イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

加太沖釣行

2020年04月11日 | 2020釣り
場所:加太沖
条件:中潮 7:56満潮
潮流:6:02転流 8:43 上り1.2ノット最強
釣果:ハマチ 7匹 真鯛 1匹

どんなときも釣りには行かねば・・。
免税券の期限が切れる前に買いだめしておいた軽油も早くタンクに入れてしまわなければならない。

朝は5時半に出港すれば十分だと思っていたら知らない間に季節は進んでしまっていた。紀ノ川を越える頃には朝日が昇ってきてしまった。これからは午前5時に出港しなければならない。



明日の日曜日は荒れるというので今日はかなりの船が出ているのかと思ったがそうでもない。帝国軍の艦船もあまり姿を見ない。これは釣れていないからなのかそれともコロナのせいなのか。今週の前半はかなり厳しいらしかったのでやっぱり釣れていないのだろうか・・。まあ、なんでもいいや。船を動かせればそれでいいのだ。
ソラセあたりに少し船が集まっていたので今日はここからスタート。



魚探にはかなり反応がある。反応の割にはアタリが出ないがしばらくして小さなアタリ。途中で放されるとまずいので同じ姿勢をキープして仕掛けに手をかけるまではきたけれどもそこでフッと軽くなってしまった。釣り上げてもかなり小さい魚だと思うが残念。ボウズの予感がしてきた。
しかし幸運は間もなく訪れた。オモリが底についてすぐにアタリ。ひったくるような感じの当たりだったのでこれはハマチだ。まずまずの型である。
反応は出続けるがアタリはまったくない。潮はほとんど流れず北からの風に押されて船は南に流されてゆく。これではダメなのでもっと潮の流れているところを探すべく北上を開始。そこで今日は禁断のヒコーキを引っぱってみた。前回、僕はボウズだったが、同じ日、ルアーのキャスティングで50匹くらいハマチが上がったらしい。まあ、そんなにたくさん釣れても仕方がないのだが、ボウズとその釣果では地べたと銀河系ほどの差があってしまう。
キャスティングで釣れるならヒコーキでも釣れるんじゃないかと思い準備をしていた。ソラセから沖ノ島のそばを抜けてナカトシタにさしかかる手前でアタリが出た。本当にいるじゃないか。それも一荷だ。その後また1匹。合計3匹釣れてしまった。
ナカトシタに入るとここでも魚探にはかなり反応が出てきた。



船を停めて仕掛けを下すとすぐにアタリ。小さいけれども真鯛が釣れた。ここら辺りをうろうろしながらハマチを3匹追加。潮が止まる11時半まで頑張ろうかと思っていたが、午前9時半を過ぎるとまったく潮の流れている雰囲気がない。それにすでにハマチが7匹ある。これ以上釣っても仕方がない。周りでは竿を曲げている船もあったが、お昼までに帰宅すべく終了とした。

家に帰って、図書館、ホームセンター、ディスカウントスーパーを巡ってきたが、どこもコロナ対策でこんな感じ。

  

そこまでする必要があるのだろうかと思えるほどの状況だ。マスクをしていない僕はきっと非国民のような目で見られているのだろう。どうにでも見てくれ・・。
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「若い読者に贈る美しい生物学講義 感動する生命のはなし」読了

2020年04月10日 | 2020読書
更科功 「若い読者に贈る美しい生物学講義 感動する生命のはなし」読了

タイトルの通り、多分これから進路を決めようという高校生くらいの人たちが対象の本のようだ。帯に書かれているほど感動的なものでもなかった。
ただ、僕も高校時代の生物の授業を思い出した。「生物とは」、「発生」、「遺伝」、「免疫」それに加えて「進化」について・・。そんなこと、あの頃は一生懸命勉強していたよな~。ちょっと変わった先生であった。噂では蜘蛛の研究をしていた人で、あだ名は「スパイダーマン」だった。あれは本当だったのだろうか?

進化については、人が二足歩行になってどういったメリットがあったかという見解が面白い。
歩くために必要がなくなった手は食べ物を運ぶために使えるようになった。これは自分のためではなく子供を育てている配偶者に対するメリットになったというのだ。
サルやゴリラを見ると、一夫多妻、もしくは多夫多妻の社会で自分の子供たちが自分の子供かどうかが非常に怪しい。食べ物を運んで配偶者に与えることで一夫一妻の社会が生まれ、それは確実に自分の子供を配偶者に育ててもらう=確実に自分の子孫を残すことができるというのだ。
本当かどうかはわからないが、なかなか面白い。だから僕もその本能かどうかはわからないが面白くもない人をバカにしたような仕事でもケツを割らずに行かなければならない。

そして、免疫についても考えさせられる。アレルギーについての話だが、花粉症というものは昔はなかった。これは現代人の免疫力が弱くなった証拠ではないかというのだが、コロナウイルスの猛威について考えてみた。
中国が発生源なのは明白だが、今になって世界中にこんなに広まったのは中国人の免疫力の低下が原因なのは間違いがないのじゃいのだろうか。免疫力というのはある程度汚い環境で生活しているとそれなりに強くなるそうだ。武漢のあまりきれいではない市場の環境の横では世界屈指の先進都市が出来上がった。多分一昔前なら新たなウイルスが生まれてもその辺の人たちの免疫力で封じ込めることができたのであろうが、小綺麗になった中国人にはそんな免疫力がなくなってしまっていたのだろう。
免疫力には先天的に持っている自然免疫と後天的に得る獲得免疫というものがあるらしいが、後者を生まれてからどれだけ獲得してきたかというのが強さの証で、どんなものでも食べていた中国人はかつては強かったがいまではそれがダメになってしまったということだろう。中国は中国のままでいてくれた方がよかったのだ。先進国では言わずもがなで広まってしまったということだろう。
そう考えると、これから先、インド、東南アジア、アフリカ、ニューギニア、こんなところからももっと新型のウイルスがやってくるのではないだろうか。今でも地元の人たちが封じ込めてくれている新型はウヨウヨいると考えても杞憂ではあるまい。それが文明化によって一気に広まるというのはいくらでも考えられる。
コロナが去ったとしてもまた第二、第三のコロナはこれからいくらでもやってくるに違いない。

僕は大概汚い場所で遊んでいるので意外と免疫力はあるのかもしれない。だから世間がどうなろうと体は大丈夫かもしれないが食べ物を運ばなければならない面白くもない仕事のほうが危ないかもしれない。
だから自然選択的進化の中では僕は30年前に滅ぶべき人類であったということだろう。
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「生命 最初の30億年―地球に刻まれた進化の足跡」読了

2020年04月09日 | 2020読書
アンドルー・H. ノール/著 斉藤 隆央/訳 「生命 最初の30億年―地球に刻まれた進化の足跡」読了



カンブリア紀の不思議な生き物については何冊か読んだことがあるけれども、この本はその前の時代について書かれた本だ。
カンブリア紀の前、先カンブリア紀の生き物というのはエディアラカラ生物群というのが有名だが、この本ではさらに時代を遡っている。もう、その時代になってくると細菌の世界になってくる。化石といってもこれは本当に化石なのかというものになってくるのでまるで推理ゲームをするような展開になっている。

時代は43億年前、この時代に生命の萌芽が見られると著者は推理している。実際、代謝をしながら世代交代をする、膜によって外界と隔てられた生物(これが生物の定義だそうだ)がどんなきっかけで生まれたかということはこの本にも具体的なことは書かれていないが、その最初はRNAであったかもしれないと書かれている。RNAというのはDNAから転写された情報を受けてたんぱく質をつくる核酸だが、この物質が雪のように降り積もって積層してできた有機物の膜の間に挟まれて細胞のような形のものができたというのだ。イメージとしてはラザニアのようなものだったのだろうか・・。
その場所は海底の熱水が噴出する場所であった。その痕跡は炭酸岩塩の結晶として発見された。ただ、あまりにも古い地層のためにこれが自然に結晶してできたのか、生物(好熱性微生物)なのかはじつははっきりわからないそうだ。ただ、ストロマトライトの化石の構造にはよく似ているので生物の痕跡であるという期待は大きい。

それから約28億年という長い時代は細菌の時代であった。RNAによる情報伝達はDNAがとってかわる。また、バクテリア同士の融合というものも進んだ。有名な話だが、葉緑体やミトコンドリアは他の細菌に取り込まれたバクテリアの名残なのである。初期の生物というのはかなり自由だったようだ。そんな自由な生き方が今の生物がもつ細胞の基礎を作ったということか。その次にDNAが核膜で包まれた真核生物が生まれる。多細胞生物への足掛かりである。

ここからが生物の多様性のスタートになる。
ただ、そう簡単にはいかない。次の時代はエディアラカラ生物群という殻を持たない生物の時代を迎えるが、その前に細菌たちの大量絶滅が待っていた。全球凍結という、赤道面にまで氷河がやってくる時代だ。細菌の時代は非常に安定したと想像でき、この大量絶滅がなければ新しい生物の時代の幕は開かなかったと考えられている。巨大隕石が衝突して恐竜が絶滅し哺乳類の時代を迎えたのと同じことがこの時代でも起こっていたというのである。

なんとも長い長い物語だ。簡単に28億年というけれども、あまりにも長すぎて想像できない。そして、地球が生まれて46億年というが、生物というのは地球が出来上がってかなり早い時期に生まれたというのが驚きだ。地球は最初のころからすでに不毛の地ではなかったというのが驚きだ。
なんとかわかるところを拾ってつなげるとこんな感じだろうか・・。
かなり抜けている部分があると思うがこれが僕の読解力の限界だ。

以下に備考として単語の解説を書いておく。
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シアノバクテリア
藍色細菌ともいう。かつては藍藻と呼ばれていたが、近年の研究により、細菌類と同じ原核生物であることが明らかになった。クロロフィルa、β(ベータ)‐カロテン、フィコビリンなどの色素を含み、光合成を行う。湿地や水たまり、あるいは水槽の縁などに発生して、緑色のねばねばした膜状になる。最古の生物の1つで、35億年前の地層からシアノバクテリアに似た化石が発見されている。進化遺伝学的な研究により、光合成能力をもつシアノバクテリアが、他の細菌と共生的に合体することによって真核生物が生じ、シアノバクテリアは葉緑体となったと考えられている。

ストロマトライト
藍藻(シアノバクテリア)類の死骸と泥粒などによって作られる層状の構造をもつ岩石のことである。特に、内部の断面が層状になっているものを指す。

原核生物
真核、つまり明確な境界を示す核膜を持たない細胞からなる生物のことで、すべて単細胞生物。
真核生物と対をなす分類で、性質の異なる細菌(バクテリア)とアーキア(旧名:古細菌)の2つの生物を含んでいる。細菌はこれ

真核生物
動物、植物、菌類、原生生物など、身体を構成する細胞の中に細胞核と呼ばれる細胞小器官を有する生物である。真核生物以外の生物は原核生物と呼ばれる。
生物を基本的な遺伝の仕組みや生化学的性質を元に分類する3ドメイン説では、古細菌(アーキア)ドメイン、細菌(バクテリア)ドメインと共に生物界を3分する。他の2つのドメインに比べ、非常に大型で形態的に多様性に富むという特徴を持つ。かつての5界説における動物界、植物界、菌界、原生生物界の4界は真核生物に含まれている。

古細菌
生物の主要な系統の一つである。細菌(バクテリア)、真核生物(ユーカリオタ)と共に、全生物界を3分している。古細菌は形態や名称こそ細菌と類似するが、細菌とは異なる系統に属しており、その生態機構や遺伝子も全く異なる。非常に多様な生物を含むが、その代表例として高度好塩菌、メタン菌、好熱菌などが良く知られている。
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ワカメ採り2回目

2020年04月06日 | Weblog
今年2回目のワカメ採りはこんなに遅くなってしまった。先月来休みと天気が全然合わなかった。今日も強い北風が吹いていたが無理をして出てみた。風が強すぎたら今年のワカメ採りは1回だけで終了のつもりだった。
またまた愚痴になるけれども今週の休みは3日と7日に入れていた。これはもう、運だけの問題だが、3日も穏やかな天気で明日の7日も穏やかな予報だ。それが今派遣されている先の都合で2日と6日に変更されて両日とも風が強い日に当たってしまった。僕には何の義理もないので自分の休みたい日を主張すればよかったのだがなぜか親切心を出してしまったのがあだになってしまった。

干潮時刻は11時頃なので2時間前に出港してみるとすでに港内から風も波も強い。カメラを構えたら一発で壊れるほどの波しぶきが上がっている。一文字の切れ目を出てみたがまったくダメだ。波も風も強すぎる。仕方がないので沖の一文字の際に寄ってみるがワカメは見えない。青岸の際の離れテトラも風が強くて近づけず、市堀川側の少し穏やかな側から覗いてみたがまったくワカメは見えない。どっちにしてもここのワカメは美味しくないが・・。
多分無理だと思いながら新々波止の南側を覗いてみるがやっぱり近づけるような状態ではない。そこからはいつもワカメを採る場所が遠くに見えるのだがここから見ているとなんとなく行けそうな雰囲気だ。遠くから見るとあまり波が目立たなくてそう見えるものだ。せっかくここまで来たのだからとりあえず行ってみよう。南側には障害物がないのでものすごく危険というほどでもあるまい。
しかし、ポイントに近づくと磯の際は跳ね返りの波でデッキの上で立っていられない。海面から観察してみるといい感じのワカメが見えるが10分といられなかった。もう一箇所、大島の北面に行ってみた。ここは北風をまともに受ける場所だが広い浅場のためかそれほど波が立っていない。



とりあえず碇を打って探ってみるとワカメはたくさんあるけれどもすでに大きくなりすぎている。それは当然だ、前回、3月20日時点でほぼベストの状態のワカメだったのでそれから半月以上経っているのだから・・。
採った分半分くらいを捨て、まだ柔らかそうなものだけを選りながら水揚げを続ける。これは採っている人しかわからないと思うのだが、海面に出てきたときに褐色の中にわずかに緑色が透けて見える株がある。これがいいやつなのでそれを見極めながらの作業だ。ついでに再びあの場所に戻れないかと遠くの煙突の煙を見極めながらワカメを採り続けるがあいかわらず風は治まらない。

 

一瞬、煙が西にたなびいたので急いで戻ってみたが再び風が強くなってきた。またもとの場所に戻って少しだけ追加して終了。
届けたい人たちに送る分はなんとか確保できたという程度だろうか・・。


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「21 Lessons」読了

2020年04月05日 | 2020読書
ユヴァル・ノア・ハラリ/著 柴田 裕之/訳 「21 Lessons」読了

「サピエンス全史」「ホモ・デウス」の続編になる。「サピエンス全史」では人間の過去を、「ホモ・デウス」では生命の遠い未来を考察し、本書では長期的な視点を見据えながらも“今、ここ”に焦点を絞って考察を展開している。

目次を見てみると以下のとおりである。
1 幻滅――先送りにされた「歴史の終わり」
2 雇用――あなたが大人になったときには、仕事がないかもしれない
3 自由――ビッグデータがあなたを見守っている
4 平等――データを制する者が未来を制する
5 コミュニティ――人間には身体がある
6 文明――世界にはたった一つの文明しかない
7 ナショナリズム――グローバルな問題はグローバルな答えを必要とする
8 宗教――今や神は国家に仕える
9 移民――文化にも良し悪しがあるかもしれない
10 テロ――パニックを起こすな
11 戦争――人間の愚かさをけっして過小評価してはならない
12 謙虚さ――あなたは世界の中心ではない
13 神――神の名をみだりに唱えてはならない
14 世俗主義――自らの陰の面を認めよ
15 無知――あなたは自分で思っているほど多くを知らない
16 正義――私たちの正義感は時代後れかもしれない
17 ポスト・トゥルース――いつまでも消えないフェイクニュースもある
18 SF――未来は映画で目にするものとは違う
19 教育――変化だけが唯一不変
20 意味――人生は物語ではない
21 瞑想――ひたすら観察せよ

それぞれのテーマも最後に次のテーマとなるキーワードが現れ、それをリレーのように引き継いで文章は続いてゆく。

全体を通しては「ホモ・デウス」に書かれていた考えとほぼ同じである。情報テクノロジーとバイオテクノロジーの融合による未来だ。
ひとつは雇用の減少。僕もそのひとりに含まれてしまっている感があるけれども、単純作業の仕事はAIにとって代わられ、また、芸術の分野にもそれは波及し、ひとりひとりに心地よい音楽や絵画などは個人の様々なデータを取り込んだAIがお勧めし、創り出してくれる。そんな環境の中で人間に残された仕事はコンピューターに唯一できない子供を育てることだけになってしまうという。
また、格差という面では、裕福な人々は自らの体を改変し「超人」となり、それができない人たちは普通の人間として生涯を終える。
これは遠い未来ではなく現在もそのとば口に入っているような気がする。遺伝子操作などというとかなり先と思うが高度な治療などというと、もう少しするとお金のある人は受けることができるがお金がないと“竹コース”までしか無理というのはもうほんのそこまで迫っているのではないだろうか。義理の父は年間1400万円かかる治療で肺癌を克服できたがいつまでもそんな治療を国民全部が受けられる時代は続かないのではないだろうか。

そしてそんな世界では宗教さえも無駄なものとなってゆく。著者は宗教に対してはかなり手厳しい意見を述べている。宗教は現在の富の源泉である科学技術の発展に対して何の貢献もしてこなかったと断言する。
また、人権というものについても超人の出現のもとでは何の役にも立たないとも言う。人権運動というのは宗教偏見や暴君に対しては効果的だが超人やサイボーグ、超知能を持つコンピューターに対処する用意はないに等しいというのだ。

このような不平等の世界ではほとんどの人が搾取ではなく、それよりもはるかに悪いもの、すなわち存在意義の喪失に苦しむことになるかもしれないと結論付けるのである。
存在意義の喪失・・・、それはべつに遠い未来のことではない。現に今の自分の身にふりかかってしまっている現実である。これは遠い未来の話ではない。

しかし、それを考えるとき、原因となるもの、例えば国家、宗教、企業それらすべては虚構でしかないという。これは前の著作でも同じことが語られていたが、そうであるとなると、僕に強制労働のような命令を下した大元も虚構でありその命令も幻ということになる。そしてその虚構をすべて取り去ってしまったあとに残るのは、「どうやったら苦しみから逃れられるのか」というものだと著者は分析する。堂々巡りのようだが虚構がその原因なら何も気にしなくていいようなものだけれども、やはりそう簡単に割りきれるものではない。
前の上司は必ず彼の上司の悪口を先途言ってから会議を始めていたが、それでもきちんとその上司に仕えている。僕の母も僕の奥さんの悪口を車の中で先途ほざきながら食卓では何のわだかまりもなく会話を続けている。
意外と世の中の人たちは自分の周りの事どもはすべて虚構で気にする方が馬鹿々々しいと理解しているようだ。
しかしながら僕はどうもそんなに割り切れない。綺麗なものは綺麗と思い、汚いものは汚いとしか思えない。そのうえ、僕は今の会社に対して特にそれほど愛着があるわけではないのにそれに裏切られてしまうとその苦しみから逃れられなくなる。まったく矛盾している。
自分でも一体どうしたらいいのかがわからなくなる。
この本は少し未来、アルゴリズムが人間の感情を支配してしまった後の人間の生き方について考察するように喚起する内容であるのだが、僕にとっては今の感情をどうやってうっちゃるのか、それをひたすら考えさせられる内容であった。

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