ウォルター・アルバレス /著、山田美明/訳「ありえない138億年史」読了
この本の著者は、6500万年前の隕石の衝突が恐竜の絶滅を引き起こし、その隕石はユカタン半島に落ちたのであるということを発見した学者である。
地球46億年の歴史を宇宙の歴史とつなげ、さらに人間の歴史につなげてゆくという、「ビッグヒストリー」という考えに基づいて138億年の歴史を綴っている。
さすがに宇宙の歴史というとどうも大雑把なとらえ方になるけれども、地球の歴史と人間の歴史の関係についてはだんだんと細かくなってくる。その根本はプレートテクトニクスにあるというのが著者の考えだ。
プレートテクトニクスによる陸地の移動や造山活層が人間の歴史に大きく影響を及ぼしているというのが著者の考えだ。
アルプス山脈やシエラ・ネバダ山脈、アメリカ大陸のアパラチア山脈、ハドソン川。人の移動を妨げる山があり、逆に物資の輸送を促した川があった。
この著者がそれを唱えなくても、ブラタモリも地形と人々の営みを克明に伝えているし、ジャレド・ダイヤモンドも同じ見解を書いているのでそれほど目新しいものではないように思う。ただ、それを、隕石衝突という一見何の関係もないようなことを恐竜の絶滅と結び付けて考えだした人が書いたとなると重みが増すような気がする。
そしてさらに生命の歴史にまで言及してゆく。人間のからだの中には30億年の生命の加筆修正の歴史が刻み込まれているというのである。
生命が生まれた直後の歴史は細胞膜の存在である。海溝部の熱水噴出口で生まれたとされる生命は外部環境と内部環境を細胞膜で隔てることによりその活動をはじめた。
そして真核生物が生まれた歴史は核とミトコンドリアが共生した姿、さらに軟体生物であるエディアカラ生物群の記憶は消化管に、そしてカンブリア紀の左右対称の体と骨格を持つようになるその後の歴史は人間の体そのものにつながる。
人が受精して胎児となって生まれるまでの形態の変化は生物の進化の歴史をなぞっているのだということを読んだことがあるけれども、確かにそんな考え方もあるのかと思う。
アフリカで生まれた人類はそこを脱出して全世界へ移動を開始するのであるが、そこにもプレートテクトニクスが生み出した地理学的制約を受ける。ここで前半のプレートテクトニクスの歴史と生物の発生からの歴史が再びつながることになる。
ビッグヒストリーはある意味、偶然の重なり、つながりで138億年を送ってきた。歴史はどれも、「タラれば」というものはないので再現性や検証性というものはないのである。その貴重な偶然の産物のひとつがぼくであるというのも悲しいものだ。
僕が生まれ出る確率というものが書かれていた。僕が生まれた世代(ひと世代)では大体10億人で10の9条人となる。この世代に生まれる可能性がある子供の数(ここでの生まれる可能性というのは、男子が1回のエッチで数億の精子が発射されそのうちの1匹が受精する確率を全世界のエッチをしている人々から生まれてくる可能性のある数。)は10の25条人だそうだ。それがどんな数字かというと、手のひらに二すくい海岸の砂の数が大体10の9条、10の25条はグランドキャニオンを10回満たすほどの数になる。要は、そんな大量の砂の中から二すくい分の確率で僕が生まれたということになる。
そんな奇跡に近いような偶然の結果でこんなポンコツが生まれてきたのかと思うと地球を作った神様はよほどのバカではなかろうかと思うのである。こんな偶然はなかったほうがよかったのにと思うのである。ユカタン半島ではなくて紀伊半島くらいに落ちていてくれればよかったとか、それが無理ならアキちゃんの逆回転の力で時間を巻き戻してくれはしないだろうかなどとそんなことばかり思い浮かぶのである。
この本の著者は、6500万年前の隕石の衝突が恐竜の絶滅を引き起こし、その隕石はユカタン半島に落ちたのであるということを発見した学者である。
地球46億年の歴史を宇宙の歴史とつなげ、さらに人間の歴史につなげてゆくという、「ビッグヒストリー」という考えに基づいて138億年の歴史を綴っている。
さすがに宇宙の歴史というとどうも大雑把なとらえ方になるけれども、地球の歴史と人間の歴史の関係についてはだんだんと細かくなってくる。その根本はプレートテクトニクスにあるというのが著者の考えだ。
プレートテクトニクスによる陸地の移動や造山活層が人間の歴史に大きく影響を及ぼしているというのが著者の考えだ。
アルプス山脈やシエラ・ネバダ山脈、アメリカ大陸のアパラチア山脈、ハドソン川。人の移動を妨げる山があり、逆に物資の輸送を促した川があった。
この著者がそれを唱えなくても、ブラタモリも地形と人々の営みを克明に伝えているし、ジャレド・ダイヤモンドも同じ見解を書いているのでそれほど目新しいものではないように思う。ただ、それを、隕石衝突という一見何の関係もないようなことを恐竜の絶滅と結び付けて考えだした人が書いたとなると重みが増すような気がする。
そしてさらに生命の歴史にまで言及してゆく。人間のからだの中には30億年の生命の加筆修正の歴史が刻み込まれているというのである。
生命が生まれた直後の歴史は細胞膜の存在である。海溝部の熱水噴出口で生まれたとされる生命は外部環境と内部環境を細胞膜で隔てることによりその活動をはじめた。
そして真核生物が生まれた歴史は核とミトコンドリアが共生した姿、さらに軟体生物であるエディアカラ生物群の記憶は消化管に、そしてカンブリア紀の左右対称の体と骨格を持つようになるその後の歴史は人間の体そのものにつながる。
人が受精して胎児となって生まれるまでの形態の変化は生物の進化の歴史をなぞっているのだということを読んだことがあるけれども、確かにそんな考え方もあるのかと思う。
アフリカで生まれた人類はそこを脱出して全世界へ移動を開始するのであるが、そこにもプレートテクトニクスが生み出した地理学的制約を受ける。ここで前半のプレートテクトニクスの歴史と生物の発生からの歴史が再びつながることになる。
ビッグヒストリーはある意味、偶然の重なり、つながりで138億年を送ってきた。歴史はどれも、「タラれば」というものはないので再現性や検証性というものはないのである。その貴重な偶然の産物のひとつがぼくであるというのも悲しいものだ。
僕が生まれ出る確率というものが書かれていた。僕が生まれた世代(ひと世代)では大体10億人で10の9条人となる。この世代に生まれる可能性がある子供の数(ここでの生まれる可能性というのは、男子が1回のエッチで数億の精子が発射されそのうちの1匹が受精する確率を全世界のエッチをしている人々から生まれてくる可能性のある数。)は10の25条人だそうだ。それがどんな数字かというと、手のひらに二すくい海岸の砂の数が大体10の9条、10の25条はグランドキャニオンを10回満たすほどの数になる。要は、そんな大量の砂の中から二すくい分の確率で僕が生まれたということになる。
そんな奇跡に近いような偶然の結果でこんなポンコツが生まれてきたのかと思うと地球を作った神様はよほどのバカではなかろうかと思うのである。こんな偶然はなかったほうがよかったのにと思うのである。ユカタン半島ではなくて紀伊半島くらいに落ちていてくれればよかったとか、それが無理ならアキちゃんの逆回転の力で時間を巻き戻してくれはしないだろうかなどとそんなことばかり思い浮かぶのである。