まつや清の日記 マツキヨ通信

静岡市議会議員 まつや清の日常を毎日更新!

20日(日)11:30~13:30 地元スーパー前での署名活動デビュー

2012年05月16日 | ニュース・関心事


竜南小学校前のイオン(元東海マート)前で実験的に県民投票の署名を集めてみます。どんな反応が出てくるか楽しみです。まだメンバーの確定は3人ですが、お手伝いできる方がいましたらご連絡下さい。署名しやすいイメージ出したいですね。

CENOVAの裏のけやき通りでは19日土曜日の午後、これも実験的に街頭での県民投票署名も始めます。同じ場所に同じ時間に毎週、署名に立つことが多くの市民の方々に印象付けられます。こちらは葵区以外の人も通るので他選管受任者が必要です。

2ヶ月間、出来るだけ多くの人たちに「浜岡原発再稼動」に一人ひとりの意思を示すことの大切さを訴えていきたいと思います。街角ステーションもエコハウス、喫茶店コンテの2ヵ所が引き受けてくれることになりました。協力お願いしますね。

2012年5月12日 ボロヂィーミル・チィーヒー(今中哲二さんと連携)>

2012年05月15日 | ニュース・関心事
※写真は、キエフ市内のチェルノブイリ博物館。中心は事故処理作業に従事した人々が中心の博物館。事故時に活躍した装甲車が入り口に展示されている。

※「キエフ州ポリスケの終焉(今中哲二翻訳)」というピースボートでの報告の日本語パンフをもらう。ウクライナの伝統料理のお店で昼食をとりながらの面談。

1、チェルノブイリ事故時の状況、事故後の数年の補償の法律制定までの経過

ボローヂャ 事故後、ソ連の崩壊までは統一的法律はなくてばらばらな法令。上意下達の方式 命令は絶対。その当時、ソ連政府の対策決定は直属の事故対策委員会が副首相レベルで作られていた。チェルノブイリにも来ていた。原発の周辺にはワーキンググループがあった。ソ連政府の決定を直ちに実施する体制がきていた。

中央からの指示に従って現地で動いた結果を報告するという中央政府の決定は絶対的なものであった。しかし、事故の規模が大きかったために把握した状況は総括的なものでなく一面的なものも多かった。このシステムの欠陥は、こうした対策をとればいくらかかるかをまじめに計算していなかったことだ。一方では、費用は莫大であったがソ連政府の予算全体も大きかったのであまり気にすることはなかった。もうひとつの欠点はすべてが国に所属して誰一人としてその決定に批判できなかったことだ。上の人が考えたらそのまま実行してしまう。自分も現場で処理作業にしていた。

途中、聞き取れず、昼食も始まり記録なし。

2、佐藤さんから震災センターの趣旨について説明にボロージャさんから震災センターとは何ですか、将来は国連とか、政府とか、アドバイザー機関になるのですか、の質問。それで、超党派の自治体議員構成で、無所属の佐藤さん、民主党の古市さん、みどりの党の松谷と紹介、被ばく者援護法の制定や子どもたちの放射能被ばく軽減のための保養事業もやっていることなど紹介。事故後に保養事業が続いていると聞いているので学びたいと。

3、保養事業について。

ボローヂャ ソ連でも保養はすぐにはなかった。肯定的に評価できるものではなかった。 被災者支援は拙速で必ずしも効果をあげたものではなかった。児童の保養ということについては外国からもずいぶんやられているが、個人的な意見では とにかく遠くに連れて行かなければということであったが、しかし、それ以上に重要であったことは汚染されていない食品を確保することであった。

事故2,3年たって、汚染地域は、それほどの汚染ではなかったというところもあった。汚染地域に近いところでも汚染の低いところがあったことがわかってきた。むやみに遠くに保養させるのでなく安全食品提供することが可能であった。

当時のソ連でジトーミル州の子どもが同じジトーミル州の中でやっていればジトーミル州での雇用にもつながった、常に雇用していることで無駄な費用もかからなかったはずだ。その当時国の方針としてサナトリウムでの保養についての費用は国が出した。わずかしか出さなかった為サナトリウム側はやっかいものという受け止め方をした。

サナトリウムに対してソ連時代は国の権力の締め付けがあったが、崩壊後にその権力プレッシャーは緩んでやりたくないと言い出した。しかし、5年の間、汚染値の低く近いところのサナトリウム等保養施設は利用されなかった そのためインフラも劣化してしまった。 その使われずにいたものを新たに使えるようにする余計な労力を費やした。

90年代の末に保養を受け入れていたサナトリウムの施設は貧弱で子どもを連れて行って効果があるのかという状況だった。被災者の補償の為に支出されていたが効果的ではなかった。国の予算がなくなってきた時点でサナトリアムはお断り、使えたはずの地元のサナトリアムは使えなくなっていた。

同じ市の中でも汚染はスポット状になっていて、子どもたちの為に遠方でなくても汚染の低い場所に学校を作るとか、保養施設を作るとか、できるだけ負担が少ない方法をとるべきだ。汚染地では投資環境に置かれていないため、国の支援が地元に残るような方法を考える必要がある。ウクライナ政府はキューバに保養所も設備したが、そのお金は観光会社、実際には航空会社に流れていった。

3、質疑。

岩佐 通学における放射能被ばくを減らす方策はあるか。
ボロージャ 通学も大事。保養と通学とどちらが大事か、外部から決められることではない。というのは学校をどうするか、市の単位でコムにぃティ全体になってくると思うので
それぞれの自治体のレベルで新しいコミュニティの中でも年齢層に応じて、残ろうかどうかの選択もある。

一家で移住する場合に子どもに大きなストレスがかかってくる。住民に情報が与えられていて自主的に選択することが大切。というのは 高線量外部被ばくは減ってくるわけで どちらがいいか住民が選択できる。数年間の高線量を避けたいと考えるか、人間関係が全部変わってしまうところに移住するのか、それぞれの人が選択すると。

医学的見地からいえば、放射線ストレスと精神的ストレスはフィジカルでは同じことだ。 精神的ストレスの被ばくがよりも大きく出てくる場合がある。情報を提示して、こちら側の勧告がかみ合わなくても本人が主体的に選択できるようにしないと重大なストレスにつながる。

情報連絡センターは議員どおし、広い意味での情報センターにすれば、専門家の皆さんの意見を聞いて住民が自分で決められるということになり、がいいのではないか。チェルノブイリとは違うが、環境開発のプロジェクトでも住民インフォーメーションセンターを作れば実際に機能する。レジュメにも書いたが、91年グリーンピースと連携して情報提供ということで、当時、小さなNGOだったが移動測定室をつくったことがある。

古市 対策費はソ連政府の財政大きかったとのことだが、崩壊しなかったならばうまくいったのか。
ボローヂャ その後の展開は、崩壊如何に関わらず現実的に財政難になってきた。国の経済状態を考えた上での法律ではなかったのでいずれは同じ状況になった。ウクライナだけでなくロシアでも。社会的不公正の問題もある。事故処理作業者は劣悪な労働であった。 彼らのような労働をした人がほかにいなかったわけではないが、がんについていえば、国連全体で汚染地域が特別に増えているわけではない。いちがいに原発だけにというわけにいかない。汚染地のがん、データもしっかりしていない。 

古市 ソ連政府の崩壊にチェルノブイリ原発事故が加速したともいわれるが。
ボローヂャ 崩壊を加速した三つの要因。経済的なものではなく一般庶民の考え方が国や政府が面倒みてくれるという意識。いうことを聞いていればだったが、事故の結果から誰も面倒を見てくれない、30キロ圏内に入って作業をしろといわれて病気になることが起きた。ソ連のシステムの弊害に人的資源を使われてしまった。上意下達で戦争もしていないのに五十万以上の人が動員された。その結果、自分たちのことを考えていないことが分かった。もうひとつは経済的な問題。85年に石油価格が下がった。ソ連経済は軍事的精生産、ガスとか石油に依存していた。軍事は発展していたが日常品は外貨によって輸入していた。85年に石油価格が半減してたことにより輸入ができなくなった。もうひとつは 政治と直結したものではなかったが、89年から言論自由になってみんなが批判し始めたことが崩壊の要因。

松谷 放射線被ばくによるがんは公害被害という指摘もある中で、がん発症に放射線ストレスと精神的ストレスに差はないとのことだが、このことは、今、日本政府がいっていることと表面的には同じように聞こえるが、真の意図は何か。
ボロージャ 移住している人を多く知っている。スイスのドキュメンタリーチェックオフ 一緒に仕事をした。汚染地域に視察について回った。その時に移住した人の話も聞いた。彼らにとってのトラウマは甚大であった、一生忘れられない傷になっている。なので、ですので病気は被ばくのせいとは考えにくい。心理的なもの大きくある。チェルノブイリ事故でも移住のプラスとマイナスを考えなければならないという意味でいった。

国とって 移住させることが楽であった。汚染数値による移住はよくない。まず、個人の受け取り方も違う。トラウマにならないようにコンサルテーションをとってそれぞれに応じた対策が必要だ。一定以上の被ばくで100%病気になる話ではない。放射能にしきい値がある話ではない。大気中に炭酸ガス増えれば、すべての人が頭痛をおこす。放射能はそうならない。なので放射性物質による汚染の場合は、移住するやり方をとっていいわけではない。 

このボロージャさんの回答には納得できず、木村さんと竹内さんに再質問。木村さんは、放射線に関する教育についてもっときちんとした形で行う必要あるということと、放射線被ばくのしきい値がないことを、軽く見るか重く見るかは、26年間のチェルノブイリ原発事故のフィールド調査をしっかりとやる中で対応を考えるべきと思う、と。竹内さんは、住民が様々な情報を得た上で、住民自身が自分で納得して選択を決めていくということを強調しているのであって、移住の選択はあるわけで移住を希望する場合に政府が財政保証をするということになっていることが大事だ、と。

強行軍のチェルノブイリ原発事故放射能汚染地帯から戻りました

2012年05月15日 | ニュース・関心事
<強行軍のチェルノブイリ原発事故放射能汚染地帯から戻りました>

※写真は、ナロージチ役場から30キロ暗い離れているんでしょうか、廃村となったヴェリーキークシム村の教会。道を挟んで独ソ線勝利の石碑がありました。柵の内側の空間線量、事故から26年経ても0,453μs/h。廃墟です。

昨日の朝7:00に成田空港に到着しました。前々日が29度という夏の日差し、昨日が10度という寒い朝。クーラーは切っていましたが気温差に風邪をひいたようで頭はガンガン。どうなることやらの飛行機の中でした。
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自宅に戻って「時差ぼけ」を解消しようと、ねむいのに眠ろうとしても寝付かれず、結局、夜の11時頃にやっと眠れる状態。24時間くらい起きていたことになります。その間、訪問報告を少しでもとアップしました。

いろいろミスが目立っています。それでも、今日の朝は街頭演説に出かけようと6:30に起きましたが、幸いというか、残念というか、あいにくの雨模様。また布団に戻りましたが今度は寝坊。体調管理難しいですね。

ウクライナでの興奮、思い起こしながら、今日から静岡での活動再開です。昨日の川勝知事の定例記者会見。毎日新聞には、県民投票は知事選で、一方で県民投票に否定的の両方。読売、静岡新聞には前者の報道はありません。

とにかく、県民投票の署名を増やしていくしかありません。午後は、福島の子ども達の保養事業の計画策定のために宿泊所になる予定のナショナルトレーニングセンターを見学してきました。すごくいい所でした。続きを読む

2011年5月11日 ムイコラ・ディートフさん(ジトーミル国立農業・生態学大学准教授)

2012年05月14日 | ニュース・関心事

※※ 写真は、ディートロフさんらと救援・中部の河田昌さんらと共同開発している18haの菜種畑。

ディートフさんは、木村真三さんとタッグを組んでナロージチ地区のこれまでの26年間の低線量被ばくの実態調査を取り組んでいる方です。行政長のインタビューに途中から参加していますが、昼食をとりながら彼の考えを聞きました。
...
汚染区域は、1ミリシーベルト以下の第4ゾーン、1ミリ~5ミリの移住の権利を選択できる第3ゾーン、5ミリ以上の強制移住の第2ゾーン、15ミリの即時退避の第一ゾーンの4つに区分されて印すが、ナロージチ区は、全部の区分があります。

ディートフさんは1988年にジトーミル州に放射線医学センター設立し、肉と牛乳の放射能量をどう減らすかに取り組んできた。例えば、スターレクチャウガ村やクリスチニーカ村で牛乳1ℓ15000ベクレル。汚染地から乳牛を3年間、非汚染地に移動させた、その間、政府は外部から非汚染牛乳が届けていたといいます。

しかし、当時の地元住民は共産党の「洗脳」が成功、西側の情報は敵の宣伝、ソ連の放射能は違う、と。3年後に戻り始めた。25年間、チェルノブイリと関わってきた。福島原発事故に際して1、客観的情報の提供、科学的根拠ある勧告が必要だ。

世界には放射能の高い所に住んでいる人もいる、憶測で不安をもったりしないように、自分で判断できるように。低線量被ばくは、大きな影響はない、が、100%影響がないとはいえない、できる限り低く抑える事が必要、生活指針が必要だ。

土壌、森林、内部被ばく、病院などデータベースを元にする木村さんの研究は重要だ、と。それは当然だろうと思うのですが、政府関係者も「同じ現場」を見て何故日本国内での福島原発事故対策がこうも揺れ動いているのか、です。

これだけの被害をうけながら、ウクライナという地域がソ連に依存するエネルギー源構造でディートフさん自身は「徐々に原発の削減」論だと。とても驚きました。日本の全部停止知っていました。昼食後は、18ヘクタールの菜種栽培現場へ。

1986年チェルノブイリ原発事故で「消えた町・村」を刻む石碑

2012年05月14日 | ニュース・関心事
この写真が1986年に、映っていませんが右に2006年に「消えた町・村」の名前が刻まれています。26年前の原発事故、今も続く放射能汚染地帯、その中で悪戦苦闘するナロージチ地区住民とパートナーシップ組む「チェルノブイリ救援・中部」。

2011年3月11日福島原発事故で双葉郡6町2村の住民避難が今も続いています。川内村遠藤村長は、福島県原発事故調査団の一員として、私と同じ「現場」を見て「帰還の決断」したとのことですがもっと実態把握が必要ではなかったでしょうか。

2012年5月11日 ナロージチ地区 行政長インタビュー全体

2012年05月14日 | ニュース・関心事
写真は、放射能汚染で失われた石造記念碑教会前でトローヒメンコ・ヴァレ-リイさんと握手。役場前 0.17sv/h。行政長は大統領の任命制。

佐藤 訪問趣旨。福島の実情 16万人避難、自治体議員グループ、援護法制定に向けて 学びたい。

木村 森ゆうこさんの時にも住民の1人としてお話ただいたが、今日は福島原発事故の被災者自身ですので現実をお話ししていただきたい。

行政長 原発事故は日本でもウクライナでも悲惨、住民にとって不幸なことだ。汚染地域の人のために法律を制定されるということだが、住民、土地が被害を受けたことが大前提になっている。勿論、人命が一番重要。大事なことは、汚染程度。土壌の調査を精密に行い、住める場所かどうかを決める。

住むのに適さないのであれば 住居を提供することが必要。400世帯が移住の権利を持っているが国が提供できない。もし住める程度であれば、暮らしていく条件を整える必要がある。汚染されていない食品を確保するということだ。ナロージチ地区に、1992年まで非汚染食品の提供が行われた。それによって内部被ばく線量は事故直後より下がったという結果が出ている。

汚染されていて、農業に適しない土地については実験が行われてきた。なたねの栽培だ。直接食べるのでなく、菜種の油をバイオ燃料にする、この可能性が出てきている。なたねを栽培する場合、セシウムを吸収する性質があり農地を改善していく効果が出ている。

汚染程度の低いところについては、人が住んでいけるという判断のつくところは除染で 土地を洗う、農地であれば汚染物質の吸収を下げるとか。そのようなナロージチ地区内の住居の屋根とか、柵とか、汚染されたものを廃棄物処理場で処分し、新しいものを作ってきた。

この住民の子どもの健康については、1年一度は汚染されていない地区で保養する。病気の場合はサナトリウムで保養する。キエフの00先生の検診が行われてきた。

この地域は冬場の寒さが厳しいことがあって、森が多く薪を使っていた。樹木の汚染にかんがみて、事故以前ガスが引かれていなかった地区にもガス管を敷設することになった。ほとんどガスが来ている。井戸は汚染の危険性がある。深さ75メートル、100メートル以上の掘りぬき井戸を作って安全な地下水をとってきた。住民の健康リスクを減らすということだ。皆さんに注意を促したいのは出入り車両について、出る時に放射線測定をした方がいい。車輪等に付着した放射能の拡散をチェックした方がいい。

このような除染、非汚染食品の提供措置がとられてきた。地区の汚染は残っている地区内でも土壌の汚染測定も行われてきた。ゾーンの見直しだが、26年たって線量は下がって来ていて、昨年も調査した。まだ結果を見ていないが、5年前の結果では住んでいくのに危険はないという結果がでている。除染の成果や時間がたって放射線が減ってきた。いま第二から第三に格下げをしようとしている政策が出てきている。

玉ねぎ、にんじん、ジャガイモなどは基準以下、森林、きのこ、ベリー、野生動物の肉はまだかなり高い値が出ていて食糧に適さない。一方、水系では川とか池についてのジトーミル州の調査では地区内の川の魚は基準値以下で食べても大丈夫、売ってもいい結果が出た。

1991年ソ連が崩壊する直前、社会保障は国の対応の可能性に応じてやるべきであるが ソ連の崩壊でウクライナが対応せざるを得ず、今日 補償は十分にやられておらず被災者の中に不満が出ている。法律自身は悪い内容でなく法律を実施するだけの予算がないということで実施されていないということだ。短く すべての問題に触れた。あとは質問に答えたい。

岩佐 移住できない世帯400があり二万人くらいが移住したとのことであるが、優先順位、こまかい規定があったのか、また、移住先はどれくらい自由があったのか。

行政長 優先規定はあった。子どもいるところを優先している。400世帯のうち 60数世帯は子どもがいる。移住できないうちに子どもが生まれたとか。400世帯が移住できない事実であるが、5年前、10年前とか 意識も変わって 汚染されていてもこの地域に生きていくんだと切り替わって来ている。

今現在、国の方から26のアパート移住先として割り振られた。移住したいができない世帯から15世帯 処理手続きを進めている。見通しがないというわけではないが、希望者を移住させるためには5,6年はかかる。

しかし、国の方から見ると、移住した人も保障していくことになるが、こちらに住んでいて移住の権利で移住したが戻ってきた人 汚染後に移住してきた人たちには権利はないが、移住を保障しなければならないという問題が出てきた

移住先の選択の問題については 農村地帯で似通った場所、ジトーミル州内、それにつけたす形で住居を作った。その後 国の予算がなくなってきた。都会のアパートを提供することになっていた以前のように 村のようなコミュニティがまとまってのものができなくなってきた。日本で移住をする場合の配慮が必要となる。

松谷 ICRP、ECRRの被ばくによる健康被害の認識のちがいについてどうみているか。

行政長 地区病院の方々が正確かと思うが、地区住民に関して内部被ばく線量の測定しているが、地区内の子どもは100%病気のない子どもはいない。 私も新しい財源を国として作るべきであると考える。州、政府に対して、何度も陳情しているが、補償を切り下げようとしているかどうかは私からは言えないが、少なくも彼らは今やめるとはいわない。財政が苦しいのは事実だ。

医薬品については、おりてくる予算は地区病院に必要な医薬品のうち、1カ月に必要なものうち3分の1にしかならない。法律では無料となっていても実際は、住民が有料で医療を受けざるを得ない。チェルノブイリは次第に忘れられて行く傾向にあって、医薬品以外にも解決すべき問題がある。廃屋の解体処分、その後に処分場に埋めるとか、そのあとに植林をすべきとか。うち捨てられている状態である。

松谷 財源の問題についてであるが、必要であるなら税金の増税とか、あるいは、金融危機の後に金融取引への課税、国際連帯税も議論されている。チェルノブイリ-福島の原発事故を考えると国際的な原子力災害対策費をIMFのような国際的な損害賠償協定による財源確保という国際的な機関の設置も必要になるのではないかと考えるが、いかがか。

行政長 興味深い。地区レベル、政府レベル、州レベル、影響力がない。市民団体「チェルンブイリの人質たち」は、ジトミール州で日本の市民団体と連携している。国際的支援で新しい円借款で村の医療機関の改善も進んでいる。

古市 事故前の人口構成や事故後の人口構成はどのような常態か。

行政長 現在、3万人だった人口は、1万1500人、正式に9675人で子どもたちは1800人で増えている。移住した人が2万人、戻ってきた人が1500人くらい。与えられた住居に住んでいたが、子どもが大きくなって子どもに住居を渡して戻って来ている人たちもいる。90年代に多くの移住が行われていたが、公営住宅は40㎡、息子たちが 嫁さん、孫もできた、狭いので戻るというような。しかし、戻ってきた子どもはほとんどいない。移住先でお金に困って売って戻ってきた人たちもいる。

古市 自動車のチェックはどのように、当時の除染のレベルは。

行政長 正確には覚えていない。今はやっていない。地区内の幹線道路に検問所をおき、チェルノブイリ方向から来る車については厳重な検査があって拡散防いでいた。地区内の農産物の持ち出しは禁止されていた時期もある。

現在でもキエフへつながる30キロゾーンの道路のあるポーリスキでは、現在も検問所がある。勝手に30キロ圏内に入っていかないようにと。かつて、チェルンブイリの方にいっていたことがあって、自分が車で行った時は車の車輪を特殊な洗浄液によって除染する装置があって車の車輪の放射線測定をやっていた。ちなみに豚インフルエンザの問題が 起きた時、ベラルーシからのくるまの検疫をやった。

佐藤 子どもたちの保養は年間、1回ということだが実態はどのようなものか。 
行政長 保養の場所については、ウクライアン各地、黒海近く、いろいろ。 年間ジトーミル州で年24日、近年は健康診断の結果、腸が悪ければ、それに応じたサナトリウムに国が保養させることになっているが、これら以外にもスポンサーを見つける努力をしている。一般的に国が負担をする。

岩佐 移住できなかったら外で遊べない。ソフトのフォロー、映画館とか、ジムがあった方がいいとか、ストレスを解消する意味で、こういうものがあればよかったとか、あるか。

行政長 精神的なケアに関しては ウクライナの場合は残念ながらケアはなかった。マスコミ報道を通じて食べていけないものとか、食品が汚染されているとか 啓もう活動は行われたがストレスの方はなかった。カウンセラーが家庭訪問したり、テレビ新聞等通じてストレスを和らげるとかは。

ヂィードフ(農業大学の先生、途中から) 事故の86年時代はソ連時代で共産党のイデオロギーでは精神分析、心理学は懐疑的でカウンセリングン制度はなかった。今日はカウンセリングは改善されている。

松谷 昨日の非常事態省で住民保護課は、放射線被ばくした地域は「改善」しており、法律の「改正」が必要だ述べている。社会保障費の浮いた財源は地域の復興に使うべきと述べているが、この地区での産業の育成に関してお考えがあるのか。また、改正できないのは政治家が 大衆迎合主義で改正を訴えない姿勢が大きな問題であると指摘されていた

行政長 事故前、産業は農業以外にパン工場、レンガ工場、縫製工場があった程度であった。縫製工場はいまでもあるが、レンガもパンも長らくなかった。パンは再開のメドがでている。木の製材所の廃棄物でペレット作る木製工場ができた。国の方で復興の方向に向かっているというが、地区に住み続けている人たちで子どもたちの学校、生活の必要に迫られて自分たちで工場も起こそうとしている。改正したいけれども、議員が動こうとしないというが、彼らはそう考えているかもしれないが、地元で生活を何とか成り立たせるためにもやっている。

ヂィードロフ 第2ゾーンは投資できない、人が住まない地域だ。

行政長 例えば 幼稚園の園舎の改装時、第2ゾーンだと国からは予算は付かない。100人定員に135人も希望ある。日本の支援を受けて子どもたちがいま通っている。国の方針とは別に住民生活の改善に努力している。

ヂィドロフ 付け加えると、この汚染地域の農村地帯というのは 非汚染地帯の農村部に比べると保守的だ。ウクライナの非汚染地区の農業も悲惨な状態にある。ここはそういうわずかな補償もあるが農業は苦しい。わずかな保証ではあるが第3ゾーンになるとなくなるとわけで、すがる気持ちは当然である。見方や考え方の違いである。

佐藤 自治体の長としていいたいことは。

行政長 国に求めたいことはいろいろあるが、一番簡単なことだ。赴任して2年たつが非常事態省は誰1人も来たことがない。 非常事態省のゴトフィッチさんがいた時は、被災程度が大きかったこともあるが、毎月のように来て情報収集してきた。我々の方からも、絶え間なく陳情をしているがはかばかしい強い反応がない。

最後に、私個人としても住民に変わってご支援に感謝申し上げたい。日本との協力を続けていて、なたね栽培も州の要請で予算を出すという話になって来、JAICA申請している。 特に 福島の事故の悲劇が起きてしまったが、皆さんの問題の解決に努めていきたい。






2012年5月11日 ナロージチ地区 行政長

2012年05月13日 | ニュース・関心事

写真は訪問団と野記念写真ですが、後ろにあるのは放射能汚染によって廃墟となった村々の名前が記録されている石造。

非常事態省のレクチャー、論争を経て日本政府や東電は、26年間のチェルノブイリ原発事故のウクライナ政府の総括を或る意味で吸収しているのではないか、実際の現場のジトーミル州ナロージチ地区の行政長はどう考えているのか、そんな想いで出発。

キエフから3時間のクローステン、そこから2時間、チェルノブイリ原発から西に70キロのジトーミル州ナロージチ地区。ジトーミル州の人口は160万。その中の汚染地区の第一ゾーン~第4ゾーンの全エリアを抱えてきたナロージチ地区の人口は3万人。
...
現在の人口は、1万1500人、正式登録は9675人、子ども1800人因みにコローステンシ市の人口は事故前は11万人だったが7万人。移住しナロージチ地区の役場で地区長のトローヒメンコ・ヴァーリィさんと面談。質問への次の回答が実態だと理解。

「国に求めたいことはいろいろあるが、一番簡単なこと。自分が着任して2年たつが非常事態省から誰1人も来たことがない。我々の方からも絶え間なく陳情をしているがかんばしい強い反応がない」。非常事態省の日本へのアドバイスと現場の乖離の存在に愕然。

ウクライナ政府は、「チェルノブイリは終わった」と考えているようだが、ナロージチ区の26年間の放射能被ばくの実態解明が福島事故の放射能被ばく対策につながるとする木村さんの確信を地区長との面談や地域の人々の生活の中に見ることができたことは大きい。

地区長とのやり取りのあと、「チェルノブイリ救援・中部」の河田昌東さんたちのが進めているなたね栽培による土壌のセシウムの吸収とバイオ燃料生産の現場をジトーミル国立農業大学のムイコラ・ヂィードフに案内してもらったが、キエフでの報告はこれで限界。

詳細な報告を現地にいるうちに思ったものの強行軍のスケジュールで睡眠時間を減らして書いているもの間に合わず、11日の報告をアップしているのが帰国の朝13日。まず文章のみアップ。

2012年5月10日 コローステンホテル近くのレストランの大論争

2012年05月13日 | ニュース・関心事
非常事態省での住民保護課の職員の方からの報告を受けた後、コローステンホテルに向かい近くのレストランで食事したのが夜の10:00近く。ビールを囲んで大論争、翌朝に論点整理。写真はレストランのウクライナ料理。

1、 非常事態省が「私たちの誤り」という二つの視点。一つは、情報の隠匿、二つ目が被ばく者に対しての補償を一次的補償と社会保障制度としての様々な特典を与えてきたが、「改善」しているのにその社会保障制度を「改定」できていないこと。なおかつ、社会保障制度は、ソ連政府によってこそできたが、ウクライナの独立という財政確保の難しい現状の中で、「改善」されているのだから財源を地域の産業の復興に向けれるべき。
...
2、 これは日本で新たな法律制定に向けて参考にしてほしいと述べたが、まず「改善」が実態としてどうであるのか。二つ目に、制度の改善ができていないことを政治家のあり方論として述べられていることに妥当性があるのか。「改善」については、コローステン-ナロージチ地区で現状を11日現地調査を行う。制度の改善について、今中氏も指摘する「政治家の大衆迎合主義と現実的対応を迫られる」は本当であるのか。

3、 「改善」という中に、原発事故は何故、引き起こされているのか。日本は地震国、地震だから、「原子力をコントロールできない」として認識されているが、ドイツやイタリアのように地震国でなくても、原発ゼロを決めていることは(核廃棄物、プルトニウム=放射能被曝の危険性、専門家支配)をウクライナ政府がどのように認識しているのか。政府は、「改善」しいるとする現実とどう向き合おうとしているのか。

4、 政治家の問題として指摘されていることに、行政府としての「財源論」にもとづく社会保障切り捨ての側面がないのか。また、「改善」による土壌汚染に基づく4ゾーン規定に問題はなかったのか。本来、線量による汚染、健康対策をすべきであったのではないか。「改善」認識のもとをもたらすこの規定自体への問いかけから現実をもっと向き合う必要がある、土壌汚染にも線量規定も規定されているが、どう振り返るか。

5、 「改善」と「改正」というウクライナ政府の認識は、被ばく者の健康被害の認識がIAEAによる国際的な原発政策からの誘導、つまり2006年のチェルノブイリ事故20周年をめぐる「改善」認識があるのではないか、ウクライナ政府の復興に向けた財源確保の政治判断が背景にあるのではないか、の検証が必要である。非常事態省での説明は或る意味で日本政府が一番、そのことを吸収しているのはないかの懸念が生まれた。

6、 これらを背景に、調査団の論争としてまず、社会保障制度の「改定」は、財源論による被ばく者「切り捨て」政策でるとする指摘と政治に関わる立場から「大衆迎合主義と現実的対応策」という観点から是とすべき要素があるのではないか。原発事故被ばく者の現実への向き合い方、つまり、事故の発生の国家責任を明確にすること、ヒロシマ・ナガサキでの国家補償の観点(90年代にはいって)の課題を認識すべき。

7、 この国家補償(死ぬまで保障)は、水俣、イタイタイ病における「公害保障」と同質であるとの指摘とEURRの健康被害の警告と重ね合わせての再認識の必要性や非常事態省の線量規定の大幅「改善」主張に妥当性はあるのか。また、援護法の「申請」をめぐる「差別」問題発生の根拠となる放射線医学における被ばく=染色体破壊と遺伝をめぐる)認識の是正(五代先)と教育の必要性があるとの指摘等どう受け止めるか。

2012年 5月10日 非常事態省 住民保護課訪問

2012年05月12日 | ニュース・関心事
非常事態省では、日本大使館の参事官・中野洋美氏同席のもと住民保護課副課長のアントニーナ・イシチェンコ氏と土壌汚染規定担当のナターリヤ・シヴェラ氏と社会保障担当のナターリヤ・セミャニフスカヤ氏が担当してくれた。

資料として、91年段階までの法制定、内閣令など分厚いウクライナ語による2冊の解説本とウクライナ地域の放射能汚染地図をいただいた。3人からの報告については、夕飯時に参加者どおしの大論争になるのだが、保護課職員とのやりとりは違う機会に譲りたい。
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参加者質問としては、私からはソ連政府の事故秘密政策を乗り越えて法律制定に至るウクライナの「運動」について、汚染区域が2293から273に減少したことについて。岩佐さんから、法律の権利規定、制度設計、制定過程について。

古市さんから改正された法律、26年間の経験とアドバイスについて、佐藤さんから、被ばく者の国家登録について、等質問しました。実は、私への回答時間が極めて長く、15:00から16:00の約束が17:00までに延長されるも時間切れの実情。

一番の問題となったのは、放射能汚染の被ばくが軽減されているという「改善」の実態とそのことから法律「改正」の必要があるとの現在の状況と福島原発事故経験した日本や私たちへのアドバイの部分。その部分だけ紹介すると以下の内容。

「福島の方々に対する 26年間 勧告助言だが、地理的経済的条件を考慮して 一方で住民の精神的な問題も考慮していかないといけない。国際的水準に照らしても被災者にネガティブな影響が長く続いている。ウクライアナ自身のメンタリティもあるかもしれないが先祖代々の土地を捨てていかなければならないことがトラウマになって戻ってくる人々がいる。除染して住めるようにすることは範囲が広いうということ、財政的に負担が多額と言うことで国の政策として取らなかった。なので、状況をみて正しい判断をしなければならない。年間300億ドル、社会保障で国の予算から支出している。これは経済的に考えると被災者に選択してもらった方がいいのではないか。わずかでも特典としていくか、一次的補償にしていくか。
放射能汚染環境でいかに生きていくかについて、科学技術的な、環境の改善、がん、糖尿病、心臓欠陥が起きてきたときに医療的に対応できる、どこに住んでいく条件を見つけられるのか、汚染されているといっても適応できる、汚染を踏まえた上で生活できる条件を見つけていくことが必要。」
「この汚染地域は市町村で2293から各市町村における調査の結果273に減っている。様々な措置により 放射線量が軽減されたと考えている。しかし、法律に反映されていない。政治家が反映しなければならないが、政治家は、現在払われている補償を 他の重要な措置に使うべきと判断すべきであるができていない。ゾーンの見直しは、州レベルの議会の発議で決まる。州議会の議員は一般受けしないので、なかなか発議をしたがらない。 選挙民受けを考慮して政治的な決断ができない。政治家は、法律を制定すべきである。」

2012年5月10日 坂田東一ウクライナ特命全権大使への表敬訪問

2012年05月12日 | ニュース・関心事
チェルノブイリ原発事故から26年目のウクライアナ首都キエフ、スターリンゴチック建築を思わせる街並みに圧倒されます。日本大使館は、独立広場から2キロくらいでしょうか、フィルハーモニーのすぐ近くにあまり目立たないビルの中に構えています。

昨年10月に着任した前文部次官の坂田大使は、様々な事故対策をやってきているウクライナ、除染の経験も積んでいるが費用対効果については彼らなりの評価がある、ウクライナにうまくできたこと、できなかったこと、全部調べて帰ってほしい、と激励。

ざっくばらんな意見交換の中で、遠く離れたウクライナにいながら福島原発事故の国際的観点からの4つの問題提起を受けました。

1、 皆さんは住民の立場が必要条件であるが、あれだけの国際的な迷惑を、逆にいえば世界から助けられた日本の責任において、原子力をどうするかは横において、あの事故を通じて原発の安全な原点作って世界にフィードバックしてもらいたい。

2、 福島原発事故のような悲惨で不幸な事故は世界から助けられなければならないが、内戦において国連PKOという仕組みがある。原子力事故に関する国際PKOつくるべき、国際条約化して世界中が助け合う国際制度を打ち立てなければならない。
3、 原子力損害賠償条約には、パリ条約、ウイーン条約、補完的補償条約の3つがあるが、今回、日本は原子力損害賠償制度という福島原発事故に関する支援機構を立ち上げたが、この経験も国際社会にフィードバックしなければならない。
4、 福島原発事故の「現場」を事故炉の安全な技術力を見につけてもらう、誰も経験したことのない「修羅場」、その中から新しい技術を考案しなければならないが、「学びの場」として国際開放するような貢献・活用もあるのではないか。

表敬訪問でしたが、刺激的な意見交換ができました。私からは、福島原発事故をめぐる政府の対応の中で除染―帰還等、地方分権を尊重する立場で首長の言い分を無視できない構造があるが、住民の声と離れる場合もある、こうしたことをどのように考えたらいいか。

これには大使は、政府は首長の立場を尊重しなければならない しかし、首長として帰らせることはできても責任をとりきれない。政府は過去に例のない、違う判断もしてはいけないことはない。首長に任せることに限界もある。政府の毅然とした判断が求められる。

もうひとつ質問。日本のIMF拠出はヨーロッパでどう評価されているか。大震災を被っていながらIMFに600億、ウクライナのODAなど国際コミットメントの推進は高い評価を受けている。税、震災など内向きになるのでなく国際協力に日本の姿勢を示すべきだ、と。

そして、そのことから木村准教授のチェルノブイリ原発事故後のジトーミル州ナロード地区での調査活動やウクライナ在住歴18年というチェルノブイリ救援・中部の駐在員の竹内さんたちの支援活動と今回の訪問にふさわしい表敬訪問となりました。