イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」読了

2023年01月14日 | 2023読書
熊代亨 「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」読了

著者は精神科医だそうだ。
この世を生きづらいと思う人々が増える現状に対し、その原因をタイトルのとおり、令和の時代、日本人全員が『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある』社会にすっかり慣れきってしまったからだと考える。
射殺されてしまった元首相はこの国を「美しい国」と呼んだ。あながち間違いとは言えないが、「ウツクシイクニ」を反対から読んでみると、「ニクイシクツウ」=「憎いし苦痛」と読めるという。
著者はその「美しい国」が美しさゆえに生きづらくなってしまったのだということを医師という立場から解明しようとしている。そしてそのキーワードはタイトルそのままの『清潔で健康で道徳的な秩序』なのだが、それを揶揄しながら進められてゆく論は小気味よくしかし不気味に思えてくる。僕たちはこんな時代に生きているのかと思えてくるのだ。
「水清ければ魚棲まず」という感じだろうか・・。

『健康的で清潔で、道徳的な秩序』が当たり前になった社会では、その社会になじめない者を医療や福祉のサポートの対象として扱い矯正の対象とするようになった。
とかく現代は生きづらい世界だと言われるが、それは個人の問題ではなく、社会が極端に『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある』状態になってしまったからだと著者は考えているのだ。
昭和の時代に比べると、街はずっと美しくなり、汚いもの、臭うもの、不健康なものには出くわさなくなり、行儀の悪い人や法を破る人も少なくなり、確かに快適な生活といえる環境であり、特に日本、そのなかでも東京は世界一清潔な街であると言えるかもしれない。
そしてそれは、資本主義、個人主義、社会契約という三位一体となったイデオロギーに根ざしているという。
資本主義から来るイデオロギーとは、社会全体が『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある』価値観を効率的に追い求めてしまうという考えである。
個人主義からくるイデオロギーとは、個人としての自由の獲得という意味では、SNSやネット上でのコミュニケーションや、家屋の構造の変化は昭和の時代に比べるとはるかに個人を重視できるようになったということである。しかし、それは自分の気に入った情報のみを選択する傾向を生み、それはかえって多様な思想を垣間見る機会を減らしてしまうことにもなる。
社会契約については、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある』環境に疑問を抱かず従っている限りにおいては、人は個人として精神的にも肉体的にも快適な人生を歩めるのだということである。

しかし、それは人に対してハイクオリティであることを求めることになる。その結果が社会に適応できない人を大量に生み出し、医療や福祉に大量の予算を使わねばならなくなった社会なのである。
発達障害という病名はおそらく、昭和の時代ではめったに聞かないものであったと思う。よほど精神に異常をきたした人たちだけの病気であった。社会全体の秩序意識の高まりや現代人のハイクオリティ化で、“普通”、“まとも”という範囲はどんどん狭められているのである。そこからはみ出た人たちは全部病気だということになったのだ。
昭和の時代ではきっと“ちょっと変わった人”、もしくは破天荒、型破りくらいとしか見られなかった人、それはあくまでも主観的な物差しのように思えるが、医学の進歩はそういった人たちを客観的に評価できるようになってしまった。おまけに治療薬まで開発されたことで隔離や矯正が可能になった。精神医療を必要としている人は平成11年度に204万人だったものが平成26年には392万人まで増加しているそうだ。

また、ハイクオリティな人を求める社会では子育てもリスクとなる。ハイクオリティな社会に適応するためには経済的には相当なコストがかかる。かつてはブルジョワ階級だけが備えていた通念や習慣を求めるようになった。子育てと家事とブルジョワ的な上昇志向を両立させることはいかにも困難であり、経済的に賄えるひとも限られてくる。また、小さな子供は秩序など理解できない。しかし、子供たちは物心つく前から、清潔で行儀よく、落ち着きがあってコミュニケーション能力がある人間としてのふるまいを求められる。だから、社会契約として『健康的で清潔で、道徳的』であらねばならない社会の中では異質と見られ、両親は肩身の狭い思いをすることになる。そんなリスクを負ってまで子育てをする意味があるのかという考えが芽生えるのも無理からぬことであるかもしれない。
「人口戦略法案」を読んでいた時、ヒトもやっぱり動物であるのだと思ったけれども、この社会はその動物である部分を限りなく排除しようとしていて、それが間違いなく人口減少の原因になっているということがこの2冊と読むとよくわかる。

これらはかなりドラスチックな意見であるかもしれない。それに、すべての人が『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある』社会を望んでいるわけではなくて田舎暮らしにあこがれて移住する人たちというのはこういった秩序に背を向けた人たちであるかもしれないし、コロナ禍のなかで今までそれが常識だと思われていた価値観が崩れてきているかもしれない。
しかし、お笑い芸人がもてはやされるのは、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある』社会から抜け出したくても抜け出すことができない人が芸人の無頼な言動や生き方にあこがれているからなのかもしれない。そう考えてみると、人はユートピアを目指して『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある』社会を目指してきたのだが、その行きつく先は限りなくデストピアに近い社会であったのだ。
それに対して著者は、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある』社会ではないオルタナティブな社会が存在するべきであるとしている。
この本で論じられている社会、すなわち歪んだように見える社会契約による社会=ゲゼルシャフト的な社会に対する、血縁に基づく家族、地縁に基づく村落、友情に基づく社会=ゲイマンシャフト的な社会だ。社会の歴史的な発展の逆転である。
これまでアップデートされてきた社会の通念や習慣、空間設計、法制度、市場のアップデートはこれまで主に正しさの側にいる人々、秩序を司る側にいる人々、知識や経済資本に近しい人々、によって唱導されてきたが、現代人が負うている不自由はどのようなもので、一体どこに由来しているのか、秩序の進展とともに表面化してきた不自由を掬いとっていく道筋はあるものなのかとそういった人々に問わなければならないと言っているのである。
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