イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「魚たちの愛すべき知的生活 何を感じ、何を考え、どう行動するか」読了

2020年03月22日 | 2020読書
ジョナサン・バルコム/著, 桃井緑美子/訳 「魚たちの愛すべき知的生活 何を感じ、何を考え、どう行動するか」読了

この本は、以前に読んだ、「魚は痛みを感じるか」という本をさらに発展させて、魚は社会性を持ち、知識さえも持っているのだということを証明しようとするような内容だ。

まず最初の章では、世界中で魚はどれだけの数が人間によって殺されているかということが推定されている。
その数は、2014年の推計で、年間1570億匹、魚釣り(いわゆるレジャーとして)釣りあげられている魚の数は470億匹、そのうち170億匹が殺されているという。著者はこうした魚の殺され方に対して、魚は儲けのためとか娯楽のためといった人間本位の価値を押し付けてよい存在ではなく個としての彼ら本来の価値によって生きる存在であるという見解をもっていて魚という生物はひとが考えているよりもはるかに知能が高いのだということをこの本の中に示している。

大半の人間が魚について持っているイメージは、「生物の進化の過程で水中に取り残された下等な動物である」としている。そこから、魚は感情も知性もない。だから当然痛みや苦しみを感じることもないのだ。と思っている。まぶたがなくて表情がないことがそういうイメージをよけいに植え付けることになる。

しかし、この本の中には魚たちの自然界や実験室で観察される様々な行動を通して知性の高さを説明している。道具として石やサンゴを使う魚。ここには知能の高さを見ることができる。他の種類の魚やタコと共同で狩りをする魚。ここには利己的ではなく利益を分け合うという社会性を見ることができる。社会性というと、世代の異なる魚が混ざった群れでは先代の行動を見て狩りを覚える種類の魚もいるらしい。また、同じ種類の魚でも集団ごとに好みの住処というものが決まっていて別の集団と入れ替えても同じ住処には入らないという実験から集団ごとには文化があるということがわかる。
弱った魚に呼吸を促すために体を寄せて水面までいざなう魚や様々な子育ての方法には愛情を見ることができる。
自分の棲んでいる環境の地形を記憶して行動する魚や、自分に餌をくれたり、体をグルーミングしてくれる魚には記憶力の高さがあることがわかる。実験では1年近くも前の記憶をとどめている魚もいるということが観察されているそうだ。これは鳥類と同等の記憶力らしい。(鳥って意外と記憶力が高く、「鶏の脳みそ」などと言って記憶力のない代表格のように言われるが、まったくのウソだそうだ。鶏の脳みそとは僕だけのことを指すらしい。)
こららのほか様々な例をあげて魚の知能の高さを証明しようとしている。

この本のタイトルは「愛すべき知的生活」となっているけれども、著者が最も言いたいのはこれだけ知能のある存在に対して人間は、食材として加工する場面や魚釣りという娯楽のためにおこなっている残酷な行為を批判している。表現は魚という存在をもっと知ってほしいとなっているが、本心はどうしてそんな残酷なことができるのか。ということだと思う。

魚釣りを楽しみにしている僕としてはものすごく身につまされるのだが、著者がいうことはどこまで本当なのだろうかと考え込んでしまうのである。
周辺の認知機能や社会性といってもこれは本能の範疇ではないのだろうかと思うのである。痛みを感じるというが、それをどこまで認知しているのか。おそらく究極なことを言うと、「死」を意識できないと知性があるといえないのではないだろうかと僕は思うのである。
死の恐怖がなければ痛みを痛みと感じることはできないのではないだろうか。そうでなければ短なる反射反応というのではないだろうか。そして、死を意識するというのは宗教を持つということにつながってゆくはずだ。いくらなんでも魚が神様を信じているとは思えない。
僕も魚を締めるたびに魚には申し訳ないと思うのであるが、知性があるのだと思ってしまうとそれをするのが困難になってしまう。だからこんな考え方を持ち出してきてしまうのだけれども、そこはなんとか許してほしいと思うのだ。


そして魚をいじめ続けた報いかどうかはわからないが、今回の異動で堕ちるところまで堕ちたと思っていたら、下には下があるものでまだまだ堕ちようと思ったら堕ちることができる場所があった。今度はコンビニの店員の仕事を仰せつかってしまったのだ。
これにはまいった。今の部署の仕事を覚える間もなく2週間コンビニに応援に行けというのは一体どういう理由なのだろうか。
うちの会社ではこういったフランチャイズの事業は、現経営者たちが親会社から持ち込んだ絶対に利益を生み出さなければならない事業であるらしく、多分このコロナショックでそうとう業績が悪くなってしまったのだろう、アルバイトの人件費を削減するために各部署から人員を招集したらしい。僕は今の部署ではまったくの外様で仕事も一番知らない人間のひとりであることは間違いがない。上司としてはいちばん役に立たなくて何の義理もない人間を差し出したというところだろうか。ここできちんと仕事を覚えさせて戦力にしようという気というのがまったくないということがよくわかってしまった。
役職定年になって今までと畑違いの部署に移らされた人間の末路とはこういうものなんだということが身に染みてよくわかった。僕は多分会社からは必要とされていない部類の人間なのであろう。
まあ、たしかに迷惑はかけても貢献はしていないよなとは薄々感じてはいたのだが・・。
それでも僕にも小さいながら矜持というものもある。この歳になって望みもしないコンビニの店員の仕事を命令されてはいわかりましたと心から言えるものでもない。
仕事に貴賤はないというけれどもやっぱりそういうものはきっとあるのだと思う。
実質10日くらいの勤務になるのだろうか、やり切れるかどうか心配だ。1日目の研修ですでに心が折れてしまった。家のトイレ掃除もしたことがないのにここでは一番下っ端だからそういうこともやらされるらしい。
産業医の先生は、辛かったら逃げなさい。休めばいいんです。と言ってくれるけれども、僕が逃げたらまた別の犠牲者を生むことになる。それはそれで恨まれるのは嫌だ。マスクで顔を覆いながら苦痛にゆがんだ顔を隠し通せるか・・。でも、やり切る根性は多分ないだろう。



魚にはそんなプライドはきっとないだろうと思う。だからやっぱり魚には苦悩や苦痛という感覚は持っていないのだと僕は結論づけたい。いまとなっては魚に生まれたほうがよかったなんて思ってしまうが・・。
コメント
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