イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「生き物をうさがみそーれー」読了

2023年01月19日 | 2023読書
盛口満 「生き物をうさがみそーれー:沖縄・奄美 おじいおばあの食物誌」読了

なかなかタイムリーな本を新刊図書の書架で見つけた。NHKの朝ドラは相変わらず観続けているのだが、前作の「ちむどんどん」は相当評判が悪かった。多少、沖縄の人たちを茶化したような表現には、これはあかんだろうと思ったり、ストーリーにはちょっと無理なところもあったものの、楽しく観ていた。ドラマはドラマチックなのだからドラマなのだからこれでいいのだとも思った。
そして、登場する沖縄料理も興味深かった。この本もきっと沖縄料理の奥深さについて書かれたものだと思い、来たるべき「ちむどんどんツアー」のためにもぜひ読んでおかねばと考えた。
そして、著者の名前にも懐かしさを覚えた。昔読んでいたアウトドア雑誌の「BE-PAL」の連載者の中にこの人の名前があった。人の名前を覚えるのが苦手だが、当時、埼玉県の飯能市で理科の教師をしているという著者は、変わった名前の都市で活動をしているという印象があったので記憶に残っていた。今は沖縄県に移住していて、沖縄大学というところで教授をしているそうだ。
当初はそういう、ちむどんどんに登場する沖縄の伝統料理を紹介しているような本だと思って読み始めたのだが、そこは理科の先生が書く本だけあってその予想は完全に外れていた。取り上げられている料理法は揚げ物、煮もの、主食としての炭水化物とシンプルだが、その素材がまったく普通のものではない。
著者が大学で教員生活を送るにあたっての研究テーマに選んだのが沖縄の人々の自然利用についてであった。沖縄の人々は長年にわたって、その独特で多彩な自然と様々な関りをもって暮らしてきた。しかし、それは過去の話で、大学で学ぶ地元の学生たちも特に生き物に対して興味を持っているわけではない。著者はそういったことに対してこのままでいいのだろうかという疑問を持つ。授業の中でなんとか生徒を振り向かせたいという思いと共にかつての人と自然のかかわりがこのまま忘れ去られてはもったいないと考え、「食べる」という行為を中心に置き、「うとぅすい(沖縄の言葉で年配者を指す。)」から聞き集めた食べ物にまつわる話を元に、実際に口にしながら紹介しようというのがこの本の趣旨である。

登場する食材はそうとう特殊だ。ある意味、ゲテモノと言ってもいいかもしれない。ゲテモノとは言いすぎで、それは畑で作られていなかったり魚屋で売っていなかったりするだけのものである。
大きな戦争を体験し、石灰質の土壌でもある地域で、食料が十分に得られなかった時代もあっただろうが、この本に取り上げられている食材ばかりを食べていたというものでもないだろうと思う。しかし、それはそれで面白いし、人間が持っている、食べることへのあくなき興味という本能がなんでも食べてみようという衝動をもたらすのだとあらためて思うのだ。

登場する食材をいくつか挙げてみると、ソテツの実(ターチーメー)であったりどんぐりであったりする。こういったものは炭水化物を摂ることができる。スクガラスというとアイゴの稚魚だがこれは有名だ。カタツムリ(チダミ)も食べたそうだこれらは出汁である。
まだまだある。天然記念物ではジュゴンやウミガメ、キシノウエトカゲ(バカッザ)。これらはたんぱく源だったのだろう。たんぱく源というと、バッタもある。これはみそ汁の具にしたというが、ちょっと食べるには勇気が要りそうだ。
沖縄らしい植物というと、アダンの実や芽、ガジュマルの実などは美味しかったり不味かったり、また山菜と同じく下処理が大変だったりもする。カラキという葉は「ちむどんどん」にも出てきた。ドラマでは沖縄麺に練り込んでいたがシナモンのような味がするそうだ。
しかし、沖縄の言葉は独特で、読んでいてもそれがどんな生物なのかさっぱり想像ができない。それはそれで魅力的な言葉ではあるが・・。

こうやってあらためて登場した食材を並べてみると、カタツムリは別にして、確かに食べられそうだという感じがする。それはやはり食べることへのあくなき興味であったとあらためて確認できそうだ。

これは沖縄に限ったことではなく、日本中いたるところで食べることへのあくなき興味という本能は発揮されていたと思う。しかし、それが伝えられていない。著者が聞き取りをした世代の人たちというのは、僕の両親の世代にも近い。しかし、僕は両親から子供の頃に何を食べていたか、その両親、僕の祖父母の世代の人は何を食べていたか。そういったことを聞く機会はわずかであった。
母からはイナゴやイモの蔓、醤油の代わりに海水を煮出して濃くして使ったということを聞いたことがあるくらいだ。しかし、これらも戦時中や終戦後の一番食料が少なかったころの限定であったようだ。
父親からはそういった話をまったく聞いたことはなかった。
まったく裕福な人たちではなかったはずだが、やはり和歌山は気候がほどよく食べ物にはそれほど困るようなことはなかったのだろう。
ひょっとして山菜や野草を採ったり、めったに見ない魚介類を食べていたのかもしれないが、それはあるいみ季節の楽しみであっただけなのかもしれない。
しかし、それも伝統といえば伝統であったのだろうから、調理法や、これは食べられるがこれはダメだというような知識は引き継ぎたかったと思う。そういえば、母親がまだ山菜採りに行っていた頃、マムシグサを見て、これをコンニャクにして食べたことがあると言っていて、調べてみると毒があって食べられないと書いていたのでこれは母親の記憶間違いだと思っていた。沖縄ではちょっと種類は違っているみたいだが、ムサシアブミという植物の根からはデンプンを取り出して食べていたと書いている。マムシグサの根にもデンプンが含まれているが、シュウ酸カルシウムやサポニン、コニインという強力な有毒成分が大量に含まれているらしく、実際食べることができるそうだが相当な精製作業が必要だそうだ。コンニャクではなかったが和歌山でもきっと食べる機会があったのだろうと思う。多分、これは一例に過ぎないだろうし、生石山に生えている植物のなかにもまだまだ食べられる植物はあるはずだ。辺りを見渡して食べられる植物を瞬時に言い当てることはできないとはいえ、森に暮らすひまじんさんにもたくさんの山菜の種類を教えてもらった。これはこの時代、きっと幸せなことだったのかもしれない。
それにしてもこういう知恵が失われていくというのはもったいないし残念だ。かといって今から自分で手当たり次第に食べられるかどうかを実験してゆくのも不可能だし本で調べるのと先人から伝え聞くのとはまったく違う。これはもう、通信教育で空手を習うようなものだ。
歳歳年年人不同。自然は変わらずともそれを利用して恵みを受ける側だけが変わってゆく・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする