久しぶりに神社へ参拝に行ってきた。
近くにありながらもしばらく行っていなかった氏神さまの参拝にどうしても行きたかった。
神社へ行く前はいつもそうなのだが、なるべく自分の心を透明に近づけておきたいと思ってしまう。
神さまの前に出る時には、心配事や悩み事などといった余計なことは一切無くして、頭も心もすっきりとした状態でいたい。
そうしなければ自分の中のもやもやとしたものを神さまに見透かされることに、なにか気恥ずかしさのようなものがあり、とてもじゃないが神さまの前に出ることができない。
しかし、ここしばらくすこし気にかかることがあり、頭と心からもやもやとしたものが取れない状態が続いていた。
こんな気持ちでは神様の前に出られないと思っていたことも、しばらく神社へ足が向かなかった理由かもしれない。
しかし昨日はやはりどうしても行きたいという気持ちを押さえきれず、もやもやはまだ取れなかったが氏神さまである神社へ参拝をした。
その神社は地域の中に在る小さな神社だが、いつも綺麗に掃き清められ清々しい空気が漂っている。
そして昔は参拝に訪れる人も少なかったが、マスコミで紹介されたこともあってか年々参拝する人が増えてきて、昨日も次々と参拝客が来ていた。
御祭神は天照大神。
拝殿の前で手を合わせて感謝を捧げ、清々しい空気を吸い込んだら、すこし気分がすっきりとしたような気がした。
さて昨日は氏神さまへの参拝をしたが、そうなれば次は崇敬する神社へも行きたくなった。
・・・というわけで、今朝は相馬神社へ行くことにした。
上の写真はまだ寒い時期の相馬神社だが、現在はご神木である栗の木に葉が生い茂り、まるで森林の中に神社が建っているかのように見える。
御祭神は天之御中主神。
相馬神社の急勾配の参道を登っていくうちに、だんだん心のもやが取れていき代わりに喜びが沸きあがってきた。
拝殿の前で手を合わせる頃にはもう嬉しくて仕方がなかった。
嬉しくて嬉しくて、そして名残惜しくて神社から帰りたくないくらいだった。
今は心のもやもすっきりと無くなったような気がしている。
神社への参拝だけで、こんなに自分の気持ちに変化が起きるなんて、以前は考えられなかったことだ。
ところで、日本人は古来から西洋のように唯一絶対の神を持たず、大自然そのものを神として崇め、時には災いをもたらすような怨霊でさえ神として崇めてきたのだそうだ。
また祖先神と言われるように自分達の祖先も神として崇めることも神道では古来から行われてきたことだとか。
人々は祖先である神々や大自然に感謝をし、時には災いを鎮めるために怨霊さえも祀ってきたそうだ。
このようなことが古来から日本人の精神の拠り所とされてきたのだが、これらを非科学的、迷信だと一笑してしまうことはあまりにも軽率なことかもしれない。
昔、私は神社とは自分の願いをお願いしに行く所であり、個人的な願い事ではなく、ただ感謝をするなどとは考えたことも無かった。
もちろん大自然も祖先も、感謝どころか興味すら無かった。
以前書いたかもしれないが、子供の頃はよく他の人には見えないものがよく見えていたり、大人になってからも心霊現象と言われるようなことに度々遭っていたが、自分で体験していたにもかかわらず、そのような話をするのは恥かしいことで、そんなことは非科学的だと思い込んでいたところがあった。
これは目に見えない世界のことには全く関心がなく、毛嫌いさえしていた両親の影響が大きかったのかもしれない。
しかし、特にここ数年は何か大きな流れの中に、まるで意図的に流されているような錯覚に陥ることがある。
それは唯一絶対神ではなく、大いなる存在、すべてに宿る神という存在を意識した時から始まったような気がする。
迷信でもなく、非科学的でもなく、確かに何か大いなるものが存在している。
それはどこか遠い空の上にいるのではなく、もちろん神社にだけいるのではなく(神社の方がつながりやすいとは思うが)いつも自分と一緒に存在している。
そして、これは誰にとっても同じだと確信している。
そう思う私にとって、古来の人々と同じように大自然や祖先への崇拝は精神の拠り所になっていると思う。
近くにありながらもしばらく行っていなかった氏神さまの参拝にどうしても行きたかった。
神社へ行く前はいつもそうなのだが、なるべく自分の心を透明に近づけておきたいと思ってしまう。
神さまの前に出る時には、心配事や悩み事などといった余計なことは一切無くして、頭も心もすっきりとした状態でいたい。
そうしなければ自分の中のもやもやとしたものを神さまに見透かされることに、なにか気恥ずかしさのようなものがあり、とてもじゃないが神さまの前に出ることができない。
しかし、ここしばらくすこし気にかかることがあり、頭と心からもやもやとしたものが取れない状態が続いていた。
こんな気持ちでは神様の前に出られないと思っていたことも、しばらく神社へ足が向かなかった理由かもしれない。
しかし昨日はやはりどうしても行きたいという気持ちを押さえきれず、もやもやはまだ取れなかったが氏神さまである神社へ参拝をした。
その神社は地域の中に在る小さな神社だが、いつも綺麗に掃き清められ清々しい空気が漂っている。
そして昔は参拝に訪れる人も少なかったが、マスコミで紹介されたこともあってか年々参拝する人が増えてきて、昨日も次々と参拝客が来ていた。
御祭神は天照大神。
拝殿の前で手を合わせて感謝を捧げ、清々しい空気を吸い込んだら、すこし気分がすっきりとしたような気がした。
さて昨日は氏神さまへの参拝をしたが、そうなれば次は崇敬する神社へも行きたくなった。
・・・というわけで、今朝は相馬神社へ行くことにした。
上の写真はまだ寒い時期の相馬神社だが、現在はご神木である栗の木に葉が生い茂り、まるで森林の中に神社が建っているかのように見える。
御祭神は天之御中主神。
相馬神社の急勾配の参道を登っていくうちに、だんだん心のもやが取れていき代わりに喜びが沸きあがってきた。
拝殿の前で手を合わせる頃にはもう嬉しくて仕方がなかった。
嬉しくて嬉しくて、そして名残惜しくて神社から帰りたくないくらいだった。
今は心のもやもすっきりと無くなったような気がしている。
神社への参拝だけで、こんなに自分の気持ちに変化が起きるなんて、以前は考えられなかったことだ。
ところで、日本人は古来から西洋のように唯一絶対の神を持たず、大自然そのものを神として崇め、時には災いをもたらすような怨霊でさえ神として崇めてきたのだそうだ。
また祖先神と言われるように自分達の祖先も神として崇めることも神道では古来から行われてきたことだとか。
人々は祖先である神々や大自然に感謝をし、時には災いを鎮めるために怨霊さえも祀ってきたそうだ。
このようなことが古来から日本人の精神の拠り所とされてきたのだが、これらを非科学的、迷信だと一笑してしまうことはあまりにも軽率なことかもしれない。
昔、私は神社とは自分の願いをお願いしに行く所であり、個人的な願い事ではなく、ただ感謝をするなどとは考えたことも無かった。
もちろん大自然も祖先も、感謝どころか興味すら無かった。
以前書いたかもしれないが、子供の頃はよく他の人には見えないものがよく見えていたり、大人になってからも心霊現象と言われるようなことに度々遭っていたが、自分で体験していたにもかかわらず、そのような話をするのは恥かしいことで、そんなことは非科学的だと思い込んでいたところがあった。
これは目に見えない世界のことには全く関心がなく、毛嫌いさえしていた両親の影響が大きかったのかもしれない。
しかし、特にここ数年は何か大きな流れの中に、まるで意図的に流されているような錯覚に陥ることがある。
それは唯一絶対神ではなく、大いなる存在、すべてに宿る神という存在を意識した時から始まったような気がする。
迷信でもなく、非科学的でもなく、確かに何か大いなるものが存在している。
それはどこか遠い空の上にいるのではなく、もちろん神社にだけいるのではなく(神社の方がつながりやすいとは思うが)いつも自分と一緒に存在している。
そして、これは誰にとっても同じだと確信している。
そう思う私にとって、古来の人々と同じように大自然や祖先への崇拝は精神の拠り所になっていると思う。