迎え火で御先祖やご縁のある方々の霊をお迎えし、どこへ出かける予定もなく、お盆は霊になった方々と一緒に家で過ごしている。
迎え火をした翌朝リビングに入ると、いつもはしないお線香の強い香りがしたのは、来てくれた証拠なのだと思って、せめてお盆期間中は家で穏やかにくつろいで頂きたいと、気持ちだけはおもてなしを心がけている。
おもてなしと言えば、昔はなぜ自分ばかりがおもてなし(主に食事の支度)をしなければいけないのか、、と思っていたことがあった。
年に一度泊まりがけで遊びに来る義父母のおもてなし、家に集まる親戚のおもてなし、遠方から毎年遊びに来てくれる友人夫婦をもてなし、また親しいママ友たちを招いて食事を振る舞うこともよくやっていた。
料理をすることは好きだが、おもてなしとなると頭を悩ますことも度々で、メニューを考え買い物に行き、料理、掃除、片付けなど、終わった時には疲労困憊。
楽しかった気持ちはあるが、一方で「なぜ自分ばかりがおもてなしする側なの?」という不満が募っていた。
この「自分ばかり」というのがクセ者で、私の悪いクセでもある。
でも今、自分ばかりが、、と思っていた自分に言いたい。
まず「自分ばかり」と思っていたのがそもそもの間違いで、よく考えてみれば、私だって食事をご馳走になったことが何度かあった。
お料理上手な親戚のおばさんが作ったコロッケがとても美味しかったし、義理の姉が作ってくれた鍋ものも絶品だった。
またわざわざお土産を持って遠方から訪ねて来てくれる友人がいるなんて、本当にありがたいことではなかったか。
さらにママ友たちと食事をしながらのおしゃべりは楽しくて、本当は自分がしたいからやっていたのではなかったのか。
そんなことを考えて反省しているが、義父母が亡くなり、コロナもあっておもてなしをする機会もめっきり減った。
今は月一でやって来る長男一家のおもてなしをするくらいだが、毎回メニューを考えて準備するのは昔と同じで、違うのはもう昔のように頑張らないし、見栄を張らないこと。
昔は「すごいごちそう!大変だったでしょう?」と言われるのが単純に嬉しかった。
そこで涼しい顔をして(本当はめっちゃ疲れている)、「ううん全然」と見栄を張った。
でも今は買ってきたパンやお寿司を並べることもある。
それに手作りのサラダやスープ、デザートなど簡単なものを並べるが、長男夫婦は喜んで食べてくれる。
お盆だからと来てくれた今日は、主菜を夫におまかせした。
夫が定年後に覚えた数少ないレパートリーから、イチオシのトマトとアンチョビのパスタを作ってもらって、あとは作り置きしていたものを並べた。
簡単なものばかりの食事だったが、一ヶ月見ない間にできることが増えた孫を見て、日々の成長の話を聞きながらの食事は楽しいひとときだった。
気のせいか、見えない方々も一緒に食事をしながら笑っているイメージがした。
おもてなしというと、ついつい頑張って無理をしてしまう私だったが、本当はそうではなくて、質素な食事でもみんなで一緒に楽しむことだったと今は思う。
共に喋って笑って楽しむ。
それが何よりのおもてなしだったことを、還暦を過ぎてやっとわかったかもしれない。