キャロル ヘルストスキー/著 田口 未和/訳 「ピザの歴史 (「食」の図書館)」読了
最近、再びピザづくりを始めた。もう、5、6年作るのをやめていたけれども、冷凍ピザ生地を格安で手に入れることができるようになったことがきっかけだ。
本の内容を書く前に、僕のピザの歴史を書いてみようと思う。
ピザを初めて食べたのはいったいいつだったのかというのを思い出してみると、多分、大学に入ってから友人に連れて行ってもらった、道頓堀にあった「シェーキーズ」という専門店であったのではないかと思う。ピザというものの存在は知っていたが少なくとも本格的なピザを食べたのはあの時がきっと初めてであったはずである。
大体、イタリア料理などというものはそれまで、喫茶店で食べるイタリアンとナポリタンくらいしかなかったと思う。バブルの頃になってイタ飯などという言葉が生まれてポピュラーなものになったものだと僕は思っている。「ちむどんどん」の舞台になった「アッラ・フォンターナ」は当時では相当特殊なレストランであったと思うくらいである。
そして、これももう、20年以上前のことだったと思う。「チューボーですよ!」という料理番組があって、そこで堺正章がピザを生地から作っていたのを観たことで僕にもできるのではないかと考えて作ってみたのが最初だった。
番組の内容を参考に、ドライイーストと強力粉をこねて発酵させると程よい生地ができた。当時はオーブンを使って焼いていたので出来上がりは生地がパリッと焼けず、時間も1枚焼くのに30分近くかかった。それでも父親には、「お前、料理上手いな。」と僕の生涯で唯一父親に褒めてもらえることにもなった。
そのためにはオーブンの庫内に合わせた鉄板を切り出したりもした。それから進化し、もっと温度を上げることができるピザ窯を購入しパリパリに生地を焼くことができるようになった。切り分けたピザを持った時、グニャっと曲がることもなく、かじったときには本当にパリッと音がした時には、僕のピザが完成したと感激をしたものだ。
以来、外食や市販のピザというものを食べたことがなく、「僕のピザ」と言いながら、これが本当にピザといっていいものかどうかという疑問は残ったままであるのも事実だ。
メニューもたくさん考えた。必ず作るピザは具だくさんのトマトソースのピザとポテマヨピザだ。
トマトソースはそれだけで食べ応えがあるように玉ねぎのみじん切りを大量にほうり込む。
ポテマヨピザは、茹でたジャガイモの千切りとスライス玉ねぎとベーコンをトッピングしてマヨネーズとチーズをふりかける。焼き上がりの2分前に生卵を真ん中に乗せてその後、卵をつぶしてピザの全体に広げる。卵が半熟になりなんともまろやかな味になるのだ。
これは僕がまったくのオリジナルとしていろいろ改良を加えながら作り上げたものだが、この本によると「ローマ風」として似たピザが紹介されていたので僕の方針もあながち間違いではなかったようだ。
そのほかにも、照り焼きピザや明太マヨネーズピザというのも作っていた。ものすごく手前みそだが我ながらすべて美味しいと思っている。まあ、これは僕の料理の腕前がよいのではなく、ピザという料理の柔軟性がそうさせてくれたというのが正解であったと思う。
しかし、別の本では「ピザ」と正統なイタリア料理としての「ピッツァ」いうものはまったく区別されるべきもので、僕が作っているようなものは「ピザ」というべきものであるとも言えるようだ。
この本は、ピザがその柔軟性をもってどうやって世界中で愛される料理に発展したかということを書いているのである。
今やピザは世界中で食べられているが、第2次世界大戦前まではその発祥の地であるナポリ周辺でしか食べられていなかったそうだ。
アレクサンドル・デュマはナポリを訪れ、そこに住む貧しい人々(デュマは彼らをラッザローニと呼んでいる)の食生活を、『ラッザローニはふたつの食べ物で生き延びている。夏のスイカと冬のピザである。』と書いている。ピザはナポリの社会の底辺で生きる人たちの食べ物であったのである。
そんなピザが底辺の世界から表の世界に躍り出るきっかけとなったのは、マルゲリータ王妃のために作られたというピザの有名なエピソードだ。
ヨーロッパの王族が日ごろ食べていたフランス料理に飽きていた王妃のためにピッツェリア・ブランディのピザ職人(ピッツァイオーロ)ラファエレ・エスポジトが呼ばれ、3種類かのピザが作られた。
ひとつはラードとカチョカヴァッロ(チーズの名前らしい)とバルジを乗せたもの。ひとつはシラスを乗せたもの、そしてトマトとモッツァレラとバルジを乗せたものであった。王妃は3番目のピザがお気に入りになり、当時は「ピッツァ・アッラ・モッツアレラ」と呼ばれたものが「ピッツァ・マルゲリータ」と呼び名が変わった。まあ、これには相当作り話が入っているらしく、偶然にも色の取り合わせはイタリアの国旗と同じというものでもあった。
その後もピザが社会階級の人たちに好まれていたかどうかというのはよくわからないが、第2次大戦後、イタリア南部の人たちの移民と観光業の発達にともなってイタリア国内、ヨーロッパ、アメリカ大陸へと同時に広がっていくことになった。
イタリアを観光に訪れた人のために、各地でイタリアらしい料理を提供されるのだが、その中にピザが含まれていたり、終戦後、イタリアに駐屯した連合軍の兵士が現地で食べた料理食べたがった。そんな状況の中でたくさんのイタリア南部の人たちはイタリア国内、海外へと移民するのだが、その移民先でピザを販売したことが世界中に広がることになったのだ。
古い歴史とファシズムの崩壊がピザを世界に広めたともいえるのである。
特にアメリカでは生活スタイルにマッチし、ドミノピザ、ピザッハットなどのチェーン店での規格化と冷凍ピザの流通で誰でもどこでも同じ味で食べることができる料理として広まってゆく。
そしてピザの凄いところは、規格化の中でも、その範囲内でそれぞれの地方の嗜好に合ったピザが開発され続けたことだ。日本でも和風のピザがチェーン店で売られたりしている。
また、伝統的なピザにもこだわるという2極化も特徴だ。1984年には「ヨーロッパ化」するピザへの反感によって「真のナポリピッツァ協会(VPN)」が発足し、ナポリのピザを守り、それをすべてのピザの評価の基準を目指すことになった。
「ピザ」と「ピッツァ」が共存共栄する世界が出来上がったのである。
ざっとピザの歴史はこんな感じだ。
結局は、ピザという、フラットブレッドに具材を乗せて焼くという食べ物は世界中から受け入れられる形状であったということだろう。ピザはやはり世界最強の食べ物だということだ。
夕べからの雪と強風で今日は朝からJRも南海も止まっている。毎年1回くらいは雪が積もるがこんな状態になるのは長いサラリーマン生活の中でも初めてではないだろうか。何の責任もない仕事だから、無責任に休みますと早々と宣言したいものだが、外様な環境ではそうもいかない。とりあえずLINEのメッセージにだけは「行きたいのは山々なのですが・・」というフリだけはしながらこの文章を書いているのである。
しかし寒い・・。
最近、再びピザづくりを始めた。もう、5、6年作るのをやめていたけれども、冷凍ピザ生地を格安で手に入れることができるようになったことがきっかけだ。
本の内容を書く前に、僕のピザの歴史を書いてみようと思う。
ピザを初めて食べたのはいったいいつだったのかというのを思い出してみると、多分、大学に入ってから友人に連れて行ってもらった、道頓堀にあった「シェーキーズ」という専門店であったのではないかと思う。ピザというものの存在は知っていたが少なくとも本格的なピザを食べたのはあの時がきっと初めてであったはずである。
大体、イタリア料理などというものはそれまで、喫茶店で食べるイタリアンとナポリタンくらいしかなかったと思う。バブルの頃になってイタ飯などという言葉が生まれてポピュラーなものになったものだと僕は思っている。「ちむどんどん」の舞台になった「アッラ・フォンターナ」は当時では相当特殊なレストランであったと思うくらいである。
そして、これももう、20年以上前のことだったと思う。「チューボーですよ!」という料理番組があって、そこで堺正章がピザを生地から作っていたのを観たことで僕にもできるのではないかと考えて作ってみたのが最初だった。
番組の内容を参考に、ドライイーストと強力粉をこねて発酵させると程よい生地ができた。当時はオーブンを使って焼いていたので出来上がりは生地がパリッと焼けず、時間も1枚焼くのに30分近くかかった。それでも父親には、「お前、料理上手いな。」と僕の生涯で唯一父親に褒めてもらえることにもなった。
そのためにはオーブンの庫内に合わせた鉄板を切り出したりもした。それから進化し、もっと温度を上げることができるピザ窯を購入しパリパリに生地を焼くことができるようになった。切り分けたピザを持った時、グニャっと曲がることもなく、かじったときには本当にパリッと音がした時には、僕のピザが完成したと感激をしたものだ。
以来、外食や市販のピザというものを食べたことがなく、「僕のピザ」と言いながら、これが本当にピザといっていいものかどうかという疑問は残ったままであるのも事実だ。
メニューもたくさん考えた。必ず作るピザは具だくさんのトマトソースのピザとポテマヨピザだ。
トマトソースはそれだけで食べ応えがあるように玉ねぎのみじん切りを大量にほうり込む。
ポテマヨピザは、茹でたジャガイモの千切りとスライス玉ねぎとベーコンをトッピングしてマヨネーズとチーズをふりかける。焼き上がりの2分前に生卵を真ん中に乗せてその後、卵をつぶしてピザの全体に広げる。卵が半熟になりなんともまろやかな味になるのだ。
これは僕がまったくのオリジナルとしていろいろ改良を加えながら作り上げたものだが、この本によると「ローマ風」として似たピザが紹介されていたので僕の方針もあながち間違いではなかったようだ。
そのほかにも、照り焼きピザや明太マヨネーズピザというのも作っていた。ものすごく手前みそだが我ながらすべて美味しいと思っている。まあ、これは僕の料理の腕前がよいのではなく、ピザという料理の柔軟性がそうさせてくれたというのが正解であったと思う。
しかし、別の本では「ピザ」と正統なイタリア料理としての「ピッツァ」いうものはまったく区別されるべきもので、僕が作っているようなものは「ピザ」というべきものであるとも言えるようだ。
この本は、ピザがその柔軟性をもってどうやって世界中で愛される料理に発展したかということを書いているのである。
今やピザは世界中で食べられているが、第2次世界大戦前まではその発祥の地であるナポリ周辺でしか食べられていなかったそうだ。
アレクサンドル・デュマはナポリを訪れ、そこに住む貧しい人々(デュマは彼らをラッザローニと呼んでいる)の食生活を、『ラッザローニはふたつの食べ物で生き延びている。夏のスイカと冬のピザである。』と書いている。ピザはナポリの社会の底辺で生きる人たちの食べ物であったのである。
そんなピザが底辺の世界から表の世界に躍り出るきっかけとなったのは、マルゲリータ王妃のために作られたというピザの有名なエピソードだ。
ヨーロッパの王族が日ごろ食べていたフランス料理に飽きていた王妃のためにピッツェリア・ブランディのピザ職人(ピッツァイオーロ)ラファエレ・エスポジトが呼ばれ、3種類かのピザが作られた。
ひとつはラードとカチョカヴァッロ(チーズの名前らしい)とバルジを乗せたもの。ひとつはシラスを乗せたもの、そしてトマトとモッツァレラとバルジを乗せたものであった。王妃は3番目のピザがお気に入りになり、当時は「ピッツァ・アッラ・モッツアレラ」と呼ばれたものが「ピッツァ・マルゲリータ」と呼び名が変わった。まあ、これには相当作り話が入っているらしく、偶然にも色の取り合わせはイタリアの国旗と同じというものでもあった。
その後もピザが社会階級の人たちに好まれていたかどうかというのはよくわからないが、第2次大戦後、イタリア南部の人たちの移民と観光業の発達にともなってイタリア国内、ヨーロッパ、アメリカ大陸へと同時に広がっていくことになった。
イタリアを観光に訪れた人のために、各地でイタリアらしい料理を提供されるのだが、その中にピザが含まれていたり、終戦後、イタリアに駐屯した連合軍の兵士が現地で食べた料理食べたがった。そんな状況の中でたくさんのイタリア南部の人たちはイタリア国内、海外へと移民するのだが、その移民先でピザを販売したことが世界中に広がることになったのだ。
古い歴史とファシズムの崩壊がピザを世界に広めたともいえるのである。
特にアメリカでは生活スタイルにマッチし、ドミノピザ、ピザッハットなどのチェーン店での規格化と冷凍ピザの流通で誰でもどこでも同じ味で食べることができる料理として広まってゆく。
そしてピザの凄いところは、規格化の中でも、その範囲内でそれぞれの地方の嗜好に合ったピザが開発され続けたことだ。日本でも和風のピザがチェーン店で売られたりしている。
また、伝統的なピザにもこだわるという2極化も特徴だ。1984年には「ヨーロッパ化」するピザへの反感によって「真のナポリピッツァ協会(VPN)」が発足し、ナポリのピザを守り、それをすべてのピザの評価の基準を目指すことになった。
「ピザ」と「ピッツァ」が共存共栄する世界が出来上がったのである。
ざっとピザの歴史はこんな感じだ。
結局は、ピザという、フラットブレッドに具材を乗せて焼くという食べ物は世界中から受け入れられる形状であったということだろう。ピザはやはり世界最強の食べ物だということだ。
夕べからの雪と強風で今日は朝からJRも南海も止まっている。毎年1回くらいは雪が積もるがこんな状態になるのは長いサラリーマン生活の中でも初めてではないだろうか。何の責任もない仕事だから、無責任に休みますと早々と宣言したいものだが、外様な環境ではそうもいかない。とりあえずLINEのメッセージにだけは「行きたいのは山々なのですが・・」というフリだけはしながらこの文章を書いているのである。
しかし寒い・・。