朝食の準備をしていたら、一番最初に起きてきた次女から「お誕生日おめでとう。仕事忙しくて何も買ってないけど」と言われた。
そうだった。今日が誕生日だったことを思い出した。
これまで何度も繰り返してきた誕生日だが、63回目ともなるとあまり嬉しくもなくすっかり忘れていた。
でも次女からの言葉は、ぶっきらぼうだけどすごく嬉しかった。
プレゼントなんて無くたって全然かまわない。言葉のプレゼントで十分すぎる。
その後に起きてきた夫は、顔を合わせた途端、いきなりハッピーバースデーの歌を歌ってくれた。
また次に起きてきた長女と一緒にもう一度ハッピーバースデーの歌をうたい、そして踊ってくれた。(大笑い)
その後も長男からおめでとうのメールが届き、さらに32歳の長男が赤ちゃんだった時からのママ友からもメールを頂いた。
そして最後は高校時代の友人たちからのメールで、ここまでくるともう喜びが止まらなくなっていた。
なんて自分は幸せなんだろう。ありがたいありがたいと感謝でいっぱいになった。
実はコロナ禍以降、たまに孤独を感じるようになっていた。
他人とほとんど会わなくなったことから、いつの間にか自分の内へ入って行くようになった。
そこで感じたこと、自分なりにわかったことを誰かに聞いてもらいたいと思った。
でもそれを話す人がいない。
家族であっても理解されず、ましてや共感してもらうなんてことは難しいし、友人なら尚更、この様なことを話題にした時の反応を想像すると、話したいという気持ちはしぼむ。
だから当たり障りのない話題になる。
もっともっと知りたい、わかってくれる人と話したいと思って孤独を感じていた。
こうして自分の心の内を書くことができるブログがあって本当によかったと思う。
でも今は孤独感はほとんど無くなり、自分の内へ入って行くことが楽しくて仕方がない。
内へ入るようになってから、急速に日々いろいろな気づきがある。
自分の内側も「自分」だが、不思議なことに、これまで気づきもしなかったことで新たな気づきがあったりと、目から鱗が落ちることがしばしばある。
そして今、私は孤独では無かったこと、誰もわかってくれないという思い込みは私の傲慢さだったことを思い知らされている。(これもまた気づいたこと)
たとえば家族や友人が誰もいない人であっても決して孤独ではないのだと思う。
それは常に自分の中には大いなるものが存在しているから、耳をすませば的確な気づきをくれる。
さらに大勢の先祖やご縁のある方々が「がんばれよ」と思いながら、じっと見ていてくれるのだと思う。
なんだか最後はまとまりがつかなくなってしまったが、これからも周囲の方々に対して、自分ができることをやっていこうと誓った63回目の誕生日だった、、、ということで強引に終わりたいと思います。