば、決してそうではありません。むしろ弊害にすらなります。なぜなら、チャーンズという人が言っているように、「この状況においてどのように行為するかを判断する技能から、これはどのような状況なのかを判断する技能への一般的なシフト」が、仕事においても何事においても求められているからです。「この状況においてどのように行為するか」というのは、学校においては、与えられた問題にどう答えるか、ということですね。「これはどのような状況なのかを判断する技能」とは、自ら問題を見出す力ということになります。問題が与えられるのを待っている人ばかりでは、いつの時代でも、新しい領野を切り開くことは出来ないでしょう。ひきこもりが増えているということは、学校で嘘っぱちの空気が充ち満ちているばかりでなく、子供に接する時間の多い母親を中心に、家庭まで嘘っぱちの空気に充ち満ちているためでしょうね。多言は要しません。せめて、以下のような吉本の言葉を味わってみて下さい。

人間の生活には幸福な生涯も不幸な生涯もないものでしょう。(「遺書」)
   
この世に「幸福なる家族」なんていません。「不幸なる家族」もいない。あるとき幸福でも、次の瞬間不幸になるかもしれない。社会的条件が整っても、個人が幸福であるとはいえないし、社会的な条件が整わなくても、とても幸せということはありうる。(「人生とはなにか」)

人間というのは、男でも女でも、一生のうちに、一緒に住んでもいいと思う人は、必ず一人は現れるものだといえそうです。ただいつ訪れるかは全然わからない。現れるのが80歳のときで、あと1年で死んでしまうかもしれないとしても、それはそれでいいのです。人間の生活には幸福な生涯も不幸な生涯もないものでしょう。ままならない時間が過ぎていく中で、或る日、天空を仰いで眼を細めて安堵する瞬間があったら、そのときが幸福ではないのかな。(「遺書」)

私の場合、一緒に住んでもいいと思う人が非常に若いころに現れてしまいました。そして、気がついたら37年間も共に住んできました。仕事を辞めてから、日中から何者にも拘束されず、風呂に入って身体から力を抜く瞬間など、「眼を細めて安堵する瞬間」かも知れません。こんなブログを気儘に書いている瞬間も意外と幸福な瞬間かもしれません。こうした気持ちに何故若い頃からなることができなかったのだろう。仕事に時間を取られすぎたと言えば言い訳になりますが、長い間仕事をしなければこのような達観にも至らなかったかもしれません。いやはや人生は意外なことが多い。
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価値ある存在-吉本隆明74語より(3)

2005-08-27 14:32:51 | 価値ある存在
今日は、勢古浩爾さんがまとめた「吉本隆明74語より」という本からの感想の抜粋、3回目です。青字は、吉本隆明の文章。黒字は筆者の感想。

ごく普通のサラリーマンであり、会社の同僚であり、また工員さんでありといった仲の世界は、退屈なものだとおもうかもしれないが。そうではない。そういう世界に、ときには珠玉のような人たちがいる。そのたまらない魅力は、たとえようもない。それらの人たちと、会社や上役の悪口をぐちりながら飲むとか、「パチンコ」遊びをすることの愉しさは、経験のないものには、わからないだろう。珠玉のような人がいそうな文学者の世界のほうが、ずっとくだらない奴がおおい。 (「パチンコ考」)

◇コメント

たまらない魅力を感じる珠玉のような人たち、とは持ち上げすぎのような気がするが、逆に反吐が出そうな言動をする上役ならいました。そうした人たちとの比較においては、確かに珠玉のような人たちといっても良いかも知れません。私の場合、それはどういう人たちかというと、いわば無私の心でこちらの頼み事をサポートしてくれるような人でした。実はこうした人たちこそ会社をその基礎のところで支えているのだと思います。これから仕事をする若い人たちも、このような人たちをなるべく多く色々な組織で見出すことが会社で生きていく一つのコツでもあるでしょう。そうした人々は、その分野において大局的に物事が見れるエキスパートでもあります。いわゆる出世した人間には少ないのですが、それを補佐する人間にはたまにいるものですね。

武田薬品工業会長の武田國男さんが、日経に掲載した「私の履歴書」の中で、何とか会社を建て直すための有能な補佐役を見つけようとしていたとき、当時、国際事業部室長だった長澤さんという方が、上司が替わってもずっと同じポジションにいるが、彼はごますりとは違うという評判を聞き、彼が駐在していたフランクフルトまでわざわざ行って話をしたそうである。その時の印象を武田さんは、「相棒は頭の回転が速くて緻密、それでいて真っ正直で私欲のかけらもなかった。」と言っている。この長澤さんを見出したことが、その後の武田薬品工業の発展につながっているのですね。
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価値ある存在-吉本隆明74語より(2)

2005-08-20 13:37:53 | 価値ある存在
今日は、先週に引き続いて、勢古浩爾さんがまとめた「吉本隆明74語より」という本からの感想の抜粋です。青字は、吉本隆明の文章。黒字は筆者の感想。

市井の片隅に生まれ、そだち、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。(「カール・マルクス」)

(人間の生き方において)自分の意志力が貫きうる範囲は、まあせいぜいいって半分です。あとの半分は外界が決定するのです。(「敗北の構造」)

のんびりやろうが、普通にやろうが、急いでやろうが、とにかく10年という持続性があれば、かならず職業として成立します。面白くても面白くなくても、コツコツやる。必死で頑張らなくったっていいのです(「ひきこもれ」)

◇コメント

吉本が「カール・マルクス」で述べたこのような言葉が吐ける人間は、あなたの周りにいるでしょうか?千年に一度しかこの世に現れない人物も、それに先立つ何百世代もの祖先の血縁の連鎖の偶然の結果で、この世に生まれ出ているにすぎないのです。それがたまたま本人が生きたその時代の環境と交わり、ある分野においてその時代が要請する「才能」が発揮されたにすぎないと言えます。何故に、市井の片隅で自分なりに素朴に生きる人間と価値を隔てる必要があるでしょうか。人類の連鎖としては同じ位置付けとして考えなければならないと思います。寒冷な気候に適応した白人と、熱帯の気候に適応した黒人の間に、外観による価値付けを行う人間がいるとしたら、いったいそれはどういう根拠からなのでしょうか?それとおなじで、人間の生き方もそれぞれの環境において、半分は外界に決定されながら異なっていくだけですね。そこには価値の序列において優劣を示す論拠はないのです。
こうした考えは、仕事を進めるに際しても肝に銘じた方がよいと思います。あなたがもつ言われのない「優越感」のようなものは、そのまなざしを受ける人間の直観に必ずや捕捉されているものであると考えた方がよさそうです。

市井の人でも、10年かけてコツコツやれば職業として成立するという吉本の意見は全くその通りですね。問題は持続するかどうかだけであり、これが「価値ある存在」となれるかどうかの分かれ目になるようです。
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価値ある存在-吉本隆明74語より(1)

2005-08-13 17:20:56 | 価値ある存在
これから土曜日の数回は、筆者が若い頃から気にしていた吉本隆明の思想に関して、勢古浩爾さんがまとめた「吉本隆明74語より」という本から、思うところを記述してみます。週末は、いったん泥臭い株の世界から離れてみるのも良いのではないでしょうか。(青字は吉本隆明の言葉、コメント=筆者の感想)

結婚して子供を生み、そして、子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ、そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値がある存在なんだ。 (「自己とは何か」-敗北の構造)

みなさんの方では、学校をでて会社に入って、定年までの給料も計算できるというバカバカしい生活になんの価値があるのか、と逆に考えるかもしれません。もう少しして就職すれば、そんなことはウソだとすぐ判ります。つまりそういうふうにおあつらえ向きには、人間は生きられないわけです。そして、そこから大なり小なり逸脱してしまうわけなんです。だから、本当はそんなふうに生きられれば、どんな偉大な人といわれる人よりも、価値のある生き方だといえるのです。(「敗北の構造」)

◇コメント

さすがに、定年までの会社生活を見通してその会社に入る若者は少なくなったようですね。私が会社を辞めるときに後に残った30代、40代の人間は異口同音に、何年か先がどうなっているかは全く分からないと言っていました。現に辞めてから2年が経って、元の事業部は他社に売却されました。新しい会社に移る人間もいれば、これを機に元同僚が起こした会社に転職したものもいます。これから先も何が起こるか分からない時代に入ったようです。会社や組織の寿命が短くなってきているのですね。会社そのものは存続しても、事業内容が全く変わってしまうことにより、元の仕事の知識・ノウハウが生かされない事態が容易に現れてきているようです。しかし、昔から言われるようにつぶしがきく人間は、周りの環境がいかように変わろうとも、基本となる生き方の基盤が出来ているので適応がたやすいのですが、その会社のその職種にのみ効力をもつような仕事に埋没してきた人間は、いともたやすく「逸脱」してしまうのです。世の中がどう変わろうとも、生きていけるだけの「知恵」さえあれば問題はないのですが、この「知恵」というのはどういうものか、次の吉本の言葉をよく噛みしめるのが良いかも知れません。

<頭のいい奴って、ろくな奴いないものね。(「ハイ・エディプス論」)>

1.「頭のいい人というのは、世の中にたくさんいます。そういう人と競り合わなければならなくなったとしても心配しなくていい。頭がいい人というのは、自分を鋭く狭めていくようなところがあります。長い目で見ると、それはそんなにいいことではない。熟練した職業人になるには、少しゆるんでいて、いい加減なところがあって、でも持続力だけはある、というのがいいのです。(「ひきこもれ」)

2.「学生さんたちとはわりとよく付き合っていました。いわゆる頭がいい学生たちがセンスがいいかといえば、これは概してセンスが悪いですね。何てセンスが悪いやつらだと思っていました。逆に世間では頭が悪いという通り相場になっている大学の学生さんは、概してピント外れでない、いいセンスを持っていて、感心するところが多かった。」「(頭のいい学生や研究者には)こんなことを突っ込んでも、これからの時代、ちょっと使えないぜというような、無駄な突っ込み方をしている人がいます。」(「遺書」)

◇コメント

会社にも「頭のよい人」はたくさんいました。そういう人は現実に起きている問題に対して実に要領よく「当面の解決策」を見出します。確かにそれでしばらくはしのげますが、世の中が根本的に変容を遂げようとしているときは、従来の延長線での解決策では到底対応できないものです。しかし、頭のよい人は絶えず周りをうならすロジックを考え出します。考え出すというより、ひねり出すと言った方が適切かもしれません。破綻すべき将来はまだ来ていないため、誰もそのロジックの正誤については判断を下すことができないのですね。そうでないことを示す現実があればよいのですが、問題を起こしている現実を踏まえて、頭のよい人は誰もが思いつかないような「解決策」なり「考え方」を提起するのに秀でているため、それを否定することが誰もできないのです。これが、成功体験をもつ企業が、捨て身のベンチャー企業に足下をすくわれてしまう遠因でしょうね。ベンチャー企業は、既存の大企業と同じ戦法をとっていては勝ち目がないため、必死で新しい方法を考え出し、それを遮二無二実行します。そして、新しい世界が開かれていくのですね。

株の世界は、頭がよいも悪いもありません。結果がすべてを語る希有な世界ですね。しかし、それを仕事としているアナリストのような人々は、一体、どのように考えて仕事に携わっているのか、少し興味があります。何しろ自分の周りの同僚もある種の競争関係にあるでしょうから、チームを組んではいても普通の事業会社と違って、成果を数倍にする協働の「動機づけ」が働くものかどうか? また、会社から提供されるリソース(様々なシステムリソース、情報源、顧客との基盤など)をどう使うかが結果を出せるかどうかの分かれ目なのかどうか? 等々です。個人の株トレーダーも、つくづく良いセンスを持っているかどうかが勝敗の分かれ目となると感じています。ところが、そのセンスとはいったいどのようにして磨かれるのでしょうか?
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