椎名誠 「おなかがすいたハラペコだ。3 ~ あっ、ごはん炊くの忘れてた! 」読了
図書館の新着図書の書架を眺めていたらこの本を見つけた。椎名誠の本はやたらと数が多いのでどの本が出版時期が早いかということがさっぱりわからないのだがこの本は正真正銘一番新しい本だ。
シリーズとしては3冊目のようだが、まあ途中でもよかろう・・。
食に関するエッセイで、旅先で出会った食べ物、子供のころの思い出、自宅での食事。そんなものについて書いている。この本は、日本共産党の「女性のひろば」という機関紙に連載されていたものをまとめたものだ。
そのせいかどうかはわからないけれども、椎名誠らしくない文体のような気がする。まあ、共産党の機関紙らしくない文体は文体でそこは椎名誠らしいのだが、どうもそれが行き切っていない気がする。それとも、お歳のこともあるのだろうか・・。
どちらにしても椎名誠と共産党というのが僕の中ではつながらない。
この本のタイトルは、「おなかがすいた・・」というものだが、自分に関しては、最近めっきりおなかが空かなくなった。
僕も椎名誠は歳を取ったなどと言えた義理ではなく、僕も歳なのだろうか、いつでも胃袋の中に何かが入っていてそれが食事の時間まで続いてそれでまたごはんを食べるのだからまた胃袋の中に何かが入っている感が続いてしまう。ごはんと言っても腹持ちのいいお米はほぼ食べない。お昼に作ってもらう弁当の中に入っているだけだ。
太っているころは我ながら、「これでもか!」というほど食べていたが、ダイエットを始めてから一気に食が細った。40代の半ばくらいにダイエットを始めたが、その頃がちょうど体力的にも衰えを見せ始める頃と時を同じくしていたからそれほどのエネルギーを要しなくなってしまったということも加わっていたのかもしれない。
だから、ちょっと油断してほんの少し食べすぎるとすぐに体重が増える。2キロくらいはあっという間だ。毎日体重計に乗って、「明日は晩メシ抜きだな。」などと反省するのだ。
じゃあ、運動をするなり体を動かすなりしてエネルギーを消費して空腹感を満喫すればいいというものだろうけれども、そうなる前に体がまいってしまう。だから健全な空腹感というものを体験できない。
せめてお酒だけでも気が済むまで飲みたいと思うが、これもそれほど酒に強いわけではなく、500ミリリットルの第3のビールを飲んでしまうとおなかが膨れると同時に酔いが回ってもうダメとなってしまう。
なんだか寂しくて仕方がない。何もうれしいことがないのだから食べることくらい、贅沢なものを食べたいと思っているわけではないのだから思う存分食べさせてくれと神様を恨むのだ。
話は変わって、これはコンビニ店員をやらされているときの話だが、コンビニの棚に陳列されている食料品というのは賞味期限がやってくると問答無用にゴミ箱に捨てられる。
ちょうどコロナショックがじわじわと世間に蔓延し始めた頃だったから客は少なくなっても棚を埋めなきゃならないという訳なのかどうかは知らないがたくさんの食品が廃棄されていた。特に弁当や総菜、サンドイッチなんて2日くらいしか賞味期限がないので1日2回くらい捨てていた。
フランチャイズのルールで、必ずゴミ箱に捨てるという決まりになっていた。店員がタダで食べないようにということだそうだ。もったいない話だ。2回ほどおにぎりをくすねて食べてみたけれども当然だが全く腐っていない。
お酒の廃棄にも遭遇したけれども、封を切って中身を洗い場に流してしまっていた。
こんなことをしていてこの連中は必ず報いを受けるに違いないと思った。特にお酒というのは神聖なものだろう。それを下水に捨ててしまうとは・・。
日本人がこんなことをできるようになってしまったというのは相当数の人間がこのコンビニエンスストアに食というものを依存してしまっているからに違いない。自分で食材に手を加えず、「おかあさんの味」などというコピーが書かれた商品を前にして、これが家庭の味だ美味しいねと錯覚してしまっているからだ。食材の貴重さというものに対して麻痺をしてしまっているのだろう。自分で野菜を切らないとどこからどこまで食べられて、頑張って食べられる部分を残してもそれでもゴミが出てしまうのだということがわからないのだ。
こんなことに加担しているぼくはクズだ。クズだからこんなクズのような仕事をさせられる。
僕の食に関する思いはネガティブなことばかりだ。
椎名誠のエッセイにコンビニ食材が出てきたという記憶がない。作家が自分で料理を作る時は基本的に鰹節とマヨネーズと醤油の味付けばかりだけれども、自分で麺を湯がいて缶詰に味付けしてソースを作っている。
それが正しい日本人の生き方なのではないのかと思うのである。自炊という言葉は死語になりつつあるのだろうか・・。
一度、日本人の堕落とコンビニの相関関係というようなエッセイを書いてもらいたいものだ。
図書館の新着図書の書架を眺めていたらこの本を見つけた。椎名誠の本はやたらと数が多いのでどの本が出版時期が早いかということがさっぱりわからないのだがこの本は正真正銘一番新しい本だ。
シリーズとしては3冊目のようだが、まあ途中でもよかろう・・。
食に関するエッセイで、旅先で出会った食べ物、子供のころの思い出、自宅での食事。そんなものについて書いている。この本は、日本共産党の「女性のひろば」という機関紙に連載されていたものをまとめたものだ。
そのせいかどうかはわからないけれども、椎名誠らしくない文体のような気がする。まあ、共産党の機関紙らしくない文体は文体でそこは椎名誠らしいのだが、どうもそれが行き切っていない気がする。それとも、お歳のこともあるのだろうか・・。
どちらにしても椎名誠と共産党というのが僕の中ではつながらない。
この本のタイトルは、「おなかがすいた・・」というものだが、自分に関しては、最近めっきりおなかが空かなくなった。
僕も椎名誠は歳を取ったなどと言えた義理ではなく、僕も歳なのだろうか、いつでも胃袋の中に何かが入っていてそれが食事の時間まで続いてそれでまたごはんを食べるのだからまた胃袋の中に何かが入っている感が続いてしまう。ごはんと言っても腹持ちのいいお米はほぼ食べない。お昼に作ってもらう弁当の中に入っているだけだ。
太っているころは我ながら、「これでもか!」というほど食べていたが、ダイエットを始めてから一気に食が細った。40代の半ばくらいにダイエットを始めたが、その頃がちょうど体力的にも衰えを見せ始める頃と時を同じくしていたからそれほどのエネルギーを要しなくなってしまったということも加わっていたのかもしれない。
だから、ちょっと油断してほんの少し食べすぎるとすぐに体重が増える。2キロくらいはあっという間だ。毎日体重計に乗って、「明日は晩メシ抜きだな。」などと反省するのだ。
じゃあ、運動をするなり体を動かすなりしてエネルギーを消費して空腹感を満喫すればいいというものだろうけれども、そうなる前に体がまいってしまう。だから健全な空腹感というものを体験できない。
せめてお酒だけでも気が済むまで飲みたいと思うが、これもそれほど酒に強いわけではなく、500ミリリットルの第3のビールを飲んでしまうとおなかが膨れると同時に酔いが回ってもうダメとなってしまう。
なんだか寂しくて仕方がない。何もうれしいことがないのだから食べることくらい、贅沢なものを食べたいと思っているわけではないのだから思う存分食べさせてくれと神様を恨むのだ。
話は変わって、これはコンビニ店員をやらされているときの話だが、コンビニの棚に陳列されている食料品というのは賞味期限がやってくると問答無用にゴミ箱に捨てられる。
ちょうどコロナショックがじわじわと世間に蔓延し始めた頃だったから客は少なくなっても棚を埋めなきゃならないという訳なのかどうかは知らないがたくさんの食品が廃棄されていた。特に弁当や総菜、サンドイッチなんて2日くらいしか賞味期限がないので1日2回くらい捨てていた。
フランチャイズのルールで、必ずゴミ箱に捨てるという決まりになっていた。店員がタダで食べないようにということだそうだ。もったいない話だ。2回ほどおにぎりをくすねて食べてみたけれども当然だが全く腐っていない。
お酒の廃棄にも遭遇したけれども、封を切って中身を洗い場に流してしまっていた。
こんなことをしていてこの連中は必ず報いを受けるに違いないと思った。特にお酒というのは神聖なものだろう。それを下水に捨ててしまうとは・・。
日本人がこんなことをできるようになってしまったというのは相当数の人間がこのコンビニエンスストアに食というものを依存してしまっているからに違いない。自分で食材に手を加えず、「おかあさんの味」などというコピーが書かれた商品を前にして、これが家庭の味だ美味しいねと錯覚してしまっているからだ。食材の貴重さというものに対して麻痺をしてしまっているのだろう。自分で野菜を切らないとどこからどこまで食べられて、頑張って食べられる部分を残してもそれでもゴミが出てしまうのだということがわからないのだ。
こんなことに加担しているぼくはクズだ。クズだからこんなクズのような仕事をさせられる。
僕の食に関する思いはネガティブなことばかりだ。
椎名誠のエッセイにコンビニ食材が出てきたという記憶がない。作家が自分で料理を作る時は基本的に鰹節とマヨネーズと醤油の味付けばかりだけれども、自分で麺を湯がいて缶詰に味付けしてソースを作っている。
それが正しい日本人の生き方なのではないのかと思うのである。自炊という言葉は死語になりつつあるのだろうか・・。
一度、日本人の堕落とコンビニの相関関係というようなエッセイを書いてもらいたいものだ。