日本時間は10日の7時21分、キエフ現地時間10日1時21分。26時間くらい起きていてものすごく眠い眠い、です。一泊朝食付き756グリブナ(1グリブナは日本円で10円)。ウイーンで4時間の待ち合わせ。
高速で30分くらい、ワゴンタクシーで400グリブナ。地下鉄はどこまでも20円。キエフでの平均賃金5万円くらい。今日は独ソ戦勝記念日だそうで、夜中人通り多し。キエフではユダヤ人3万人の虐殺があったとのこと。
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木村さんのパワフルな行動力が一緒の飛行機という短い時間にも十分に伝わってきます。現地全体のコーディネートをやっていただきました。通訳は「チェルノブイリ救援・中部」の現地駐在員の竹内さんです。
※※写真は、ウイーン空港にて。右から木村さん、古市さん、私。撮影は佐藤さん。
※※以下は飛行機の中で書いたこと。
ウイーンまで11時間、キエフまで2時間の長旅、今中哲二さんたちが監修した本の中の二つの論文を読みました。「ウクライナでの事故への法的取り組み」(オレグナスビット 今中哲二)、「ソ連政府の対応とベラルーシでの12年」(ミハイル・V・マリコ)。
ウクライナ、ベラルーシソ連社会主義共和国最高会議で「チェルノブイリ事故の放射能汚染地域の法的取り扱いについて」「チェルノブイリ原発事故被災者の定義と社会的保護について」が採択されたのは1991年2月27日、12月11日とのことです。
ソ連政府は5年間のこの事故の実態を「生物学的影響は無視できる」とする評価をIAEAのお墨付きをもらって隠し続けました。しかし、当時のゴルバチョフ書記長によるグラスチノス政策もあり、ベラルーシでは1989年の被災実態が暴露され始めていました。
言い換えるなら、被災地での住民や地方議会、ウクライナ、ベラルーシ政府の抵抗によって放射能汚染の実態が明らかとなり法制定に至っています。こうした実情を今中さんたちの努力で1998年までの両政府での取り組みが二つの論文で明らかにされています。
その当時の法律でさえ、汚染区域を年間5ミリSV以上は避難、1ミリ~5ミリSVは居住か避難の選択、1ミリSV以下は監視区域として、避難については全額補償、他に医療費や住宅、非放射能食品、所得税控除などあらゆる分野での支援措置が取られました。
この法律に従えば、福島県202万人の大半の県民は避難の権利が認められ財政負担が行われなければなりません。日本政府の現在の対応は当時のウクライナ、ベラルーシ政府以下の措置であることがわかります。したがって、今回の視察の目的は以下になります。
被爆者援護法の基本骨格をウクライナでの法律制定過程に学ぶこと、秘密政策を打ち破ったウクライナでの地方政府や住民活動の実態の把握、そして1998年以降の法律改正の実情と今日の課題、それららを参加者メンバーと共有することになります。
そして、それは福島県での事故だけでなく、この事故によって停止している浜岡原発の再稼働の動きがある中で、静岡県での被害予測を福島原発事故、チェルノブイリ原発事故に重ねながら、静岡市民・県民を守るための方策を見つけること、と高い目標です。