今日でお彼岸が終わる。今朝も長寸のお線香をあげてご先祖の方々に感謝を捧げた。
手を合わせると、亡き両親の顔、祖父母の顔、そして義理の両親らの顔が浮かんでくるが、自分の知っている人だけではなく、数え切れないほどの多くの方々に対して感謝する。
お彼岸の間は、普段より長く燃えているお線香を焚いていたのだが喜んで頂けただろうか。
肉体は無くなっても魂は生き通し。自分のできることで、少しでも多くの魂に喜んで頂きたいと思う。
お寺には20日に行った。
お寺に行くのは納骨堂があるからなのだが、結婚前は実家ではお墓に行っていたので、最初は納骨堂というものに違和感があった。
でも今はすっかり慣れて、天候に左右されずお参りができるので、納骨堂もまたいいかと思うようになった。
しかし、どちらにしろ自分が亡くなったあとは、納骨堂にもお墓にも居ないような気がしているので、どちらでもいいのだが、、、
とはいえ、中には納骨堂やお墓にずっと留まっている人もいる。
特に外にあるお墓と違って、お寺という建物の中にある納骨堂では、亡くなった人をより間近に感じる。
見えないが、ああいるな、、と思う。
だから、納骨堂の中をウロウロ歩き回ることは極力しないようにしている。自分に関係する祭壇にお参りしたら、あとはさっさと帰るのみ。
身内ならまだいいのだけど、外でまったく知らない魂に寄って来られるのはとても困る。
可哀想だけど、何もしてあげられない。
こんなに毎日、お坊さんの読経を聴いているのに成仏できていないのは、どういうことかと思う。
やはり形ばかりのお経を聴いても嬉しくないのだろうか。
ところで、この日は納骨堂にお参りに行ったあと、いつもの温泉に行った。
お風呂の中では、お彼岸ということもあって、お湯に浸かりながら常連のお姉さま方がお墓参りに行ったとか、お坊さんが家に来たとか、ウチはどこの宗派だという話で盛り上がっていた。
そんな中で一人の女性が話し始めた。
「ウチの夫が亡くなったのもお彼岸だったの。もう死んでから30年も経つけどね」
この女性のご主人は50代の若さで亡くなったらしかった。
「夫はね、そりゃいい男だったんだよ。男前でね、アメリカ人にユアハズバンド、ムウビースター?って言われたこともあった。意味わかる?あなたの夫は映画スターかって聞かれたの」
周りで聴いていたお姉さま方が一斉に頷く。
「結婚してからも見惚れるくらいハンサムで、しかも浮気なんて一度もない。真面目でホントにいい男だった」
以下、延々とご主人がどんなにいい男だったかという話が続き、周りから一人減り二人減りとなり、最後は誰も居なくなってしまった。
誰も他人の旦那の自慢話は聞きたくない。
聞きたくないのはわかるが、私は、それが微笑ましくてうらやましかった。
30年経っても、まだご主人のことをハンサムでいい男だったと褒めちぎる奥さんは幸せだったんだなあと思う。
そして亡きご主人も、きっと奥さんの話を聴いて喜んでいるだろうと思った。
お彼岸は、亡き人に感謝して喜んでもらう日。
もしかしたら違った解釈が有るのかもしれないが、そんなふうに思うお彼岸だった。